コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


goes back


 更衣室というものは案外厄介である。
 個々に与えられたロッカーの前、同性同士、何の気兼ねもないはずなのだが、時にはその着替えに気を使わなくてはならない事もあるのだ。
「…………」
 自分のロッカー内の鏡の前で、眉根を寄せながらネクタイを閉めているのはフェイトだった。
 真っ白なシャツの襟口からうっすらと見える赤い痣のようなものを隠すために、ここ数日大変だったようである。
「ユウタ、先行くぞ……って、お前まだ気にしてんのか?」
「……よく言うよ、確信犯のくせに」
 フェイトの後ろを通りかかったクレイグが、彼の鏡越しにそんな声をかけてくる。
 何の悪びれもない彼の態度にフェイトが睨みつつそう言えば、彼は口元のみでいたずらっぽく笑った。
「だーからこうやってさ、ボタンを上まで留めりゃぁ……」
「ちょっとクレイ、……苦しいってば。俺が一番上のボタン閉めないって分かっててこの位置に残したんでしょ」
 ポン、と肩に手を置かれたと思えばあっさりと体の向きをクレイグのほうへと変えられ、首元に両手が添えられる。そしてわざとらしい言葉と共にフェイトのシャツのボタンを閉めようとする仕草を見せてから、フェイトの返事を待って彼はニヤリとまた笑った。
「……俺のことで頭がいっぱいだっただろ?」
「他の同僚に冷やかされて誤魔化すの大変だったんだ。それどころじゃなかったよ。俺もクレイに同じ事してやろうか?」
「出来んのか、お前に。……俺はイイぜ? キスマークってのは勲章みたいなモンだしな」
「……、……っ」
 勢いで放った言葉が墓穴に繋がったフェイトは、頬を染めつつ悔しそうな表情を浮かべてクレイグの胸を思い切り押した。そこで距離を保って、彼はロッカーの中から上着を取り出した後、バタンッと大きな音を立てて閉め更衣室を先に出ていく。
「おい、ユウタ、待てって……、っ」
「キャッ!」
 クレイグがフェイトを追うために慌てて更衣室を出たところで、そんな声が響いた。女性の声音だった。
 すでに数メートルを歩み進んでいたフェイトであったが、その声に驚いて振り返るとクレイグが女性のエージェントと何かを話してる姿が視界に飛び込んでくる。
「……悪ぃ、どこも怪我してねぇか?」
「大丈夫よ、ナイトがこうして抱きとめてくれたじゃない」
 クレイグは女性の背中に手を回している状態であった。どうやら出会い頭にぶつかったらしいのだが、その光景だけ見れば良い雰囲気にも取れる。
「あれ、リップの色変えた?」
「相変わらず目聡いわね。新色が出たから、今日はお試しでそれ使ってみたのよ」
「いいんじゃないか? キレイだよ」
「……もう、ナイトったら」
 女性の口紅の色を当たり前のように褒めるクレイグ。
 それを目の当たりにした女性はやはり当然のようにして頬をピンクに染め、数メートル先で見ていたフェイトは、眉間に再びのシワが寄った。
「……自分がバカみたいだ。行こう」
 思わずの言葉がフェイトの唇から零れ落ちる。
 そして彼は踵を返した。
 ――直後。
「フェイト」
 当たり前のように背中に掛かる声。
 それを耳にして、フェイトはかくりと自分の頭を落とした。足が前に進まないのだ。
「どうした、調子悪いか?」
 するりと自然に頬に滑りこんでくる大きな手。
 それと同時に自分へと降ってくる優しい声音に、フェイトは頬を膨らませるしか無かった。
「おい、すげぇ顔してんぞ」
「誰のせいだよ」
 クレイグが小さく笑いながらそう言えば、フェイトはじろりと彼を睨み上げつつの返事をする。
 それすら可愛いと感じているのか、クレイグはますます楽しそうに笑ってから、僅かに身を屈めた。
「お前だけだって」
「……簡単に言うけどさ……」
 ふわ、と額に感触があった。言葉とともに一瞬だけ触れてきたのはクレイグの唇だった。
 それに内心を高鳴らせつつも、フェイトは周囲を気にして彼の胸に手を置き軽く押してそう言う。
 クレイグはそれを敢えて黙って受け止めつつ、胸に置かれたフェイトの手に自分のを重ねて軽く握りしめた。
「さっきの彼女には付き合って三年目になる奴がいる。ああいうのは社交辞令ってやつだよ」
「クレイの場合は傍から見たらそう見えないから困……いや困るっていうか俺が嫌……そうじゃなくてっ」
「うんうん、そうだな」
 フェイトの言葉にクレイグは満面の笑みを浮かべてうんうんと頷いていた。場に乗せられて自分の感情をぽろぽろと零している目の前の恋人が可愛くて仕方無いと言った感じである。
「……っ」
 フェイトが言葉に詰まり、握られたままの手を軽く払ってそのまま拳を作りクレイグの腹のあたりをドスドスと叩く。
 クレイグはそれにもクックッと笑うのみだった。
「――仲睦まじいのは結構な事だが、そういったやりとりはプライベートでやってもらおうか。ナイトウォーカー、フェイト」
「!!」
 二人同時に、ビクリと体が震えた。
 少し離れた位置から声をかけられたのだが、クレイグもフェイトも予想外であったらしい。
 恐る恐る向けた視線の先には、例の老エージェントが立っていた。彼は呆れ顔であったが、それ以前に険しいオーラを抱えていて、二人は姿勢を正して彼に向き直る。
「任務ですか」
 フェイトがそう言うと、老エージェントは深く頷いた。それを見て、クレイグも表情を引き締めて彼の言葉を待った。
「ボストンに爆弾魔だ。霊的エネルギーを爆弾に変えて街を破壊している」
「……、……」
 フェイトの真横で、クレイグの肩が僅かに揺れた。視界に捉えられる範囲であったので、彼を見上げたが表情には何の変化も見られなかった。
 だが。
「……霊的エネルギーを放つ爆弾魔、か」
「ナイト?」
 クレイグの口からぼそりと零される言葉に、フェイトが僅かに表情を変えた。そして、思わず問いかけてしまう。
「ん、ああ、何でも無い。……ってのもアレか、後で話すよ」
「うん……」
 クレイグはフェイトに軽く笑みを作ってそう言った。
 確かに今は個人的な話をしている場合ではないが、滅多に見せない彼の小さな動揺にフェイトは引っ掛かりを感じたままで居る。
「――悪ぃな、じーさん。続けてくれ」
「うむ……。とにかく犯人の能力範囲が広くてな。今回は多数のエージェントで目的を囲み捕捉する作戦で動く」
「なるほど、了解」
 老エージェントの説明を受けて、クレイグはそう言った。そして彼はひらりと片腕を上げて踵を返す。
「クレ……ナイト!」
 フェイトはそんなクレイグを追った。
 その際、老エージェントへと視線を先にやったが、彼はそれ以上は何も言ってはこなかった。もしかしたらある程度の把握をしているのかもしれない。
「ナイト、待ってったら!」
 クレイグはいつもどおりに歩いていた。だが、その足取りは僅かに危ういものに感じて、フェイトは焦りを見せて彼の腕を引いた。
「どうしたフェイト。このまま出るだろ?」
「そうだけど……。ナイト、平気?」
 フェイトのそんな問いに、クレイグは小さな笑みを浮かべた。
 そしてゆっくりと腕を上げて、フェイトの頭に優しく手のひらを乗せる。それから彼の髪を数回撫でで「まぁ、五分五分ってトコだな」と答えた。
「……クレイ」
「んな不安そうな顔すんなって。任務には支障ねぇよ。……と、ほら、出ろってさ」
「うん……」
 それぞれに支給されている携帯端末が同時に震えた。それを取り出してディスプレイを見れば、『任務開始』の文字が浮かんでいる。
 ここでこれ以上の会話は出来ないようであった。
「行こう」
「ああ」
 最初にそう言ったのはフェイト。
 クレイグも端末を内ポケットに仕舞いこみつつ、歩みを再開させた。

