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再会・紅茶の国で
戦場で飲んだコーヒーの味が、忘れられなかった。
いつか喫茶店を開きたい、と思った最初のきっかけが、それである。
同じ部隊に配属されたアメリカ人の傭兵が、野営地でコーヒーを振る舞ってくれたのだ。
お前ら紳士気取りのヨーロッパ野郎は、紅茶ばっかり飲んでアメリカン・コーヒーを馬鹿にしてやがるだろう。そんな事を、言いながら。
飲まされたのは、今思えば粗悪なインスタントコーヒーである。
あの味が、しかしヴィルヘルム・ハスロは忘れられなかった。
だが喫茶店を開くとなれば、コーヒーだけでは片手落ちというものである。紅茶にも、こだわらなければならない。
だからヴィルヘルム・ハスロは今、ダージリン地方を訪れていた。
この辺りで紅茶を買い付けるとなれば、まず話を通さなければならないのはタッカー商会である。
総社長の子息とは5年ほど前、僅かな縁を持つ事が出来た。
「あの御曹司も……私の事など、覚えてはいないだろうが」
人脈となり得るような、深い繋がりはない。喫茶店の商売に役立てる事は、出来ないだろう。
タッカー商会との関係は、1から地道に作り上げてゆかなければならない。
商会の重要人物に、何かしら恩を売る事が出来れば、最も都合が良い。
今回の事件は、だから好機とも言える。
「武装グループ……ですか」
ヴィルは、眉をひそめた。いつ、どこで聞いても、嫌な単語である。
武装グループ。はっきり言って、吸血鬼の類よりも悪質な相手だ。
「商会の幹部の方が、拉致されてしまったと?」
「身代金の要求が、来ているのです」
タッカー商会・ダージリン支部の責任者が、青ざめている。
武装グループに拉致されたという商会幹部の身に万一の事があれば、彼の責任問題となるのであろう。
「用意出来ない金額では、ないのですが」
「払うべきではない、と私は思いますよ」
商会の関係者でもない自分が余計な事を言っている、とヴィルは頭では理解していた。
「武装グループという者たちの性質は万国共通。1度、身代金を払っただけで人質を解放してくれる事など、まずありません。5度6度と金を吸い取られた挙げ句、返って来るのは人質の死体……このままでは十中八九、そうなるでしょう」
傭兵を廃業し、喫茶店を始めるつもりでいる。
だが気が付けば、傭兵として物を言っている自分がいる。ヴィルは、苦笑するしかなかった。
「お、おねげぇいたします。あの若様を、助けてくだせえ……」
現地人らしき1人の男が、泣きそうな声で哀願をしている。
ヴィルが支部責任者と商談を始めようというところへ、この男が飛び込んで来たのだ。
「わしらに、いろいろと良くしてくれてる若様なんでさぁ」
「若様……」
まさか、あの御曹司ではあるまい。ヴィルは、そう思った。
誰であるにせよ、タッカー商会の幹部が産地視察の最中、武装グループに拉致されてしまった。
それならば、ヴィルの為すべき事は1つしかない。
「お借りしますよ」
立てかけてあった警護用の小銃を、ヴィルは手に取った。
傭兵の仕事は、辞めるつもりでいる。が、戦う事まで止めるわけではない。
武装グループの男たちが、明らかに怯え始めていた。
「そんなふうに、化け物を見るような目をされては心外ですね。傷付いてしまいますよ」
穏やかに、ダグラス・タッカーは言葉をかけた。
商会が懇意にしている村の、広場である。
村人たちが一ヵ所に集められ、武装グループに囲まれて小銃を突き付けられている。
こんな状況ではダグも、無抵抗で拉致されるしかなかった。
抵抗をやめたダグに、武装グループの男たちはまず注射器を突き刺した。眠らせる、つもりであったのだろう。
