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破滅の歌
あれは、とても音楽などと呼べるものではなかった。
獣の咆哮にも似た、無秩序で凶暴な音。
苦しみの音であり、憎しみの音であった。
それを、あの緑眼の青年は、信じ難いほど強い自制心で抑え込んでいた。
抑え込まれていたものが『音』となって溢れ出し、自分を圧倒してくる。
八瀬葵は、思い出さずにはいられなかった。
苦しみを、憎しみを、あの青年は経験してきたのだ。そして恐らくは、克服した。
自分にも何か、克服すべきものがあるのではないか。
葵は、そう思う。
だが、どう克服すれば良いと言うのか。
親友が1人、死んだ。
誰よりも幸せになって欲しい、と願っていた女性が、歩く事も喋る事も出来ない身体となってしまった。
これを克服するというのは要するに、自分のしでかした事に対し、図々しく無反省に開き直る、という意味ではないのか。
凄いよ、あんたの歌。
緑眼の青年は、そう言ってくれた。が、歌を誉めてくれたわけではない。
彼が誉めてくれたのは、葵が歌うとどうしても流れ出してしまう、得体の知れぬ力の方だ。
人は誰しも、何かしら『音』を発している。
自分のそれに得体の知れぬ力が宿っている、と葵が気付いたのは、幼稚園に通っていた頃であろうか。
その幼稚園では月に1度、その月に誕生日がある園児たちのために、お誕生会のようなイベントが行われていた。園児に職員それに保護者が集まり『ハッピーバースデー・トゥーユー』を合唱するだけの、他愛ない行事である。
年長期の10月。1人の男の子が、誕生日を迎えた。
いつも葵を執拗にからかったり、軽い暴力を振るって虐めたりしていた園児である。
そんな乱暴者が、お誕生会では先生たちにちやほやされ、大事に扱われている。
許せない。
その思いを込めて、葵は皆と一緒に『ハッピーバースデー』を歌った。
帰り道で、その男の子は交通事故に遭った。
命に別状はなかったものの長期入院を強いられ、結果その男の子は、小学校への入学が1年遅れてしまった。
葵が何か思いを込めて歌を歌うと、聞いていた誰かが不幸な目に遭う。そんな事がその後、幾度も起こった。
自分の歌が、わけのわからぬ力を秘めている。
容易く信じられる事ではなかったが、信じざるを得なくなったのは、小学校4年生の時である。
家の近くの公園で、野良猫が1匹、ひどい怪我で死にかけていた。
葵はその猫を抱き上げ、音楽の時間に習った『エーデルワイス』を歌った。
自分が歌うと、誰かが酷い目に遭う。
逆に、人助けは出来ないものか。人は無理でも、猫くらいは。
そう思いながら、葵は歌った。
猫の傷が、癒えた。
その時の葵は、今までの人生20年のうちで最も幸せだった。
自分の『音』には、やはり力がある。
使い方が悪ければ、誰かを傷付けてしまう力。
うまい感じに歌と融合させる事が出来れば、こうして癒しの効果をもたらす事も出来る力。
この力で自分は、これから大勢の人を助け、癒してゆく。
そんな救世主のような気分に、葵は浸っていた。
数日後、その猫が保健所で殺処分された。
人間でも動物でも、とにかく誰かを助ける事など自分には出来ないのだ、と葵は思った。
「おい、聞いてるのか」
店長が、苛立たしげに声をかけてくる。
都内の、とあるコンビニエンスストアである。
働き始めてから1週間で、葵は見切りをつけられていた。
「……明日から、来なくていいと……そういう事ですよね」
「お前、いい奴だけど接客には向いてないからなあ」
店長が、溜め息をついた。
「まだ20歳なんだし、色々やってみれば向いてる仕事も見つかるよ」
「……はい……」
一方的な解雇処分に抗える法律が、もしかしたらあるかも知れない。が、そこまでしようという気が葵にはなかった。この1週間、自分がどれだけこの店に迷惑をかけてきたのかは、思い知っているつもりだ。
頭を下げて、店を出た。
