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夏のダイヤモンド・ダスト
青霧ノゾミがこの場にいなくて本当に良かった。伊武木リョウは心から、そう思った。
「勝手な行いが……いささか多過ぎるのではないのかね」
白衣を着た老人。禿げ上がった頭にピキピキと、亀裂のような血管を浮かべている。
この研究施設の、所長である。
「まあ君には、それなりに実績というものが無くはない。ゆえに、いくつかの悪戯は大目に見てきたのだが……それが君を甘やかし、調子に乗らせる結果となってしまったようだな。我々にも責任がある」
「ほう! 貴方が責任を感じるとは大事です」
伊武木は、大げさに驚いて見せた。
「一体、何事が起こったんですか所長、貴方の責任などと……さては、この間の研究費使い込みがバレちまったんですね。仕方ありません、本社の偉い人に揉み消してもらいましょう。ああ心配御無用。そういう伝手、持ってますから俺」
「君の勝手な行動の事を言っておるのだ私は!」
所長が、激昂した。
歳も歳だし、あまり興奮しては身体に良くない。伊武木は今、本気で心配をしている。
目の前で倒れられては、迷惑極まりないからだ。
「会社の名前を使って、IO2関係者を呼び出すなど! 一体どういうつもりなのだ!」
「敵を知り己を知れば百戦危うからず……でしたっけ? とにかく、それですよ」
応えつつ伊武木は、今ノゾミがここにいなくて本当に良かったと改めて思った。
あの少年がここにいたら、この所長は今頃もう生きてはいない。凍り付き、砕け散っているだろう。
そうなったらなったで別に構わないのだが、などと思いながら伊武木は言った。
「敵か味方かで言えば、まあ敵みたいなものでしょうIO2は」
「だからと言って、表立った敵対行動を取るわけにはいかんのだぞ!」
伊武木の胸ぐらを掴みかねない勢いで、所長が怒り狂う。
「それを貴様、令状を持って押し入られるような事態に!」
「あのお嬢さんとは、穏やかな話し合いが出来ましたよ。あんな綺麗な女の子と一緒にコーヒーブレイクなんて、こんな生活してたんじゃなかなか出来ない体験ですからね」
あの少女には、解凍した青年を土産に、大人しく帰ってもらった。
「所長は……何人もの綺麗な女の子と、コーヒーブレイクどころじゃないお付き合いをなさっているみたいですが」
「な……何を、言っている……」
「特にあのフィリピンパブの娘には、ずいぶんと貢いでいるんでしょう? 程々にしておいた方が身のためですよ。いや勿論、奥様に言いつけたりはしませんが」
所長は、青ざめている。
にこり、と伊武木は微笑んで見せた。
「使い込みが、あんまり続くようじゃ……俺の伝手を使っても、庇いきれませんからね」
「リョウ先生……所長に何か、言われたんだって?」
一仕事終えたばかりの青霧ノゾミが、不穏な口調で言った。
「何、言われたの? 悪口? 嫌味? あのじじい、許せない……凍らせてやる」
「やめなさい。悪口も嫌味も、言われてないから」
伊武木は苦笑した。
「所長はね、俺を誉めてくれたんだよ。最近ノゾミが、いい仕事をしてくれてるからね」
このところ、実験体の暴走が相次いでいる。
今日も、A3研究室で造り出された新型のホムンクルスが数体、研究員を殺害して脱走し、たった今ノゾミに殺処分されたところである。
ホムンクルスが暴走するのは、ある意味、当然であると伊武木は思っている。
人間とほぼ同等の知能、そして人間を遥かに超えた力を、生まれながらに持っている生き物たち。
(人間の言う事を……いつまでも聞いていると、思う方がおかしいよな)
強大な力を持ちながら人間に従順な、ホムンクルスの成功例。青霧ノゾミは、この研究施設において、そのように見られている。
人間に従順なのではなく、伊武木リョウに従順なだけだ。そんな嫌味を言う者もいる。
伊武木本人に言わせれば、それは少し違う。この少年は、自分の言う事なら何でも聞く、というわけではない。勝手な事も大いにしてくれる。
穏やかな話をするために招待したIO2エージェントを、勝手に凍らせたりもしてくれるのだ。
「所長だけじゃない……ここの連中、許せないよ。どいつもこいつもリョウ先生に、嫌がらせばっかり」
ノゾミの愛らしい顔立ちが、怒りで歪む。青い瞳が、冷たく燃え上がる。
「外から来る連中も、許せないよ。あの緑目も、片目の女も……リョウ先生の、敵ばっかり」
伊武木リョウにとって、敵か味方か。この少年はそれを理性ではなく感情で判断し、即座に行動へと移してしまう。
短所、とは言える。が、その感情という部分にこそ、ホムンクルスという生き物の大いなる可能性がある、とも伊武木は思う。
