コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


2人の松本太一


「俺ほんと、松本さんのこと見直したっすよ」
 会社の後輩が、そんな事を言いながらビールを注いでくる。
「いやほんと、ただの万年平社員だと思ってたのに……」
「てめえ、松本さんにナメた口きいたら俺が許さねえぞ!」
 別の後輩が、激昂している。すでに、かなり酒が入っている。
 松本太一は、とりあえず宥めた。
「まあまあ……それにしても、私なんか誘って良かったのかい? 一緒に飲んでも面白くないだろうに」
 駅前の居酒屋である。
 強引に太一を誘った若い会社員3人が、陽気な声を発した。
「面白くないどころか、めっちゃ楽しい思いさせてくれたじゃないっすか松本先輩!」
「あのクソ課長、ぷるぷる震えて怒りながら泣きそうな顔してたもんなあ」
「人に何か言われた事なんて、なかったんだろうよ今まで」
 会社で、ちょっとした騒ぎがあったのだ。
 取引先からクレームがあり、この3名のうち1人が対応に当たった。
 誠心誠意、謝ったのだろう。先方は、とりあえず許してはくれたようである。
 その問題は落着した、かのように見えた。
 だが課長が、何を思ったか先方に電話をかけ、落着した問題に関し改めて謝罪をした。
 太一も近くで聞いていたが、こちら側の誠意ばかりをアピールする、いささか執拗な謝罪の仕方だった。
 それで先方が再び機嫌を損ね、落着したはずの問題が大いに蒸し返されて今もこじれている最中である。
「あの野郎……せっかく俺が丸く収めたのに、横から引っ掻き回しやがってよ」
 後輩たちが、油物を喰らいビールを飲みながら怒っている。
「自分1人で見事クレーム処理をしました、ってぇ事にしたかったんだろうよ」
「それで失敗して俺のせいだぜ? やってらんねえよ、まったく」
 彼に、課長は全ての責任を押し付けた。
 そこへ太一が、控え目に口を挟んだのだ。課長、それは少し違うんじゃありませんか、と。
 よく覚えていないが、もっと強い口調だったかも知れない。とにかく課長と口論になった。
 それを見ていた後輩3人が妙に感激し、こうして太一を飲みに誘ってくれたのである。
「松本さんが言ってくれなかったら俺、マジで辞めてましたよ。あんなクソ会社」
「まあ、あれはね……いくら何でも、ひど過ぎる。課長が余計な電話しているのを私、聞いてたからね。その時、止められれば良かったんだけど」
「ま、ま、飲んで下さいよ松本さん。今日は俺らがおごりますから」
「明日っから、あのクソ課長の際限ない嫌がらせが始まるでしょうからね。みんなで鋭気、養っときましょう」
 後輩におごらせるわけにはいかない、などとは3人とも言わせてくれそうになかった。