アルバイトを、始めては使い物にならず辞めてゆく。音大を中退してから、ずっとそんな調子である。
金に困っているわけではない。両親が、仕送りを続けてくれている。
息子を、厄介者として扱ってきた。その後ろめたさを、経済的負担でごまかしている。あの両親には、そういうところがあった。
それで生活が助かっている自分に、何か言う資格はない、と葵は思っている。
(……厄介者だったのは事実……だし、な)
何にせよ、次のアルバイトを見つけなければならない。
あてが全くない、わけではなかった。
とある店から、誘いの電話をもらったのだ。
怪しげな壺やら水晶球やらを売りつけたり、占いやサイコセラピーで客を騙したりと、そういった類の店であるらしいが、葵は詳しい事を知らない。
電話をくれたのは、若い女性だった。
綺麗な声の中に、しかし葵は、おぞましく禍々しい『音』を確かに聞き取った。
虚無の境界とか名乗っていた、あの男たちも、同じような音を発していたものだ。
「……虚無の境界……か」
葵を売り出してくれる、と言っていた彼らが、まだそれを諦めていないという事か。
その『虚無の境界』と敵対しているらしい、あの緑眼の青年の事を、葵はどうしても思い出してしまう。
もう1度、会ってみたい。
そんな事を思いながら葵は、ふっ……と己を嘲笑した。
「……会って、どうするんだよ」
殴られ、刺されてまで、自分を助けてくれた。その礼を、まだ言っていない。
会いたい理由を探すとしたら、そんなところであろうか。
「不適材不適所……って奴だろう、これは」
マスクの内側で、フェイトはぼやいた。
頭にニット帽、顔にはサングラスとマスク、身体にはロングコート。
どこからどう見ても不審人物である。
変装と言われて思いつく格好が、フェイトには、これしかなかったのだ。
IO2エージェントという身分を隠しつつ、八瀬葵を護衛する。その任務は、まだ続いている。
変装の得意な知り合いが、1人いる。こういう任務は本来、あの男に回すべきなのだ。
雑誌を立ち読みしつつフェイトは、ちらりと視線を動かした。
バックルームの方から、八瀬葵が出て来たところである。
レジの店員に軽く頭を下げ、とぼとぼと店を出てゆく彼を、フェイトはサングラス越しに見送った。
どうやら、解雇を告げられたようである。
(俺もまあ、人の事言えたもんじゃないけど……)
客と対話をしなければならないような仕事は、彼には向いていないだろう、とフェイトは思う。
思いながら、店を出る。
葵の後ろ姿を見失わぬよう、追い付いてしまわぬよう、歩き出す。
(バイト探しもいいけど……歌、歌うべきだと思うよ。あんたは)
葵の背中に、フェイトは心の中から語りかけた。
削除されてしまった歌が、脳裏に甦って来る。
健気な祝福の言葉で、悲しい未練を包み隠した歌。
その未練が、フェイトの心を打った。
打たれ過ぎて、心が壊れてしまった男女もいる。男は死に、女は廃人となった。
力を秘めた、歌なのだ。
魔力や超能力の類とは似て非なる、歌そのものの力。
その力を、八瀬葵本人は忌み嫌っている。実際に犠牲者が出てしまったのだから、当然ではある。
立ち直って歌え、などと軽々しく言える事ではなかった。
(だけど、あんたは……自分の歌と向き合わなきゃいけない、と俺は思う)
思いながら、フェイトは苦笑した。
同じような事を、アメリカでは大いに言い聞かされたものだ。
尾行者に気付かぬまま、葵は立ち止まっていた。店舗と思われる、建物の前でだ。
アンティークショップを経営している女性が、フェイトの知り合いにいる。あの店と、雰囲気は似ている。
禍々しさは、こちらの方が上だ。
フェイトも思わず、立ち止まっていた。
店名を確認しつつ、葵が店の中へ入って行く。
アルバイトの面接、であろうか。
接客の仕事なら、また長続きしないだろう、とフェイトは思った。
「ようこそ。貴方を待っていたのよ、八瀬葵さん」
店長、と呼ぶには若過ぎる女性である。高校生くらいの女の子にしか見えない。
