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面接
かなり古い建物を買い取ったのか、あるいは古めかしく造ってあるのか、八瀬葵には判断がつかなかった。
とにかく、年代がかった雰囲気の喫茶店である。
「どうでしょう。お金をいただいても良いレベルに、達していますか?」
店のマスターが、そんな事を訊いてくる。緑色の瞳が、向かい側の席から、まっすぐに向けられる。
ここを紹介してくれた青年と同じ、エメラルドグリーンの双眸。
見つめ返す事も出来ず葵は、俯き加減に紅茶を啜っていた。
アールグレイ、であろうか。紅茶の種類には、葵はあまり詳しくはない。蘊蓄を語るほどの知識もない。
飲ませてもらっても、紅茶の味の良し悪しなどわからないというのが正直なところであった。
ただ一口、味わった瞬間、葵の頭には曲が浮かんだ。
このレトロな喫茶店で紅茶を味わう、その情景にふさわしい音楽がだ。
(……誰に聞かせるんだよ、そんなもの)
そんな事を思いつつ葵は、とりあえず当たり障りのない事を言った。
「……美味しい、と思います」
「良い茶葉を使っていますからね。ある人のおかげで、格安で手に入れる事が出来ました」
マスターが微笑んだ。
30代前半、であろうか。日本語の流暢な、外国人男性である。
「このお店の、出資者のような立場の人です。とある英国企業の若社長なのですけどね。様々な事を、私はその人から厳しく叩き込まれましたよ。茶葉や豆の扱い、淹れ方から管理方法から価格設定……全てにおいて私、素人ですから」
優しい笑顔。
温かなものが、自分を包んでいる。葵は半ば呆然と、そう感じた。
ヴィルヘルム・ハスロ。
マスターは最初に、そう自己紹介をした。
茶色の髪に、あの青年と同じ緑色の瞳。彫りの深い、端正な顔立ち。
均整の取れた体格に、仕立ての良いスーツが似合っている。
まるでハリウッド俳優のような白人男性が、ここで喫茶店を開こうとしているのだ。
従業員募集に応じて店を訪れた葵が今、面接を受けている。そういう状況である。
募集に応じたと言うより、あの緑眼の青年に、この店を紹介されたのだ。
つまり葵がこの店で、今までのアルバイトのような失敗をやらかしたら、あの青年の顔に泥を塗る事になる。
そうなる前に、言っておかなければならない。
「……俺、接客が……全然、駄目なんです……」
「私もですよ。接客業は、初めてです」
ヴィルヘルムの笑顔は、変わらない。
「言ったでしょう? 商売の全てにおいて素人なんですよ私、本当に」
「……俺は……」
こんな所で自分は何をしているのだ、と葵は思った。
自分は、あの『虚無の境界』などという危険な者たちに狙われている。
アルバイトなど始めたら、この店にもヴィルヘルム・ハスロにも迷惑がかかる。
何しろ自分には、危険な連中に狙われる能力があるのだ。人の心を壊し、不幸をもたらす。それ以外には何の役にも立たない能力。
全て、説明しなければならない。
なのに葵は、頭の中で言葉を組み立てる事が出来ずにいた。
音楽が、聞こえてきたからだ。
ヴィルヘルム・ハスロの『音』。
その荘厳な調べが、葵の思考能力を圧倒していた。
荘厳さの中に、深い悲哀がある。
どのような悲哀であるのか、葵にはわからない。探る事など許されない、という気がする。
とにかく、その悲哀すらも、ヴィルヘルムは受け入れて自らの『音』にしてしまったのだ。
「……俺……俺は……」
自身の事を説明しなければならない。面接とは、そういう場なのだ。
自分が厄介極まる能力を持っている事、そのために狙われている事。この店にとって自分は、迷惑となり得る存在でしかない事。全てを、雇い主には話しておかなければならない。
説明など、しかし頭の中で組み立てる事は出来なかった。
葵の口から出てしまったのは、別の言葉だ。
「……俺……人を、殺してるんです……」
親友が、死んだ。
親友の恋人だった女性は、心が壊れたままだ。
「……そんな奴が……お客さんに、紅茶やコーヒーを飲んでもらうような仕事……出来るわけ、ないですよね……」
「私も、人を殺していますよ」
ヴィルヘルムの顔から、微笑が消えた。
緑色の瞳が、恐いほど真摯な輝きを孕む。
「人を殺した手で淹れたお茶を、お客様に飲んでいただこうとしているわけです。私という男はね」
「……ヴィルヘルムさん……」
「ヴィル、と呼んで下さい。私も貴方を、葵君と呼ぶ事にします」
すでに採用が決定したかのような口調である。
「葵君は懸命に、御自分の事を話してくれましたね。私も少しだけ、自分の事を話しましょうか……20年近く前、ブカレストの裏通りで、私は初めて人を殺しました。ただ一切れのパンを奪うためだけに、ね」
ブカレストというのが、どの国の都市であったか、葵は思い出せなかった。ハンガリーであったか、クロアチアか。
