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<東京怪談ノベル(シングル)>


石の姫と魔王の女戦士


 イアル・ミラール(7523)が帰宅したとき、マンションの家主の姿はなかった。
「鍵は掛かってないから外出はしてないはず……」
 赤い瞳を翳らせ、小さな、それでいてふっくらした唇に人差指を添えると身をくねらせて様子を確認する。
 開いたカーテンからは午後の日差しが差し込み、テーブルには湯気の立つ石焼きイモがあった。そういう季節だ。「おやつにでもするつもりだったのかしら?」と微笑する。でも、家主たる響・カスミ(NPCA026)の姿はない。
 が、すぐに気付く。
 テーブルの下に落ちた一冊の本に。
「これは……羊皮紙?」
 古書である。
 すぐに気付く。
 カスミが、神田の古書店で手に入れたのだろうと。
「まさか」
 急いでページをめくる。
『許さない』
 そんなセリフが目に飛び込んできた。
 内容は、剣と魔法の中世ヒロイックファンタジー。
 主人公の勇者が、魔王に攫われたお姫様を助けに城へ乗り込もうとしている。多くの勇気ある兵士や民とともに――

『どうした、それまでか?』
 額に角を持つ魔王は涼しげに言う。どさ、とその目の前で膝をつく人影。背後には共に戦ってきた兵士などが累々と倒れている。
「くっ。姫様を助けるまでは……」
 力なく膝をついた人物は、赤い胸当てや肩当て、羽飾りのある赤い兜をつけたカスミだった。石畳の床に長剣を立てて立ち上がろうとしている。その鏡面のように磨き上げられた刀身に、魔王の端正な顔が映った。妖しい笑みをたたえている。
『姫を守りたいなら、気が済むまでそうすればいいだろう』
 パチン、と指を鳴らす魔王。びくっ、と体を痙攣させるカスミ。
 それだけではない。
 カスミの黒い瞳から、使命に溢れた輝きが消え人形のそれに変った。
 魔王の女戦士に洗脳されたのだ。

 その時から、カスミは苔生した地下石室中央にある姫の石像を守っている。瞳は人形のように輝きのないままだ。
 たまに、石室からふらりといなくなることもある。
『来たか』
 行き先は、魔王の寝室。天蓋と透けるヴェールが四方を囲む大きなベッド。
『それでこそ、我が従順なる女騎士』
 魔王はいつか対峙したときのような鎧を着けていない。下半身に薄衣を纏っただけの姿で両手を広げている。
「……」
 カスミ、この時ばかりは視線を横にそらせ恥じらいを見せる。
 そして、自らの胸を抱くように打ち震えながら魔王へと近寄っていく。ふわっ、とベッドのヴェールが閉じられ、部屋を灯していた蝋燭がわずかな振動に反応するように揺れるのだった。
 そして数時間の後。
「……」
 カスミは魔王のベッドから無言で抜け出すと、乱暴に剥ぎ取られた軽装甲の衣装に身を包み戻っていく。
 姫の石像の待つ地下石室へ。
 魔王の、もぞりと寝返りを打つ音を背中に聞きながら。



「ひどい……」
 本を途中まで読んだイアルは大きく目を見張って絶句した。
 物語の辛い展開。そして、カスミが部屋から突然いなくなっていること。
「ひどい」
 繰り返したのは、カスミが物語の勇者になっていると確信したから。こういった、読んだ者を物語の中に吸い込んでしまう魔本が神田の古本屋街にも紛れていることもあると知っている。
 感情移入した刹那、イアルの目の前は苔生して湿気のひどい石室と化していた。
 物語に取り込まれたのだ。

「……」
 気付けば、石室に入ったカスミが戻ってきたところだった。やや頬が上気しているが、表情は人形のようなままだ。無言でイアルの目の前まで来る。
「……」
 イアルは声を掛けようとしたが、何も言えなかった。状況から、自分が姫の石像になったのだと知る。無言でカスミを見詰め返すことしかできない。もちろんカスミはそれにも気付かない。
 そして時は経ち、苔も増えた。
 彼女は、恐怖に醜く顔を歪めた姫の石像のままだ。自身も苔生し、異臭を放つがそれに気付くこともない。
 何も変らない毎日。何も変らない日常。
 変るのは石の体に増殖していく苔だけ。
 自分は、何をしにこの物語に取り込まれた? カスミを助けに来たのではないのか。
 それなのに何もできない。石と化した姫となっても、何も……。
(カスミ……)
 呼んだつもりだがもちろん声は出ない。
 たまに姫を取り戻そうとかつてカスミと共に戦ったという兵士がここに来るが、魔王の女戦士と化したカスミがその全てを打ち倒している。
 何人も、何人も。
 中には「勇者よ、魔王の弱点が分かった。共に倒そう」と呼び掛ける者もいた。これまでと同じくカスミの一撃に倒された。「塩」と床に血文字を残して。
「……」
 はっ、と気付くイアル。
 いつも傍らに座っているカスミが立ち上がるのを感じた。いつものように魔王の夜伽に出掛けるのだ。イアルはその後ろ姿に打ち震えつつ涙するしかない。もちろん体は震えず、涙すら流せないが。
 その時に気付く。
(え?)
 カスミが、魔王の夜伽に出掛ける前にこちらを見たのだ。
 今までそんなことはなかった。
 何かが変っているのか?
「一瞬、姫の石像が震えたように見えたが……」
 カスミはそれだけこぼすと踵を返し部屋を出た。