「呆れ返っているんじゃないですか?」
 居酒屋のトイレで手を洗いながら、太一は鏡に向かって話しかけた。
「人間は、貴女たちみたいに強くはありませんからね。何か理不尽な事があっても、力で解決なんて出来ません。お酒でも飲んで、憂さを晴らすしかないんですよ。ここは、そういう場所です」
『お酒飲んで憂さ晴らしなら、私たちだってするわよ』
 鏡には無論、会社員・松本太一の疲れた顔しか映っていない。
 応えたのは、太一の中にいる女性である。
『思い出さない? 魔女の夜会……あの時の貴方、可愛かったわあ』
 女性の、悪魔。
 彼女の正体に関して太一がはっきり把握しているのは、その一点のみである。
「あれのおかげで、いろいろと……耐性が出来た、ような気がします」
 太一は苦笑した。
「あの方々の洗礼に比べれば大抵の事は大丈夫、という気がしますよ」
『まあ貴方が我慢強い人なのは知っているけど、我慢し過ぎる事はないのよ?』
 女悪魔が言った。
『あの課長とかいう男……私なら即刻、ゴキブリにでも変えて叩き潰していたでしょうね』
「それをせずにいてくれた事、感謝しますよ」
 太一は手を拭い、トイレの扉を開いた。
 そこに広がっていたのは、居酒屋の店内の風景……ではなかった。
 夜空が見える。フェンスが見える。室外機のようなものが複数、あちこちに見える。
「え……と、これは一体……」
 呟く自分の声が、若い女のそれに変わっている事に、太一は気付いた。
 あの居酒屋のある雑居ビルの、屋上のようだ。
 そこに今、月明かりを浴びて佇んでいるのは、会社員・松本太一48歳ではない。
 豊麗でありながら引き締まった若々しいボディラインを、サラリと撫でる艶やかな黒髪。紫を基調とした、どこか蝶々を思わせる薄手の衣装。
 うら若き『夜宵の魔女』が、そこにいた。
「……貴女の、仕業ですか?」
 今にも衣装からこぼれ出てしまいそうな胸の膨らみを抱き隠し、形良い左右の太股をもじもじと擦り合わせながら、太一は不安げな声を発した。
 この格好にも、慣れたと言えば慣れた。が、平気になったわけではない。
 男が、女の身体になったのだ。平気になどなれるわけもなく、いくら慣れても居心地の悪さを感じるのは当然なのである。本物の女性が、こういう際どい格好をするよりも恥ずかしいのだろう、と太一は思う。
「あの、もしかして……お仕事、ですか? 魔女としての」
『そういう事』
 女悪魔が答えた。
『お酒が入ってても出来るようなお仕事だから。ちょちょいのちょいで、片付けちゃいましょう』
「私、魔女を開業するなんて一言も言ってないんですけど……」
 などと言っている場合ではなかった。敵は、すでにそこにいる。
 夜闇よりも黒いもの。強いて言うならば、煙に似ている。黒い液体が、空中を漂っているようでもある。
 大量のそれが、実体化寸前と言える密度で凝集しつつ、揺らめき蠢いているのだ。
『おぞましくも薄汚い思念情報……』
 女悪魔が、侮蔑そのものの口調で言った。
『お酒を飲む場所には、こういう輩が漂っているものよね。人間がお酒の力で発散させた、負の感情の集合体……たちの悪い化け物として実体化する前に、始末するわよ』
「はい」
 あの後輩たちの、課長に対する不満や恨みも、この黒いものに含有されているのかも知れない。
 そんな事を思いながら太一は片手を掲げ、念じ、呟いた。
「思念情報を、初期化する……」
 覆い被さって来る形に漂っていた黒いものが、弱々しく薄れ、消えてゆく。
 拍手が、聞こえた。
「お見事……サラリーマンなんてやらせとくのは、もったいないくらいだよ」
 女性が1人、いつの間にかフェンスにもたれて立っている。
 チャイナドレスの似合う、20代半ばと思われる美女。
「蓮さん……」
 碧摩蓮。太一が、このような身体になってしまってから色々と世話になっている女性である。
「お久しぶりです」
「しばらく、いなかったよね? どっかの異世界にでも迷い込んでたのかな」
「まあその、何と言うか……ゲームの中と言うか」
「あいつの仕業だね、まったく」
 蓮が、優雅に苦笑した。
「ま、おかげで魔力に磨きがかかって帰って来られたわけだ。ずっと前から言ってるけど……会社員なんか辞めて、魔女の仕事1本でやってく気はないかい? あんたが本腰入れて化け物退治を開業してくれたら、大勢の人間が助かるんだけどな」
「私が人助けなんて……そんな、うぬぼれるつもりはありませんよ」
 太一は即答した。
「私の本質は、しがないサラリーマンです。その片手間に出来る事なら、しますけど……本腰を入れて人助けなんて、柄じゃありませんから」
「……そう言うと思ったよ」
 蓮が、溜め息をついた。
「まあ何だ……力を手に入れた途端、正義の味方になっちまうような奴なんて、本当ろくなもんじゃないけどね。あんたくらいが、ちょうどいいのかも」
 自分くらいというのが、どの程度なのか、太一本人にはよくわからない。
「とりあえず、飲み会の席に戻りなよ。あんたの後輩たちが、待ってるからさ」
 この姿で戻ったら、彼らはどんな反応を見せるだろうか。
 太一が一瞬、そんな事を思っている間に、碧摩蓮の姿は消えていた。