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<東京怪談ノベル(シングル)>


復讐の終わり


「世の中お金が全て、とは言うけれど……」
 長い沈黙の後、弥生は言った。
「お金で買えないものって、確かにあるのよね」
「まさしく、そうです。私は貴女の御両親を裏切り、巨万の富を築きましたが」
 車椅子の男が、そこで咳き込んだ。
 微量ながら、血を吐いたようである。
「……この通り、もう長くはありません。お金で、命を買う事は出来ないのです」
 弥生の両親を裏切り、死なせた。
 それをスタート地点として成り上がり、とある巨大組織の幹部にまで上り詰めた男である。
 自分がこの男を上回る大富豪であったとしても、両親の命を買い戻す事は出来ない。
 そんな事を思いながら、弥生は言った。
「惜しみなくお金を使って、大勢のお医者さんに診てもらったのよね貴方。でも匙を投げられちゃったと」
「命が尽きる時とは、そのようなもの。どれほど高度な医療技術でも、国を買えるほどの大金でも……たとえ神の力をもってしても、私の命を救う事は出来ないのです」
 車椅子の上から男が、じっと弥生を見つめてくる。
 懇願の眼差し、である。
「ですから、さあ早く。病などで私の命が尽きてしまえば、貴女は永遠に、御両親の仇を討つ事が出来なくなってしまうのですよ」
「……そんなにお金のかからないお医者さんが1人、いるわよ」
 男の視線を避けるように、弥生は背を向けた。
「港の近く……漁師の人たちが昼間っから飲んだくれてる酒場の、隣の隣のもう1つ隣くらい、だったかしら? とにかく病院って言うか診療所だけど。腕は、まあ悪くない方だとは思うわ。駄目もとで診てもらうのも、いいんじゃない」
「……どこへ、行かれるのです」
 弥生は、歩き出していた。
 その背中に、男が声を投げかけてくる。悲鳴に近い声だ、と弥生は感じた。
「私に、生きろと言うのですか……よもや私を、許してしまうなどと」
「許すわけないでしょう。これが、私の復讐よ」
 振り返りもせず、弥生は言った。
「いくらお金を払っても、決して買い戻す事の出来ない日々……せいぜい悔やみなさい。悔やみながら1人、病気に怯えながら死んでいくのね」
 言いつつ、弥生は立ち止まった。
 前方の木陰から、人影が2つ、ゆらりと現れたのだ。
 1人は、親友の少女だった。
「言っとくけど弥生……うちの病院じゃ、あの患者さんは治せないわよ」
「だから駄目もとよ、駄目もと。あの先生なら、まあ治すのは無理にしても……余命3ヶ月の患者を1年は生き延びさせる、くらいは出来るんじゃない?」
 弥生は、微笑みを返した。
「来てくれたんだ……もしかして私の事、心配して」
「……弥生に何かあったら俺、間違いなく人殺しになってたぜ」
 もう1人が、怒っている。
「車椅子に乗った重病人だろうが何だろうが、ぶち殺してたぜ……俺に、そんな事させんなよ」
 ようやく少年の域を脱したかどうかという年頃の、若い男。
 この街で、不良少年のまとめ役のような事をしている。血の気の多い悪童たちに、兄貴分として慕われている若者である。
 そんな若者と、弥生は気が付いたら恋に落ちていた。
「そうね、キミはそんな事しちゃいけないし……私もしない」
 恋人のたくましい腕と胸板に、そっと身を寄せながら、弥生は囁いた。
 自分も今、決して金では買えない日々を送っている。
 手を汚した瞬間、返り血を浴びた瞬間、それは儚く消え失せてしまう。特に何の根拠もなく、弥生はそう感じていた。
 復讐は何も生まない、などというのは綺麗事。車椅子の男は、そう言っていた。
 それは確かにその通りだろう、と弥生は思う。
 仮にこの恋人と親友が、何者かに殺されたとしたら。何も生まないと頭で理解していながら、自分は復讐をするだろう。何も生まない復讐という行為に、その後の人生を費やしてしまうだろう。
 そうならないように、何があっても守り抜く。親友を、恋人を。
 その思いだけが、弥生の胸に満ちた。
 車椅子の男が、背後でどんな表情をしているか。絶望に打ちひしがれているのか、あるいは憎しみに狂っているのか。
 それはもう弥生にとって、どうでも良い事であった。