〈B班、目視で目標を捕えた。かなり追い詰めているはずだ〉
〈こちらC班、広範囲で展開できる捕捉網の設置は完了している。待機してるA班のもとに追い込んでくれ〉
 耳に取り付けられている通信機から各班の言葉を受け止めつつ、フェイトとクレイグは人気のない路地を挟んでそれぞれに銃を構えていた。
 通信機で言われていたA班とは、クレイグ達のことを指しているらしい。
 数秒待っていると、乱れた足音と焦りの息遣いが聞こえてきた。
「ナイト、来た」
「ああ、ここで確実に捕捉するぜ」
 二人は互いを見やりつつ、こくりと頷いて足音がする方へと視線をやった。
「……ちくしょうっ、IO2め……ッ」
 息を切らしつつも言葉を作る男が一人。
 犯人らしき人物だ。
 彼は追手であるIO2に恨み言を言いながら、駆け込んできた。
「――おっと、そこまでだ」
 クレイグが角から足のみを出して、そう言った。
 その足に見事に躓いてアスファルトに転がるのは犯人の男だ。打ちどころが悪かったのか、「痛ぇぇッ」と声を漏らしつつ足を抱え込んでいる。
「ついさっき街を破壊してきたくせに、これくらいで痛がるなよ」
 銃を犯人に向けつつ、クレイグが姿を見せる。それと同時にフェイトも反対方向から姿を見せて二人で男を囲むようにして立った。
「……あれ、お前さん若いな。俺の記憶じゃオッサンだったはずだが」
「るせぇっ、クソッタレなお前らなんかに……!」
 ゴリ、と男の額に銃口を押し付けつつクレイグがそう言った。その言葉に、フェイトは僅かに眉根を寄せる。
 じわりと広がる言い知れぬ不安。それが何なのか解らないまま、彼はクレイグと男を見守った。
「俺達がクソッタレなら、お前は何なんだよ? こんな行為を正義とでも言うのか」
「ああ、俺にとっちゃぁ、正義だね。クソつまらねぇこんな世の中、俺が派手にぶっ飛ばしてやる!」
 この状況でも強気である男に、フェイトは違和感を得て改めて犯人の全身を見渡した。
 男の右手が不用意に地面へと向けられていることに気づいて、口を開く。
 間近にいるクレイグは未だに気づいていないようであった。
「――ナイト!」
「!!」
 フェイトの声に、クレイグはようやくそこから一歩飛び退いた。
 男がニヤリと笑みを浮かべる。
「ははっ、とくと見やがれっ!!」
〈ナイトウォーカー、フェイト!!〉
 通信機から叫びに近い声が届いた。
 その直後。

