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魔除けの石像と女の子
立ち並ぶ高層ビル、行き交う人々、のろのろ動く車の群れ、そんな都会の大通りから一本道を入ったところに鬱蒼と木々の生い茂った庭に囲まれた洋館があった。
路地裏に並んだ小洒落た美容室や老舗のレストラン、コインパーキングに築年数を誇る建物たち。それらの中にあってそれは明らかに場違いで異質であったが、特段前を通る者たちの目に止まることもない。本当にその場所にあるのか、それとも空間の歪みが作り出したものなのか、ただ、それを必要とする者のみがそれを見つけることが出来るのだ。
魔法薬屋。
その洋館の奥のリビングで、主のシリューナ・リュクテイアは空になった白磁のティーカップをテーブルの上にそっと置いて、ほぉ、とこの日何度目かのため息をゆっくりと吐き出した。
「何度見ても美しい」
それはずっと見続けていても飽きないほどの輝きを放っていた。いや、ティアラの中心に埋め込まれたアレキサンドライトの輝きだけが美しいわけではない。太陽のもとにあってはサファイアもかくやと思わせる青緑に、夜の明かりのもとではルビーにも負けぬ鮮やかな赤へと変わるアレキサンドライトのそのどちらをも引き立たせるプラチナと金の装飾がまた素晴らしいのだ。
それらが織りなす精緻な文様を指でなぞる。その心地よさは、犬を愛する者でたとえるならワンコをもふもふする快感、に似ているかもしれない。
想像以上の出来映えであった。
朝から夜まで光の移ろいによって変化するアレキサンドライトとそこに施された匠の技を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
このままずっと愛でていたいぐらいだ。
だが。
シリューナは名残惜しそうにそれから手を離した。
ソファを立ち上がる。
忘れるところだった。いや、完全に失念していた。ティレイラに地下にある魔法の宝飾品などを置いている倉庫兼工房の整理を頼んでいたことを。ファルス・ティレイラはシリューナが魔法やそれに関する知識を教えている弟子である。
「大丈夫かしら」
整理を頼んでから随分経っている……と思う。我ながらどれくらいの時間うっとりしていたのかわからないのだが。それほど大変な整理を頼んだ覚えもないと思うのだが、一向に彼女が戻ってくる気配がないことが少し気がかりだ。
何よりティレイラ可愛い妹のようなものである。心配になるのも仕方にないことだろう。紅茶も淹れなおしてほしい。
「ティレ、整理の方は進んだかしら?」
そうして扉を開くと。
「あ、お姉さま」
慌てたようにティレイラはシリューナの前にやってきて口早にまくしたてた。
「ちゃんと進んでいます。もう少しお待ちください。大丈夫です」
それから視線をそらせ始め最後は尻すぼみになっていった。
「だ、大丈夫…のはず…だったんですけど…ごめんなさい!」
シリューナはティレイラがその背に隠すように立った奥の場所をそっと覗きこむ。
ティレイラは手振りや身振りを交えて弁解した。
「空だと思っていた金の壷が想像以上に重たくてその…少しよろけてしまって、落としちゃいけないと思って、それはなんとか守ったんですけど…倒れそうになって咄嗟に掴んだのがテーブルクロスで…」
懸命にその時の不可抗力について話すティレイラの姿に内心で可愛いなと思う。その時の様子が目に浮かぶようだ。ドミノ倒しのように次から次へと起こる惨事に、さぞやあたふたしたことだろう。
それはそれとして。
微笑むでも許すでもなくなくシリューナは表向きには大仰にため息を吐き出してみせた。
「これは困ったわね」
「すぐにかたずけ…え?」
心底困ったように呟いたシリューナを驚いたようにティレイラが見上げる。それから何かに気づいたようにシリューナの視線の先を追いかけた。そこにはティレイラが咄嗟に掴んだテーブルクロスとその上にのっていたものが散らばっている。