「いや、間違いなく震えた」
 いつの日か、無言だったカスミが言葉を出すようになった。
 やはり夜伽に出掛ける前、イアルに振り向いた時だった。
 それだけではない。
「それと、前から気にはなっていたが……」
 いつものように肩越しではない。完全に振り向いてこちらに戻ってくるではないか。
 動けないイアルの顔を覗き込み、手を伸ばした。頬にカスミの手を感じた。温かい。これまで長らく感じたことのない人肌の温もりだった。
「……両頬の一条だけ苔生してない。なぜだ?」
 イアル、はっと息を飲んだ。
 頬に、カスミの親指が滑るのを感じる。なぞっているのだ。
(まさか)
 カスミが振り返ったのは「震えた」と思ったから。
 そしていま親指でなぞったのは……。
「これは……涙?」
 石像となっていたが、涙は流れていたのだ。苔を洗い流していたのだ。何より、その異変をカスミが気付いた!
(カスミ!)
 心の中の、歓喜の叫び。石像でなければ間違いなくうれし涙を――
「そう。これは……涙」
 カスミの瞳に、光が宿った。
 その後の反応は早い!
「おのれ、魔王めっ!」
 振り向いたカスミ。剣を力強く取り直している!
(待って……待って!)
 イアルの心からの叫び。
 奇跡は、再び起きた!
「そうか……姫、しばらくお待ちを。必ず魔王を倒してきます」
 カスミはイアルの呼び声に気付いたかのように向き直り唇の苔を落としたかと思うと……。
(あ……)
 キスをした。
 イアルの……姫の石化が解けた。
「姫……」
「魔王の弱点は塩です!」
 イアル、何もない空間から魔法銀製のロングソードとカイトシールドを召喚して驚いたままのカスミに説明した。
「わ、分かった」
 食堂へ急ぐ。
『グアッ!?』
「どけっ!」
 道中の魔物はカスミが切り捨て、走る。
 しかし!
「塩が……ない!」
 立ち尽くすイアル。姫の記憶にある、城のいくつかある食堂には、あるはずの場所に塩がない。周囲を探してもないのだ。
「弱点というのは間違いなさそうだが……他に塩のある場所は?」
「もう……ありません」
 カスミに聞かれ力なく俯くイアル。
「こうなったら……」
 仕方ない、とイアルが顔を上げた瞬間、カスミの瞳が勇者のそれではなく、カスミ本来の輝きを宿した。
「そうか……苔といえば湿気だ。来い!」
 カスミ、ひらめいたとばかりにイアルの手を取り走った。
「一体どこへ?」
「いいから今から言う部屋の場所を教えて! そこにきっと……」
 短い言葉のやり取りをしながら辿り着いた扉。
 そこでっ!
『待て』
 背後からの声。
 振り向くと魔王がいた。
『夜伽に来ぬしおかしいと思えば……姫が復活していたとはな』
「私が食い止めます。カスミさんはどうか……」
「分かった!」
『我を止めると? 笑止!』
 迫る魔王。扉を開けるカスミ。そしてイアル。
 ドガッ!
「くうっ……」
 なんとかカイトシールドをかざして魔王の突進を止めたが、そのまま扉の中に吹っ飛んだ。
『ほう。我を止めるとはその盾、なかなか面白いな』
 余裕の佇まいで部屋に入ってくる魔王。
 そしてここが書庫だと気付く。
 加えて、横から飛び掛ってきたカスミにも!
「魔王、くたばれ!」
『以前と同じ。何度やろうと無駄だ』
 振り向かれた剣を片手でいなす魔王。しかし、カスミの心は折れてない!
「書籍は湿気を嫌うんだ。盛り塩くらいしていてもおかしくない」
 カスミ、反対の手に握っていた塩を魔王の目に塗りこんだ。
『グオオッ!』
「イアルさん!」
「はい!」
 目を押さえて苦しがる魔王に――。



「目を押さえて苦しがる魔王に、勇者の剣と姫の魔法の剣が突き刺さるのです」
 ぱたん、とカスミが本を閉じた。もう、勇者ではない。
「そして姫とともに王国は再建され長らく民に平和をもたらすのでした。……石焼きイモは温めなおしますね?」
 テーブルの上ですっかり冷めてしまったサツマイモの乗った皿を両手に、イアルが振り向いてにこり。
「塩は多めかしらね?」
「そうですね」
 余談だが、物語の中の王国はそれ以降、塩を魔避けとして特に重宝したらしい。