|
奮闘編.27 ■ 自分に取れる選択
――――少し、考えてみます。
消極的とも取れるような美香の答えを聞いて、武彦はその後もどこか上の空になりながらも、それでも仕事をしっかりとこなして帰って行った姿を見送った。
視界を濁す紫煙が不意に目に入りそうになって、ため息を一緒に吐き出しながら灰皿に煙草を押し付ける。
「気になっているんですか?」
ふと隣を見れば、相変わらず言われた通りに微笑みを湛えた妹――零の姿がそこにあった。
「……まぁ、な」
「教えてあげなかったんですね、お兄さん」
「お前もな、零」
お互いに言外に告げるのは、美香に対して一つの武器となる情報の存在だ。
ベリアスコーポレーションの黒い噂や、それを失脚させるだけの武器は正直に言ってしまえば揃っている。それこそ鶴の一声で一瞬にして追い込めるだけの不当な証拠というものは、実際にこの草間興信所の武彦の机の中にある、一枚のCD-Rに収められているのだ。
飛鳥。
美香を拾い、そのまま世話をしている彼女が美香の背後を洗った際に、様々な情報筋を紹介し、この決着をつけられるだけの武器がここにはあるのだ。それでもそれを告げてしまわなかったのは何故か。それは至極単純な話――美香自身の決意があるかどうか、だ。
企業との戦いにおいて、一つの企業を闇に葬れば、同時にその企業によって利を得ている者達から恨まれる事になる。裁判沙汰ともなればそれは尚更の話だ。
そうした状況を作り出しかねない情報という名の武器を美香に与えるのは、些かリスクが高い。
確かに借金は消えるだろう。消えるが、一歩間違えればそれ以上の憎しみを負わされる。
これはそういう戦いだ。
法的に見ても美香に非がないのは明らかだ。
確かに借金をしてしまった自分が悪いと債務を負った者は考えてしまうが、だからと言って法外な金を支払う義務はないのである。罪悪感と恐怖心、それに少しの自尊心が過剰な支払いというものを可能にさせていると言えるのが、ヤミ金と呼ばれるモノの正体だ。
法的な手段に訴えてしまえば、請求すら出来なくなる者達。それをさせないように、なるべくならばと飴と鞭を使ってみせるというのだから、憎まれっ子世にはばかるとでも言うべきか。ともあれ、美香の立場というのは決して悪くはない。
――――結局、美香が戦うか否かに懸かっている。
零にとってもそのケースを見た事がない訳ではないのだ。
確かに武彦の持つ情報は、相手の喉元に突き付け、食い破るだけの力を有している。だがもしもそれをしたなら、美香は自分の安全の為にこの街を離れる必要も出て来るだろう。
返ってきた金と、せいぜいが精神的苦痛に対する慰謝料。それだけを持って暮らしてきた街を捨てろと言うのは、酷な話だ。
「……結局、俺達は探偵だ。依頼者が依頼をするまで、仕事をする訳にはいかねぇよ」
再び新しい煙草を咥えて、武彦は自分に言い聞かせるように火を点けて呟いた。
苦い表情に、眉間に寄せた皺。それらが紫煙が目に入らないように顰めたものなのか、それとも美香に対して力になれない自分に対して苦い想いを抱いたが故のものなのか。
零には、それを推し量るだけの感情の機微を読み取る力はまだなかった。
◆ ◆ ◆
職場のロッカールームは、少々甘ったるい匂いが漂っている。衣服についた香水であったり、髪をセットする為の整髪料と香料の匂いであったりが散漫しているとでも言うべきか、とにかく女性らしい。
そんなロッカールームに甘い匂いを払拭するかのように、美香の重たいため息が重なった。
――自分は、どうしたら良いんだろう。
ロッカーの扉を開いて、下着姿のまま美香は心の中で呟いた。
確かに支払い状況に対して疑問を抱いたのは美香自身だ。
これまでの返済で、少なくとも自分が借りてきた分に関しては――それ以上の金額は払ってきたのだ。利率も正当な利率で計算すれば、実はその分も支払いを終えている。
だが、ベリアスコーポレーションという会社がどういう会社なのかを武彦に聞いて、美香はその判断を下せずに迷う結果となった。
そもそも、現在の生活は美香にとって苦しいものではない。
当初は水商売は社会の底辺であり、そんな場所から飛び出したいと思っていた気持ちだってなかった訳じゃない。身体を売って金を得るというのは、そういう場所なのだと。
だが、そんなものは偏見に過ぎないだろうと今の美香ならば言い切れる。
身体を売るというのは、心を売る訳ではない。
女が女の武器を使って仕事をする。水商売といっても、キャバクラやスナックといった店と違って疑似恋愛をする必要もない。特にこの店に足を運ぶ客というのは、そういうやり取りを求めたりもしないのだ。
ある意味、普通の仕事よりも恵まれていると思えるのだ。
社会的地位なんてものは、所詮は外聞でしかなく、自分自身の価値をそこに求めるなどナンセンスだ。それを言うなら、真っ当な仕事でこき使われながらも低賃金で長時間を働いて生きるという生き方をする方が、人生という時間において損をしているとも言えるかもしれない。結局は、自分自身が選んで生きる道なのである。
今の美香は、この仕事が――むしろこの職場が好きなのだ。
飛鳥と、飛鳥によって作られたお店。彼女を慕いながら足を運ぶ客達や、そんな客と時間を過ごす日々。どれもこれも、別に嫌う必要などない。