それが“祈りを捧げる女の石像”を囲むように敷かれた陣を崩していることにティレイラは改めて気づいた。
「あ…」
魔除けの石像の修復依頼で魔力を籠めている最中だったのだ。
「本当に困ったわね」
「すみません」
しゅんとうなだれるティレイラもやっぱり可愛い。
「これはお仕置きが必要ね」
シリューナはにっこり微笑むとティレイラの肩に手をおいた。
ギクッとティレイラが頬をひきつらせてシリューナを見上げる。
「整理も残っているし、まずは床をかたずけないと……」
言い募るティレイアにしかしシリューナの石化の詠唱は既に始まっていた。ティレイアは、またか、と内心でため息吐く。
「そろそろ喉が渇いてないですか? お茶を淹れなおしますよ。今夜はお姉さまの大好物をディナーに……」
足下から徐々に体が動かなくなるのを感じながらティレイアが必死に声をかけるが、シリューナは慈悲深き聖母のような微笑みを向けているだけだ。
嘆くようなティレイラの言い訳はやがて石の口に塞がれ石像へと変貌を遂げる。
「素晴らしい!」
シリューナは感嘆の声をあげた。恨めしげでどこか諦念に満ちた表情もそこはかとない憂いを感じさせている。このアンニュイな雰囲気は彫刻などではなかなか再現出来るものではないだろうと思われた。
シリューナはティレイラの石像に優しく触れる。可愛い妹を慈しむように、それはそれは優しく優しく。
先ほどまでの彼女の体温は感じられずただ冷たかったが、それさえも美しさを際だたせる一つの要素でしかなかった。頬摺りしたくなるような肌触り。彼女の若くて張りのある柔らかい肌もすべすべで触り心地がいいが、それとはまた違った滑らかさに胸が高鳴った。
そもそも、そんな感触以上に、幼さと成熟の狭間にある絶妙なまでに可愛らしい顔立ちやら、胸元から腰への曲線やら、スカートの下からすらりと延びた脚やら、すべての造形美が凝縮されたような石像に胸は熱くなるばかりなのだ。
時間に逆らってこの瞬間を永遠にも等しき時間に閉じこめた。いや、永遠はさすがに問題だが。それでも彼女のこの可愛らしさは今だけのものである。飽きるまで堪能しなくては。飽きる気がしないけど。彼女の柔らかな黒髪が懐かしくなるくらいまで。
◆
ティレイラの石像をリビングに運んでシリューナはアレキサンドライトのティアラをその石像に冠し昼夜を忘れて愛でていた。
そして彼女は完全に忘れてしまっていた。
彼女をお仕置きなどと称して石像にしたそもそもの原因。
それは依頼人からの電話によって思い出された。
ティレイラに夢中になりすぎて修復を頼まれていた魔除けの石像を完全に放置していた事を。
崩れた陣を戻すのを忘れているのだから、当然、魔力の注入は終わっていない。
受け渡し日、これから取りに行くという依頼人の電話にシリューナはほんのわずかであったが血の気が引くのを感じた。プロとして中途のものを渡すわけにはいかない。とはいえ納期の延長を申し出るにしても、代用品は用意してしかるべきだろう。
代用品――。
シリューナはそれを振り返った。お誂え向きに石像が一体あるではないか。魔除けの石像の修復が完了するまでのほんの少しの間とはいえ、手放すのは気が引けるが、仕事として請け負っている以上、背に腹は返られない。
シリューナは半ば諦めたようにティレイラに簡易的な魔除けの術を施した。それから惜しむように、その冷たい額に自らの額を押しつける。
「竜の王のご加護を……」
その日、ティレイラは娘を嫁に出す父親の気分でティレイラの石像を送り出したのだった。
◆
ティレイラを送り出してから1日が過ぎた。
魔除けの石像には既に陣を敷き直し魔力を注入中である。
ともすれば、する事が何もない。アレキサンドライトのティアラも倉庫の装飾品たちも、どうにもシリューナの心を浮き足立たせたり熱くするには至らなかった。
どうしたことだろう、いつもなら、うっとり魅入っているところなのに。
理由はこれ以上なく明白だった。
ティレイラがいない。