 ――ドンッ!!

 大きな爆発音が鳴り響く。
 それより数秒ほど前に、フェイトがクレイグの傍に駆け寄ってくるのが見えた。
 右腕を伸ばして、クレイグの胸元を思い切り押す。
 そこまでは、互いの記憶に留まる光景となった。
「クレイ」
 フェイトは彼の名を呼んだ。
 だがそれは、浮遊感を帯びたような響きだった。
「あれ……?」
 自分の視界の範囲が狭くなっていく。取り敢えずは爆発の直撃を避ける事は出来たはずだが、それを確認することが出来なかった。
 フェイトの意識はそこで途切れてしまう。否、途切れるというよりかはどこか遠くに飛んでいってしまったかのような、そんな感じであった。
「……フェイト。おい、フェイト?」
 爆風に飛ばされ数メートル転がった先で、クレイグがフェイトの名を呼んだ。
 フェイトはクレイグの腕の中に収まる形で傍にいたが、意識がない。
「マジかよ。……しっかりしろ、ユウタ!」
 ピクリとも動かないフェイトを片腕で抱きつつ自分の身も起こし、クレイグは慌てて彼の体を手探りで調べた。
 土埃で汚れている以外、目立った外傷はない。それから首筋に指を当てて脈を調べるが、きちんと動いている。
 そこで一度安堵はするが、フェイトは瞳を開かない。
 それが今のクレイグには精神的なダメージに繋がっているようで、彼はぐっと唇を噛み締めてフェイトを抱きしめた。
「………………」
 意識のないフェイトの耳元に何かを囁く。
 それは誰に耳にも止まらずに周囲の喧騒に掻き消されてしまうのだが、今のクレイグには同じことを繰り返す余裕はどこにもなかった。