一向に眠くなどならずにダグは今、地面に座らされたまま、紅茶を啜っている。
武装グループが、ダグの所望に応じて振る舞ってくれたのだ。
何やら、いろいろと入っている。普通の人間がこれを飲めば、たちどころに眠りについて2、3日は目覚めないであろう。
「お、おい。眠いんじゃねえのか? 無理しねえで、寝ちまえよ」
武装グループの男たちが、ダグに小銃を向けながら、そんな事を言っている。
「おめえが寝てる間に、身代金の交渉とか済ませてやるからよ……」
「へ、へへへ。おめえが無事に起きられるかどうかは、商会の連中の金払い次第だぜ」
「おら、とっとと寝ろよ。眠っちまえよ!」
やはり、怯えている。
ダグは、苦笑するしかなかった。
「お茶を飲んで、眠れるはずがないでしょう。一体何を入れたのか、よくは知りませんが……貴方たちが使うような毒物・薬物で、私の身体に影響を及ぼす事は出来ませんよ」
眼鏡越しに視線を投げかけ、端正な口元をニコリと歪めてみせる。
「ブラックウィドーやイエローファットテールの毒に比べたら……こんなものは、ね」
インド・ネパール国境付近で活動をしているグループである。
タッカー商会の名前くらいは知っていたようだが、そこの御曹司がどういう人間であるのかは知らなかったようだ。
「だから、やめとけって言ったのに……」
捕まっている村人たちが、口々に言った。
「その若様はな、お前さん方でどうこう出来るような御仁じゃないよ」
「イギリスから、お金持ちのボンボンが来る……くらいにしか、思ってなかったんだろうが」
「もうバカな事はやめて、俺たちと一緒にタッカー商会の下で働こう」
「だ、黙れ! 黙りやがれ裏切り者ども!」
男の1人が、今にも小銃をぶっ放してしまいそうな剣幕で叫んだ。
「くそったれなタッカー商会のせいで、俺たちは仕事を無くしちまったんだぞ!」
「お仕事なら、いくらでも差し上げますよ。良い茶葉を作って売る、そのためには人手が必要です」
ダグは一口、毒入りの紅茶を啜った。
「お忘れなきように……貴方がたに作っていただきたいのは、上質のダージリン紅茶です」
そうではないものを、この村人たちはダージリン地方で密かに栽培していた。
それが紅茶の販路に紛れ込んで流通している。武装グループの、資金源となっている。
だから潰した。
やり方は簡単だった。この地方の人々が真っ当に働いて生産している茶葉を、正当な値で買い取る。違法なものの栽培などという副業に手を出さずとも、生活してゆける環境を整える。
その環境に適応出来ない者たちが、こうして無法な行いに走ってしまう。ダグにとっては、まあ想定内だ。
「紅茶なんか売ったって、大して儲けにならねえだろうが! 俺にはな、女房もいりゃあガキどももいる。金が必要なんだよ、ガキどもにまともな暮らしをさせてやれる金が!」
「御家族の事を思うなら尚更です。麻薬の栽培など、おやめなさい」
ダグは言った。
「麻薬の利害は、大勢の人をたやすく殺してしまいますよ」
「利いた風な事を!」
男がダグに小銃を向けた、その時。
闘争の気配が、漂ってきた。銃声も聞こえた。
「な、何だ! 敵か!」
「馬鹿な、軍が動いてるなんて情報はねえ」
武装グループの男たちが、慌てふためいている。
誰か来たようだが軍ではないだろう、とダグは思った。銃声から判断するに、恐らくは1人か2人だ。
「まさか……ね」
ダグは苦笑した。一瞬、とてつもなく愚かな事を期待してしまったのだ。
聞こえて来る銃声は、馴染みある2丁拳銃ではなく小銃のものだ。彼が助けに来てくれた、わけではない。
「……自力で何とかするしかない、という事ですね」
巧遅よりも拙速を尊ぶべき場合というものが、戦場には確かにある。