「その後、私はずっと、人を殺す仕事をしてきました。生活の糧を得る、ただそれだけのために」
「……お仕事、だったんでしょう? 人殺しを……楽しんでた、わけじゃないんでしょう……」
「さあ、どうでしょうね。どこかで楽しまなければ、やっていられない。そんな仕事でもありましたから」
エメラルドグリーンの両眼が、葵を見つめていながら、どこか遠くを見てもいる。
「私の手によって失われた命……それらは、私が後悔し反省し、己を責め続け、贖罪のために自ら命を絶ったとしても、戻って来る事はありません」
葵がいくら自身を責め続け、仮に自ら命を絶ったとしても、親友が生き返るわけではない。彼女が、心を取り戻してくれるわけではない。
ヴィルヘルム・ハスロは今、そう言ったのだ。
「生きている者が、死んだ人のために出来る事など、何もないのですよ」
「……何も……ない……」
「生きている者は、頑張って生き続けるしかないんです。重いものがあるのなら、それをずっと背負いながらね」
「……俺、頑張れる……でしょうか……?」
他人に聞くような事ではない、と葵は頭ではわかっていた。
「……俺、生まれてから1度も……頑張った事なんて、何にもなくて……自分からも、他の人からも、逃げてばっかりで……」
自分が何を言っているのか、葵はわからなくなりつつあった。
ただ、声が震える。
こちらを見据えるヴィルの顔が、じわりと潤み、ぼやけてゆく。
葵は、涙を流していた。
「……俺……頑張りたいです……」
「明日の午前中から、入ってもらいますよ」
葵が持参した履歴書に、ヴィルは目を通そうともしなかった。
「貴方に、いくらか他の人とは違う能力があるのは、見ればわかります。そのせいで、いろいろと背負ってしまっているのでしょう? 出来る限り力になりたい、とは思います。少なくとも、物理的な暴力から従業員を守るくらいの事は、私にも出来ますから」
「……俺……このお店に、迷惑を……」
「そんな余計な事は考えずに、働いて下さい」
ヴィルは言った。
「……偉そうな口をきけるほど、私も何かを頑張った事なんてありません。一緒に、頑張っていきましょう」
「……ヴィルさん……」
その時、喫茶店の扉が開いた。
同時に、音楽が聞こえた。優しい音楽だった。
葵にしか聞こえない、優しい音楽。だが言葉は厳しい。
「ねえヴィル。セカンドライフ症候群って、知ってる?」
ずかずかと店内に歩み入って来たのは、1人の日本人女性だった。夫婦、であろうか。
「仕事一筋だった男の人が定年になって、やる事なくなってトチ狂って、おかしな夢持ち始めてねえ。いきなり借金してレストランとか経営してみたりバンド組んでみたりで、奥さんにえらい迷惑かけちゃう病気の事」
「肝に銘じておこう。そうならないように……頑張る、としか言えないんだけどね」
「まったく、この子もまだ小さいのに」
5歳くらいの小さな男の子を、彼女は連れていた。
「おとうさん! しんそうかいてん、おめでとー!」
その子がヴィルに、仔犬の如く飛びついてゆく。
「もう、がいこくへいったりしない? ずっと、おうちにいてくれる?」
「そういうわけには、いかないさ。まあ……外国で撃たれて死ぬ、ような事は、もうないと思いたいけどね」
飛びついて来た息子の頭を撫でながら、ヴィルが言う。
そこへ、彼の妻であろう日本人女性が迫って行く。
「ちゃんとした利益が出るまで……途中で投げ出すなんて、許さないからね」
「わかっているさ。ここも1つの戦場だと思って、生き抜いて見せるよ」
「本当に、もう……キミだけが、頼りよ」
初対面の葵に、女性がそんな事を言ってくる。
「うちのヴィルを、よろしくね?」
「……は、はい……」
そんな答え方をして良いものかどうかも、わからなかった。
「おひるごはん、できたよ。あのね、ぼくも、おてつだいしたんだよー」
子供が、ヴィルの手を引っ張っている。
「……あ、じゃあ俺、帰ります」
葵は、席から立ち上がった。採用が決まった以上、今日はもうここにいる理由がない。
家族の時間を、邪魔してはならない。そう思ったのだが、
「葵君も、御一緒にどうですか?」
ヴィルが、そう言って微笑んだ。
「私の家族を、貴方に紹介しておきたいんですよ」
「……で、でも……俺なんかが……」
「ホットサンドなんだけど。この子がねえ、調子に乗ってパン切りまくるから、つい沢山作り過ぎちゃったのよね」
ヴィルの妻が、子供の柔らかな頬をむにーっと引っ張った。
「だから片付けるの手伝って下さいな。キミの、最初のお仕事って事で」
「……は……はあ……」
自分の家族と、最後に一緒に食事をしたのは、果たして何年前であったか。
葵は、もう思い出せなかった。
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