今回ベリアスコーポレーションを相手取るとなれば、そんな人達に迷惑がかかるかもしれないという懸念と、武彦が言うような「自分で撒いた種」であるという現実がある。
だからこそ、美香は今回の件は諦めるべきだろうかと考える。
――自分が撒いた種が原因で、店に迷惑を。飛鳥に迷惑をかける訳にはいかない。
それが美香にとっての現在の心情だ。
もらい過ぎていると自分で言えるぐらい、給料は貰っている。
この仕事がいつまで続くのか、いつまでこんなに稼いでいられるのかと考えれば不安は尽きないが、それでも今、払えない訳ではない。
もしも払えない日が来て、どうしようもなくなったら伝家の宝刀を抜けば良い。
そんな考えが美香の脳裏に浮かんだ。
でも、諦めてしまって良いのだろうか。
――――そんな時だった、柔らかな匂いと感触に後ろから包まれ、美香が思わず声をあげた。
「うーん、美紀ちゃんの肌ってすべすべなんだねぇ〜」
「ゆ、優奈さん?」
「あはっ、おっはよ〜」
相変わらずどこか拍子抜けしてしまうような柔らかな口調でもって、後ろから抱きついてきた張本人である優奈が返事をする。それでも手を放そうとはせずに抱きつき、美香の顕になって肩に頬をすり寄せたままだ。
「こんな格好のまま動かないし、どうしちゃったの〜? 何かお悩み事かなぁ?」
「そ、そういう訳じゃ……――」
「――あはっ、嘘ついちゃダメだよ〜。美紀ちゃん嘘つく時、少しだけ身体が強張るもんねぇ〜」
いつの間にやら美香の癖を見抜いていたのか、優奈はあっさりと美香の弱点を口にする。美香でさえ、言われてみて初めて気付いた事だ。相変わらずの柔和な雰囲気だが、その言葉や目は真実を真っ直ぐ指摘するかのような鋭さを混在させていた。
その鋭さにまるで日本刀のような鋭利さすら感じさせられた美香が、思わずぞくりと身体に走る悪寒に身体を震わせると、優奈はようやく美香の身体を解放した。
「あらら、ちょっと怖かったかなぁ? ごめんねぇ〜」
「そ、そんな事ないですよっ! というか、私も気付かなかった癖なのに、凄いですね……」
「肌を見る仕事をしてるからねぇ〜。少しでも動いたりすると、分かっちゃうんだぁ」
さりげなく武術の達人さながらの言葉を口にする優奈がにへらと笑って告げる。そんなのはアナタだけですよ、と言いたくなる美香であったが、その言葉を口にする事もなくぐっと堪えて優奈を見つめた。
へらりと笑っている表情から、細められていた瞳がすうっと僅かに開き、優奈が口を開いた。
「ねぇ、美紀ちゃん。迷ったらどうすれば良いと思う?」
「え……?」
「人ってね、迷ったら足を止めちゃうんだよねぇ〜。そういう時って、どうしても悪いことばっかり考えちゃって、なかなか足を踏み出せないんだよ〜」
自分のロッカーに向かって歩きながら、優奈は相変わらずのおっとりとした口調で続けた。
「でもねぇ、そういう時って自分でやるかやらないかを決めるしかないんだよねぇ。だから、何に迷っているのかじゃなくて、やるのかやらないのかを決めて踏み出すか辞めるかを決めるしかないんだよ〜」
はっとさせられて、美香は口を開けたまま呆然とさせられた。
優奈が何か詳細を知っている訳ではないが、それなのにどうしてこんなにも的確に助言してみせるのか。その違和感は拭えなかったが、優奈の言っている言葉は本質を突いている。
「あはっ、歳取っちゃったのかなぁ? 説教みたいだねぇ〜」
再びへらりと笑って、優奈はロッカールームを後にしようとする。その姿にお礼を口にしようとした美香であったが、そんな美香を気に留めるでもなく、優奈はあっさりとロッカールームを後にするのであった。
「……やるかやらないか、かぁ」
何とも毒気を抜かれたというか、優奈に全てを見透かされたというか。
そんな気分で美香はようやく、着替えを再開したのであった。
その頃、事務所へとやって来た優奈が飛鳥に向かって声をかけていた。
「ねぇ、飛鳥ちゃん。あの子、このままで良いのかなぁ?」
「……はぁ。まったく、優奈は昔っからおっとりしてるようで核心ばっかり突くんだから」
飛鳥が思わず優奈を見て呆れたように呟いた。
そもそも、飛鳥の差し金によってちょっとした助言をしてみせた優奈だ。
武彦から美香がベリアスコーポレーションに対峙するかもしれないという話を改めて聞いて、もしも迷っているようなら声をかけてくれと頼んだ飛鳥であったが、その選択は間違いだったかもしれないと思いつつあった。
「――――私、ベリアスコーポレーション、潰しちゃうかもしれないなぁ〜?」
「……優奈、アナタのそのおっとり口調でそういう事言われると、明日にはニュースになってそうだからやめてよね」
からからと笑う優奈を前に、飛鳥は頭痛がすると言わんばかりにこめかみに指を当てて呟くのであった。
今日も『RabbiTail』は癖のあるキャストに支えられて営業しているのである。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
ご依頼有難うございます、白神です。
さて、今回は美香さんが足を止めてしまう形になりましたが、
周りが静観――出来ているのか怪しいところではありますね。笑
優奈というキャラクターは、なかなか美香さんにとっての刺激になりそうです。
一番怖いタイプなのかもしれませんが。笑
お楽しみ頂ければ幸いです。
それでは、今後とも宜しくお願い申し上げます。
白神 怜司
|
|
|