機会を見出したなら、勢いに任せて攻撃に出る。時間をかけてあれこれと準備を整えるよりも案外、その方が上手くいったりする事が多い。
だからヴィルは、武装グループに占拠された村へと単身、乗り込んで行った。
こちらが身代金を携えていないと見るや、武装グループの男たちは、村のあちこちから容赦なく銃撃を浴びせて来た。
いや。浴びせられる前に、ヴィルは小銃の引き金を引いていた。銃口が、様々な方向へと小刻みに揺れながら火を噴いた。
民家の屋根の上で、塀の陰で、こちらに小銃を向けようとしていた男たちが次々と倒れてゆく。
全員、腕または脚を撃ち抜かれていた。
この程度の敵であれば、無力化するのに命まで奪う必要はない。人間、四肢のどれかが動かなくなれば、大抵は戦闘不能となる。
「人殺しが出来なくなっている……のかな、私は」
ヴィルは苦笑した。
傭兵を辞める、などという心境に至るまで自分が生きていられるとは、思ってもいなかったのだ。
喫茶店を開きたいなどと、傭兵になりたての頃の自分が聞いたら、激しく嘲笑うだろう。
コーヒーの味を教えてくれたアメリカ人傭兵は、中東某所で戦死した。武装勢力に殺されたのだ。
仇を討つ機会はあった。その武装勢力が拠点としている村に、攻撃を仕掛ける機会はあったのだ。
だが、出来なかった。
村で、子供たちが無邪気に走り回っていたからだ。
アメリカ人傭兵を撃ち殺した男が、その子供の1人を抱き上げていたからだ。抱き上げられた子供が、楽しそうに笑っていたからだ。
親子かどうかは、わからなかった。
自分にも子供がいる。ヴィルが思ったのは、それだけだ。
「私は、甘くなった……ただ、それだけだ」
このまま傭兵稼業を続けていても、仲間の足を引っ張るだけだ。
人を殺せなくなった傭兵など、喫茶店でも開いて、戦場のコーヒーを懐かしんでいるのがお似合いである。
そんな事を思いながら、ヴィルは足を止めた。
村の、広場である。
武装グループの男たちが1人残らず、倒れていた。まるで芋虫のように弱々しく、のたうち回っている。
全員、縛り上げられていた。ロープや鎖ではなく、糸のようなもので。
細い、強靭な繊維。まるで蜘蛛の糸だ、とヴィルは思った。巨大な蜘蛛が、武装グループを1人残らず糸で包んでしまった。そんな光景である。
その蜘蛛は、どこにいるのか。
「おや……誰かと思えば」
声をかけられた。
恐らく人質にされていたのであろう村人たちが、縛り上げられた男たちを、てきぱきと運び出して行く。
それを指図していた1人の若者が、声をかけてきたのだ。
「知っている人が、私を助けに来てくれたような気がしていましたよ。貴方の方でしたか、ヴィルヘルム・ハスロ氏」
「御曹司……私を、覚えているのか?」
「私は言いましたよ。貴方にはいずれ、力を貸していただくと」
御曹司が、にこりと笑った。
ダグラス・タッカー。眼鏡の内側に絶大な憎しみを閉じ込め渦巻かせていた、あの少年とは、一見すると別人のようである。こんな笑い方が出来る少年ではなかった。
何かを乗り越えたのだ、と感じながら、ヴィルは言った。
「傭兵は、辞めるつもりでいる。これからの私は、しがない喫茶店のマスターだ。御曹司に、何か力を貸せるとは思えないが」
「つまり戦闘の類ではなく、商売の方で力を貸していただけるという事でしょう?」
秀麗で人懐っこく、だが油断のならない笑み。
まさに、商売人の笑顔だった。
「茶葉の仕入れに来られたのですね。万事このタッカー商会にお任せを……極上のダージリンティーを、貴方のお店で売っていただきますよ」
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