シリューナは思い立ったように服を着替えた。散歩がてらティレイラの様子を見に行くことにしたのだ。途中で骨董品屋にでもよって掘り出し物でも探してみるか。もしかしたら胸熱な装飾品や美術品と出会えるかもしれない。
ティレイラの場所は大体わかるが、電子マップを手に依頼主の住所へ向かう。それは東京という言葉から想像されるものとはかけ離れたようなど田舎にあったのだが。
「あら?」
シリューナは見覚えのあるその桜の木をまじまじと見た。根本に転がる小石の数も、太い幹から伸びる枝の張り出し方も、間違いなく同じだと思えた。この桜の木を見るのは記憶の限り今日だけで3度目だ。
「やっぱり、間違いないわね」
シリューナは確信に息を吐く。
目的の場所には辿りつけず、それは一本道であるはずなのにいくらまっすぐ歩いても、ここに戻されてしまう。
つまり魔除けの結界に引っかかっているということだ。シリューナらの洋館が一般の人間たちに見つけられないのと同じ理屈である。それにしても、だ。
「私が魔だとでもいうの?」
シリューナは眉を顰めた。
魔除けの結界であるから魔の物を無条件で排除するのは当然として。シリューナは魔族ではなく竜族だ。確かに魔の法を扱っているが、そんな理由で魔除けに引っかかってたまるか。そもそも、この世界のこの国ではたまたま魔物と魔法が同じ魔の字を当てられているだけで、それは単なる言葉遊びでしかない。本質的には全く別のものなのだから。
そもそもである。
これはシリューナがティレイラに施した魔除けによる結界だ。それに自分が弾かれるなどそれこそあり得ない。
ならばシリューナが結界を越えられない理由は一つしかなかった。
「出てくるがいい!」
シリューナは声高に言い放った。
「私も迂闊だったわ」
鋭い眼光であらぬ虚空を睨みつける。
骨董屋でたまたま見つけた曰く付きのダガー。その鞘の装飾があまりに美しくてそのダガーにまとわりつく様々な雑念のようなものが煩くはあったが即決で買ってしまった。その雑念に紛れてそれはひっそりと機会を窺っていたのだろう。
シリューナの前に黒い霧のようなものが輪郭を現し始める。この魔物を自分が所持していた結界に阻まれたのか。魔物はシリューナが結界を解いて中へ入るとでも高を括っていたのだろうか。
世の中そんなに甘くはない。
シリューナはそれに向けて身構えるように一歩を踏み出した。
その時だ。
突然、結界が消えたのは。
「!?」
魔物がそちらへと身を翻す。
シリューナはそれを止めるのに半瞬遅れをとった。
結界が消えたという事は、ティレイラに何かあったということ。そんな動揺が彼女を反応を鈍らせたのだった。
◆
1日、時を遡る。
ティレイラはその屋敷の離れに運ばれた。人里離れたその場所に佇む、時代を感じさせる純日本家屋。この世界の混沌とした様式にはそれほど詳しいわけでもないが、自分やあの石像が置かれるには何とも言い難い違和感を覚えなくもない屋敷だった。
ティレイラは内心で息を吐いた。肉体は石化しているためため息はおろか呼吸すら出来ないが。意識が残されているのはもちろんシリューナがティレイラの反応を堪能するためである。とはいえ、幸いというべきか残念というべきか、石化した体に触れられる感触はないのだが。
そんなことはさておき。
いつになったら戻れることやら、とティレイラは自分の置かれた玄関口をぼんやりと見渡した。殺風景なそれは殆ど姿を変えることはない。上がり框には靴も並ばず、家の者たちは裏の勝手口を使っているようで尚更静かな空間が広がっているだけだ。
そうして退屈な時間をどれくらい過ごしたものか。
柱の奥に小さな影を見つける。この世界で10にも満たないくらいの女の子だった。女の子は柱から顔だけを出してティレイラの石像を覗くように見ていた。
声をかけたいがかけようもない。
いつもと違う像が気になるのだろうか。柱から覗いては隠れてを繰り返していた女の子はやがて恐る恐るこちらへ近づいた。
淡いピンク色にたんぽぽの花が散りばめられたパジャマの袖から小さな手を伸ばして不思議そうな顔でティレイラの石像に触れようとする。
その時だ。