 ――俺を置いて行かないでくれ。



「……、……」
 遠くで声を聞いた気がして、フェイトはうっすらと瞳を開いた。
「ニャァ……」
 自分の口から発せられたらしい声音に、動揺が走る。
(……え、なんで?)
 自分の体を起こしてみたが、地面が近かった。手元を見れば、手であるはずのものが黒猫の前足になっている。
 彼は慌てて自分の姿を映せるものを探した。すぐそばに水たまりがある。
 それを恐る恐る覗きこめば、映った影は人のものではなかった。
(これ……俺、だよな……?)
 水たまりの向こうの黒猫に対して、心で問いかける。
 人語を話せなくなっているというのは先ほどの声で自覚して、敢えて鳴こうとは思わなかった。
「…………」
 辺りを見回す。
 いつもと違う視点から見る世界は丸きり別のモノに映り、不安にもなる。
(ここ、どこだろう……俺たち爆発に巻き込まれて……何とか直撃は避けたけど、クレイは……?)
 そんなことを思いながら数歩を歩く。
 街並みは同じように見えるが、あの時の緊張感が無い。爆発が起きた様子もなく、IO2によって包囲網も張られていたはずなのに、それすら見当たらなかった。
(これって、もしかして……)
 フェイトには思い当たる節が一つだけあった。
 自分の能力に『時空転移』と言うものがある。制御不能でいつ発動するかもわからないそれが、爆風に飛ばされた勢いで起こってしまったのだろう。しかも猫の姿ということは、身体は元の時代に残されたままなのかもしれない。
(……どうしよう。自分で戻れるものでもないし……、あれ?)
 俯きながら考え込んでいると、身体がふわりと浮いた。そして一気に視界が変わって向きを変えられる。誰かに抱き上げられたらしい。
「お前、どこの野良だ? この辺じゃ見かけないな」
「!!」
 耳に届いた声に目を見開く。とても良く知る声音だったからだ。
「おっ、お前の目、キレイだなぁ。宝石みたいだ」
(ク、クレイ)
 フェイトの視界に飛び込んできた青い瞳。自分が記憶しているものより明るいような気がしたが、それでも見間違えるはずもない色。そして、その姿。
 だが、面立ちがやや幼いように見えた。
 つまりは、フェイトは今、クレイグの過去を遡ってかつての彼と対面しているのだ。
「……ニャー……」
 ぽふ、と前足で彼の頬を突く。
 クレイグはくすぐったそうにしながら嬉しそうに微笑んだ。
(あ、笑顔は変わらない……)
 間近で見る笑顔は今も昔も同じだと思った。
 そんなことを考えていると、少し遠くの距離からクラクションが長く鳴り響く音が聞こえた。
 それを耳にしたクレイグは「うわ、やべぇ乗り遅れる!」と言いながら、斜めがけの自分の鞄にフェイトを突っ込んで走り出した。
「!?」
(……ク、クレイ?)
 訳も分からず慌てて鞄の中で体勢を整えたフェイトは、鞄の蓋の隙間から顔を出して彼を見上げた。
 クレイグは焦りながらも余裕の笑みで走り続けている。
 鞄の中には教材が入っているので、彼は今学生なのだろう。高校生くらいだろうか。
「ニャァ」
「後で飯やるから、そこにいろよ。こんなに綺麗な猫初めて見るし、母さんにも見せたい」
 フェイトが鳴けば、クレイグはそんなことを言いながら横目でこちらを見てきた。
 そして走る速度を早めて、前方に待つ黄色のスクールバスに飛び乗る。直後にバスの扉が閉まり、背中でそれを感じたクレイグは、苦笑しつつ空いてる関を探した。
「クレイグ、こっちよ」
「ん、おぅ、いつも悪ぃな」
 プラチナブロンドの長い髪が自慢らしい女子がクレイグに声を掛けてきた。
 どうやら彼のために席を取っていてくれたらしく、自分の鞄を避けて手招く。
 その席に辿り着く間にも各所から声がかかり、彼の人気ぶりがここでも目立っていた。
「今日はギリギリだったのね」
「ああ、ちょっとな。いい出会いがあってさ」
「ちょっとぉ、アタシの前でそれ言っちゃう?」
「……はは、悪い悪い。週末に付き合うから許してくれよ」
 席を取ってくれていた女子は、明らかにクレイグに好意を持っているようであった。
 とかく彼に気に入られようとする空気が、鞄の中にいるフェイトにも伝わってくる。
(こういう所も変わらないんだなぁ……)
 フェイトは鞄の中で丸まりながら、ふぅ、とため息を吐いた。
 すると鞄越しであるが背中を撫でられて、閉じかけた瞳を開く。
 言葉は何もなかった。だが、クレイグの手は鞄の上――その中にいるフェイトを守るようにして置かれ、バスが揺れてもその衝撃を少しでも軽くしようとする行動があり、フェイトは心がくすぐったくなる。
 無意識なのだろうが、それが彼の優しさの一部である事を知っているフェイトは、手のひらを感じる部分に頭を擦り付けて小さく小さく「ニャァ」と鳴いた。