凹凸の控え目な身体で、喪服のような黒い女性用スーツをきっちり着こなした美少女。
その美貌の中で、左右の瞳が、赤く炯々と輝いている。
誰かに似ている、と葵はまず思った。
「お誘いを受けていただけたもの、と解釈するわよ……私たち『虚無の境界』によるプロデュースを、受けていただけると」
「……やっぱり、あんた方か」
真紅に輝く瞳を、葵はぼんやりと見つめ返した。
この赤色を緑色に変えれば、あの青年の顔になるのではないか。
「……プロデュースって言うけど俺、歌なんて歌えないよ。心を壊したり、傷を治したり……そんなの、歌とは言わない」
葵の言葉に、少女は応えなかった。ただ一言、呟いただけだ。
人名、である。
葵が、決して忘れてはならない名前であった。
「……何で……」
かすれた悲鳴のような声を、葵は発していた。
「……あんたたちが、何で……あいつの名前を……」
「彼は今、刑務所にいるわ」
冷然と、少女は告げた。
「小学校への入学が1年、遅れてしまった……そのせいで彼は、小学校でも中学校でも周囲に馴染めず、あらゆる事が上手くゆかず、高校へも行けぬまま犯罪に手を染めた……貴方の歌が、1人の犯罪者を生み出したのよ」
「……俺の……歌が……」
心を打ちのめす衝撃。
いっそ彼女のように心が壊れてしまえば楽になれる、と葵は思った。
「わかったでしょう八瀬葵。貴方の歌は、破滅をもたらすもの……逃げても無駄よ、受け入れなさい」
真紅の瞳に映る己の顔を、葵は呆然と見つめた。
まるで、血の海に沈みかけているかのようである。
「滅びのアーティストとして、デビューしなさい。貴方が歩むべき道は、それしかないのだから」
「それを決めるのは、あんた方じゃあないんだよ」
声がした。
緑眼の青年が、店内に踏み込んで来たところである。堂々たる不法侵入だ。
「自分の道を決めるのは葵さん、あんた自身だ。こんな連中の言葉に耳を貸す事はない。さ、帰ろう」
緑眼の青年が、葵の腕を掴んだ。
強い力だった。
体格はさほど違わないように見えるが、音大中退者などとは、明らかに鍛え方が違う。
「……お久しぶりね、フェイト」
少女が、親しげに微笑む。
「アメリカでの御活躍、楽しませてもらったわよ……また会えて嬉しいわ」
「別にあんたに会いに来たわけじゃないが、まあ来たのが俺で良かったな」
フェイトというのは無論、本名ではないだろう。とにかく、そう呼ばれた青年が言った。
「もし彼女だったら、あんた問答無用で叩き斬られているところだぞ」
「あの子とも、それに貴方とも、殺し合うつもりはないわ。今はまだ、ね」
真紅とエメラルドグリーン、2色の眼光が静かにぶつかり合う。
「八瀬葵、私は貴方を無理矢理に引き込むような事はしないわ。そんな必要もなく貴方はいずれ、己の意思で終末のアーティストとなる……それが、貴方の決める自分の道よ」
「虚無の境界関係の店だって、知ってたんだろ? 何で自分から捕まりに行くような事を」
フェイトは言った。いささか説教じみた口調になってしまう。
「……あんたに、もう1度……会ってみたかったから……」
俯いたまま、葵は答えた。
「……俺、どうすればいいのかな……なんて、あんたに訊く事じゃないとは思うけど……」
自分の歌から逃げるな、向き合え。
その言葉を、フェイトは飲み込んだ。
自分の力と正面から向き合う。それが出来ているのかどうか、フェイト自身では判断が出来ないからだ。
(他の人に押し付ける……しか、ないのかな)
頭を掻きながら、フェイトは言った。
「……バイト、探してるんだろ? 紹介するよ。俺の知り合いで、新しく喫茶店開く人がいるんだけど」
「……何でもいい、やってみるよ。どうせ、すぐクビになるだろうけど……」
「言っとくけど、めちゃくちゃ厳しいからな。その人」
葵の弱々しい言葉を、フェイトは遮った。
「どんなに辛くたって……クビになんか、してくれないぞ」
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