「そうだね。あの2人は確かに、俺にとっては敵になり得るかも知れない……だけどノゾミにとっては友達だろう? 大切にしないと駄目だよ」
あの少年は、少しばかり感情的過ぎる。この研究施設には、そう言ってノゾミを危険視する者もいる。あの力を感情だけで振り回されてはたまらない、ちょっとした気分の良し悪しで大勢の凍死者が出てしまう、と彼らは言う。
感情を抑制し、もっと理性的に行動出来るよう、人格矯正処置を施すべきではないのか、とも。
「ボクは……友達なんか、要らないよ」
ノゾミは言った。
「ボクが大切にしなきゃいけないのは……ボクにとって、大切なのは……」
言いながら、ふらりと研究室から出て行ってしまう。
「ノゾミ……?」
伊武木が呼び止めようとした時には、ノゾミはもういなかった。廊下を駆ける足音が、遠ざかって行く。
「今日は、俺がコーヒーを淹れてあげようと思ったのにな……」
溜め息をつきながらも、伊武木は思う。
この感情こそが、青霧ノゾミの力の源なのだ。
生まれついての優れた能力も、感情が働かなければ発動しない。
人の能力とは本来、そういうものではないのか。何かをしようと自分で思わなければ、本当の力など発揮出来るわけはないのだ。
人もホムンクルスも、そこは同じであるべきだ。
他者と触れ合い、感情的なぶつかり合いを経験しながら、成長する。そこも同じであるべきなのだ。
「駄目だよ、ノゾミ……」
出て行ってしまった少年に、伊武木は静かに語りかけた。
「友達が要らない、なんて言ってたら……俺みたいに、なっちゃうぞ」
夏の桜は、他の木々と同じく緑の葉を茂らせるだけの、単なる風景に過ぎない。
伊武木リョウと一緒に散りかけの桜を眺めながら、ここを歩いたのは、春も半ばを過ぎた頃。
あれから2ヶ月ほどで、桜並木はすっかり緑色に染まってしまった。
「早く、冬にならないかな……」
緑色の桜をぼんやりと見上げながら、青霧ノゾミは呟いた。
花の咲いていない桜など、ただの樹木だ。没個性的な、緑の葉をまとっているだけ。
それなら、何もまとっていない方が良い。
寒風に晒されて佇む、骸骨のような裸の樹木。その方が、まだ風情がある。
「ボクにとって大切なのは……リョウ先生だけ……」
先程、伊武木の前では言えなかった言葉を、ノゾミは呟いていた。
誰にも、届かぬ言葉。
いや。この言葉を直接、伊武木に伝えたところで、ノゾミの心まで伝えられるものなのか。
自分の思いなど伝えても、伊武木リョウには伝わらない。
そんな事を思いかけて、ノゾミは頭を横に振った。
「伝えて、どうするんだよ……ボクの思いなんて」
独り言が、震えた。
「そんなもの伝えたって、リョウ先生を独り占め出来るわけじゃないんだぞ……!」
伊武木リョウにとって自分は、2番目に過ぎない。それは最初から……2番目として生を受けた時から、わかりきっていた事ではないのか。
「何番目であろうと、リョウ先生を守る……ボクは、それだけでいい……」
ノゾミは呟いた。呟いてから、思った。
(守る……って、何……?)
あの隻眼の少女のような襲撃者が来たら、戦う。戦って、伊武木を守る。
今までは、そう思っていた。
あの危険な少女はしかし伊武木本人が、穏やかな話し合いで追い返してしまった。
ノゾミの戦いなど、必要なかったのだ。
「ボクが……必要ない……の? リョウ先生……」
答えなど無論、返っては来ない。
必要ない、などと伊武木はもちろん直接、口にしたりはしない。
その代わりのように彼は最近、友達という言葉をよく使っている。
あの緑眼の青年も、隻眼の少女も、伊武木に言わせれば、ノゾミの友達という事になってしまうらしい。
今のうちに友達をたくさん作っておくんだ、ノゾミ。そうすれば、俺に捨てられても寂しくはないだろう?
伊武木がそう言っているようにしか、ノゾミには思えなかった。
「リョウ先生の馬鹿……!」
青い瞳が、淡く冷たい光を発する。
少年の滑らかな頬を、固く冷たい粒が転げ落ちた。
涙が、凍り付いていた。
冷たく輝く両眼で、ノゾミは空を睨んだ。
忌々しいほどの、快晴である。
夏の太陽も、しかし凍結した涙の粒を溶かす事は出来ない。
決して溶かす事の出来ない氷の嵐が、ノゾミの胸の内で今、激しく吹きすさんでいる。
「あいつら、もう1度……攻めて来ないかな……」
緑眼の青年と、隻眼の少女。
まるで兄妹のように似ている2人の襲撃者を、ノゾミは思い浮かべていた。
「そうすれば、戦って先生を守れる……あいつら今度こそ、凍らせて砕いて、綺麗に飛び散らせてやる……きらきら綺麗な、ダイヤモンドダスト……リョウ先生も、誉めてくれる……」
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