 それから一日、フェイトは猫の姿のままでクレイグの姿を眺めていた。
 女子に人気なのも当たり前な光景であったが、クラスメイトからの信頼も厚いようでよく声が掛かる。
 頭の回転が早い彼は、そんな呼びかけにもすぐに答えて場を和ませていた。
「クレイグ! 今日の放課後空いてるか? メンツに空きできちまってさ〜」
「悪ぃ、もう予約済みだ」
「うわ、マジかよ〜!!」
「今度埋め合わせするって」
 そんな会話を男子と交わしつつ、彼は一人で校舎裏へと足を運んだ。鞄も一緒だったので、当然中に入ったままのフェイトも連れてこられる事になった。
「……ごめんな、窮屈だっただろ?」
 人気を感じないことを確かめてから、彼は鞄の蓋を開けてフェイトの身体を持ち上げられる。
 そこで改めて、フェイトはクレイグの顔を見た。
 朝に見た時より少しだけ疲れているかのような、そんな顔色をしている。
 常にクラスメイトや女子に気を使う分、反動が出るのかもしれない。
「さて、待ちかねのランチタイムだぞ」
 クレイグはフェイトに向かってニカっと笑いながらそう言うと、鞄の内ポケットをガサゴソと探り、小分けにした袋を三つほど取り出した。
 すると、草むらの向こうから気配が生まれて、二匹の猫が姿を見せる。真っ白な猫と茶色の縞のある猫だ。
(……猫……、野良かな)
 自分も今猫だがと思いつつ、同じ目線上にいる猫を見やる。
 真っ白な猫はプライドが高いのか、チラリとフェイトを見た後、ふん、と言わんばかりそっぽを向いてクレイグの傍に寄った。
「お、ルーシー、ヤキモチか?」
 クレイグはそんなこと言いながらドライフードの小袋を開けた。白い猫はルーシーというらしい。
 縞柄の猫は臆病なのか、少しだけ離れた場所で腰を下ろして『餌』を待っている。
「マックスは相変わらずだなぁ。ほら、ちゃんと食えよ?」
 クレイグは二匹の猫に対して物凄く柔らかな声音で話しかけていた。
 それは、自分へと向けられるものと同じだった。
(今、気づいたけど……クレイはちゃんと使い分けてくれてるんだな……)
 そんなことを思っていると、フェイトの前にもドライフードが置かれた。
 彼は毎日こうして餌を持ってきているのだろうか。
「お前の好みはわかんねぇけど、今これしか持ってなくてさ。我慢してくれよな。あ、そうだ、ミルクのほうがいいか?」
 彼はそう言いながら鞄の他に持っていた茶色の紙袋の中からミルクを取り出して、携帯用の皿に半分ほどを開けてくれた。どうやらそれは彼自身が飲むものだったらしいのだが、フェイトに半分をくれるようだ。
「ニャー」
 フェイトはひと鳴きしてそのミルクに口をつける。「ありがとう」の意味の鳴き声だったが、それが彼に伝わったかは解らなかった。
 クレイグは黒猫がミルクを舐めるのを暫く眺めた後、言葉なく自分用のサンドウィッチを取り出して食べ始めた。手作りらしいそれは、彼の母が作ってくれたのだろうか。
「……ここさ、俺の秘密基地。暗いし変な噂もあってさ、誰もこねぇんだよ。でも俺にとっちゃ、小さな楽園みたいなもんだ」
 一口食べてきちんと噛み飲み込んだところで、彼は静かにそんな事を語りだした。
 フェイトに向けて語りかけてくれているのだ。
 ミルクを綺麗に舐め終えたフェイトは、彼の話を聞くために顔を上げた。すると、クレイグは嬉しそうに笑って頭を撫でてくれる。
「お前、不思議なやつだなぁ。俺の言葉が解ってるみてぇだ」
(解るよ、クレイの事なら)
 そう言いたくても、伝えられない。
 フェイトは今の姿に少しのもどかしさを感じて、クレイグの手のひらをぐいぐいと頭で押した。
 すると彼は「何だ、どうした?」と言いながらフェイトの身体を抱き上げる。
 そのままクレイグはゆっくりと寝転がって、天を仰いだ。フェイトは彼の胸の上に乗る形なったが、そのままでいた。
 暫くすると白い猫も縞の猫も彼の傍に寄ってくる。
「……俺はさ、恵まれてるっていう自覚はあるんだよ。何でかまではわかんねぇけど、皆、声かけてくれてさ。すげぇ楽しいし幸せだって思う。けどさ、なんか……たまにこうやって一人になりたくなるんだよなぁ」
(うん、それも……何となく解るよ、クレイ)
 クレイグは基本的に人が良すぎるのだ。誰に対しても対等に接して、差別をしない。それは無意識の優しさからくる行動であって、エゴなどではない。
 だから余計に、周囲から同時に向けられる期待の感情に、耐えられなくなるのだ。
 完璧な人間などいない。
 いくら人望があっても、頭が良くても、スポーツが万能でも、必ずどこかに脆い部分がある。
(きっとクレイは……向けられる好意そのものに優しくなれるんだ)
 フェイトは心でそんな言葉を続けつつ、クレイグの首元に顔を埋めて甘えの仕草を見せた。
 するとクレイグは目を細めてフェイトの頭をまた撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らせば、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「お前、可愛いなぁ」