 この街で、両親に関して何か掴めるものがあるとすれば、最初の手がかりくらいであろう。
 弥生は、そう思っていた。
 それが、最初の手がかりどころか真相までが明らかになってしまった。
「あたしが、この街にいる理由……なくなっちゃった? もしかして」
 夕刻。通りを歩きながら、弥生は呟いていた。
 こんな事を言ったら、恋人は怒るだろう。俺は理由にはならねえのか、と。
 恋人や親友と、この街で楽しく暮らす。決して金では買えない、かけがえのない日々となるであろう。
 それは良い。
 だがその一方、弥生の中から何かが失われてしまったのは事実なのだ。
 目的を果たす。それはすなわち、目的を失ってしまうという事でもある。
 心にぽっかりと空洞のようなものを抱えたまま、自分はこの街で暮らしてゆくのか。
 そんな事を思いながら、弥生は見回した。
 本当に、騒がしい街ではある。今も居酒屋の店先で、男2人が殴り合いの喧嘩をしている。酔客たちが、囃し立てている。
 この街の住人たちは日頃まるで挨拶のように、こんな事を街中あちこちで繰り広げているのだ。
 その日常的な喧噪に紛れて、しかし今日は何かが、静かに行われている。住民が誰1人として気付いていない、何事かが。
 そんな気がして、弥生は朝から落ち着かなかった。
 ふと足を止め、路地裏を覗き込んでみる。血の臭いがした、ように感じられたのだ。この街で血の臭いなど、さほど珍しいものでもないのだが。
 ひょいと裏通りなどを覗いてみると、死体が転がっている。この街では、割とよくある事の1つである。
 死体はなかった。
 死体になりかけた少年が1人、転がっている。
「ちょっと……!」
 弥生は駆け寄り、抱き起こそうとして思いとどまった。動かしたら危険な状態なのかも知れないのだ。
「……や……弥生姐さん……」
 顔見知りの少年だった。弥生の恋人の、弟分の1人。
 あの車椅子の男が幹部を務めている組織で、末端構成員として働いている少年である。
 怪我をして、あの診療所に運び込まれて来た事も、1度2度ではない。
「またこんな怪我して……無茶な仕事させられてるんでしょう!? だから、いい加減あんな組織は辞めちゃいなさいって何度も何度も」
「……組織は……もう、ねえよ……」
 辛うじて聞き取れる声を、少年は発した。
「みんな……死んじまった……」
「…………殺されちゃった、って事? 殴り込みか何か? それとも内部抗争とか」
 どちらにしても、妙ではある。
 あの組織が壊滅するほどの大事が起こったのなら、街の住人たちも、のんびり居酒屋で殴り合いなどしてはいられない。内部抗争にせよ、外部からの攻撃にせよ、今頃は街のあちこちで銃弾や攻撃魔法が飛び交う殺し合いが行われているはずだ。
「あっ……と言う間だったよ姐さん……街の連中が、誰も気付かねえうちに……」
 少年は、血と涙を流していた。
「……プロだよ……あいつら……」
 あいつら、と呼ばれた者たちが、いつの間にかそこにいた。
 所々プロテクターらしきもので補強された、迷彩柄の戦闘服。ナイフ、それに拳銃。
 そんな武装をした男たちが、弥生と少年を取り囲んでいる。
 1人が、死にかけの少年に拳銃を向けた。
 弥生など眼中にない様子である。巻き添えで撃ち殺す事を、躊躇もしないであろう。
 どこかの組織が放った、殺し屋……と言うよりも軍隊に近い、と弥生は思った。あるいは、民間の軍事会社か。
 何にしても弥生は、銃口の前に立っていた。
 撃ち殺されようとしている少年を、背後に庇っていた。何故そんな事をしているのかは、弥生自身にもわからない。
 別の1人が、言葉を発した。
「雑魚だ。放っておけ」
 弥生もろとも少年を射殺せんとしていた1人が、拳銃を下ろした。
 そう見えた時には全員、姿を消していた。消えた、と見えるほどの、撤退の速さである。
 会話が、辛うじて聞こえた。
「任務完了……それにしても新人さん、なかなかやるじゃないか。あんた」
「ルーマニア軍にいたんだってな? まさに本職の手際良さだったぜ」
「……車椅子に乗った病人を、撃ち殺してしまいました……あまり気分が良くない」
「あんた、汚れ系の仕事はそんなに経験ねえと見えるな。まあ慣れだ」
 声も、聞こえなくなった。
 路地裏には弥生と、そして死にかけた少年が残されている。
 弥生は、携帯電話を開いた。
 うかつに動かすのは危険な状態だ。女の力で無理矢理に運んで行くよりも、あの診療所から男手を呼んだ方がいい。
 車椅子の男の事を、弥生はふと思った。
(そう……死んじゃったのね)
 浮かんだ思いは、それだけだった。