「お嬢様!」
使用人らしい中年の女が現れて女の子を抱き上げ連れて行く。
「行けませんよ。お休みにならないと」
「ごめんなさい」
ティレイラはその光景をただぼんやりと見送った。
この屋敷に運ばれてこの日、彼女が見たそれが唯一起こった出来事だった。
◆
シリューナは道なりに走った。
何度も見た桜の木に再び出くわすことはなく、大きな屋敷にたどり着く。シリューナが追ってきた黒い影がちょうどその屋敷の離れに向かっていくのが見えてそれを追うように母屋の裏手へ回った。
ティレイラの気配は近い。
シリューナは問答無用で離れの玄関を開け放った。幸い鍵はかかっていなかった。
そこにはティレイラの石像と、それから、倒れている小さな女の子と、黒い影。
ここまで追いかけている間に、シリューナは黒い影の正体に薄々気づいていた。それは依頼主がどうしてもこの日に間に合わせたかった理由と合致しているように思う。
魔とはこの世界の言葉を借りるなら災厄であり厄災でありそれをもたらす者たちのことだ。即ち、貧乏神、疫病神、死神……魔でありながら神の名を冠しているのが興味深くもある。ダガーの雑念だけではなく神であるが故に結界にはまるまでその存在に気づけなかったのかもしれない。
ともあれ依頼主はこの日までに魔を退けるための魔除けが必要であったのだ。この女の子に降る凶事を退けるために。
―――お姉さま!! この子を助けて!
ティレイラの声なき声にシリューナはハッとしてそちらを振り返った。簡易的に施した額の魔除けの陣が何かによって塞がれている。女の子がティレイラに贈った花冠か。
魔法には自然の力を借りて施すものがある。それはつまり自然には力が宿っているということだ。それを正しく組み上げ発現させるのが魔法なのだとしたら、自然が本来もつ力が、組み上げた魔法の一部を結果的に解いてしまうこともあるのだろう。
いや、それだけではない。
黒い影が女の子に向けて大鎌を振り上げた。
シリューナは靴も脱がずに上がり框を駆け上がった。
本来動けないはずのティレイラの石像がシリューナに向けて傾く。
振り下ろされる大鎌。
走りながら伸ばされたシリューナの手が花冠を掴む。
「ごめんなさいね」
と呟いたのはティレイラに向けられたものか。
傾く石像を片手で支えるだけの力はない。
ただシリューナは掴んだ花冠を女の子に向けて投げた。
振り下ろされる鎌が女の子に届くと思われた刹那。
鎌に当たった花冠が放った強い光が黒い影を大鎌ごと吹き飛ばすのと、ティレイラの石像が床に大きな音を立てて転がるのはどちらが速かったか。
異変に気づいた母屋の家人らが離れに駆けつける。
程なくして女の子が目を開けた。
◆
それからバタバタと事情説明やら事後処理があり、数日を経て改めて魔力を籠めた石像を納品し、ティレイラは無事元の姿に戻って帰ってきた。
「あの花冠も魔除けだったんですね」
ティーポットのお茶をカップに注ぎながらティレイラはしみじみとあの瞬間のことを思い出す。
「誰が作ったのかは知らないけど、魔除けとして作ったわけではないと思うわ」
シリューナは新調した装飾品をなで回しながら言った。
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、あの子のことだけを思って作ったものだと思う」
それがたまたま正しく組み上げられ力を発現したのだとしたら、それはきっと思いの強さがそうさせたのだろう。だけど、きっとあの女の子にしかその御守りの効果は発動しないように思われた。この世界にはまだまだ謎が詰まっている。シリューナらのいた世界とはまた違った不思議な法則の中で息づいている。だからこそこの世界は面白くもあり暫くは飽きることもないのだろう。
「そうなんですね」
ティレイラは感慨深げに頷いて窓の外を振り返った。
風が金木犀の香りを運びながらカーテンを揺らしていた。
■End■
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