 ――ユウタは可愛いなぁ。

 いつも傍で言われている言葉を思い出す。同じ声音だが、ほんの僅かだけ若い響きのそれは、数年後には落ち着いたものになるのだろう。
 自分だけがそれを聞けるのだと思うと、急激に体が火照って気がしてフェイトはぶんぶんと首を振った。
 ざわ、と風が吹く。
 その風に白い猫が反応し、顔を上げた。直後、フェイトも『気配』を感じてそちらへと顔を向ける。
「……またアンタか。もういい加減、行ったらどうだ?」
(え……)
 猫はたまに何も無い空間を見上げることがある。
 一説には人間には見えない何かが見えていると言われているが、その実はどうなのかはわからない。
 今のこの状態も似たようなものだが、猫が見ている方向をクレイグも見ていた。先程の言葉は、それに向けられて放たれたものだ。
 視線の先には崩れかけた人の影があった。おそらくは『霊』というものなのだろう。一般人には殆ど目にすることもないものだが、少し前『に悪い噂が出ている』とクレイグが言っていたものの根源でもあった。
 ゆらゆらと揺れながらこちらを見てくる霊。
 悪意は感じられないが、寂しいという感情だけは伝わってくる。
「俺は見えるだけで何も出来ねぇよ。それに、ここは寂しいだろ? だから早く天国に行って、そこで幸せになれよ」
(クレイ、普通に見えてるんだ。霊感は昔から強かったんだな……)
 霊にすら優しい声を掛けてしまう彼に、フェイトは苦笑した。優しすぎるプレイボーイは、見えるというだけでも大変だろうに、普段はそれらしい素振りすら見せない。
 霊はそれから暫くして、その場から姿を消した。
 フェイトが行く末を確認したが、どうやら天へと昇って行ったようだ。
「ニャァ……」
 緑の目を持つ黒猫が鳴いた。
 すると他の二匹も同じようにして鳴く。
 
 誰も近寄らない校舎裏、ひっそりとした場所で寝転がる心温かな青年を癒やすようにして、三匹の猫たちは彼に寄り添っていた。