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<東京怪談ノベル(シングル)>


改変不可能なる情報


 よく眠れなかった。
 仰向けでも、うつ伏せでも、寝苦しい。
 胸の辺りの、重く柔らかな異物感から、どうしても逃れられないのだ。
「女の人っていつも……こんな大変な思い、しているんですねぇ……」
『それは贅沢な悩みというもの。貴女、世の中の貧乳ちゃん微乳ちゃん達に殺されちゃうわよ?』
 朝食を済ませ、歯を磨きながら、松本太一は会話をしていた。姿のない相手とだ。
 質量ある姿形というものを、果たして持っているのかどうか怪しい相手である。
「あの、私……死んじゃった、んですよね?」
『生きているじゃないの』
 太一の頭の中に、心の中に、身体の中に、隠れ棲んでいる女悪魔。
 イマジナリーフレンドの類ならば、精神科に通ったり、現実社会で対人関係を経験したりすれば、消えてくれる事もある。
 だがこの女性は、病院へ行こうが現実的交友関係を広げようが、太一の中から居なくなってはくれないのだ。
 そして、こんなふうに物理的・肉体的な異変をも引き起こしてくれる。
『貴女はね、生まれた時から女だったのよ。48歳の中年男・松本太一なんて、最初からこの世にはいなかったの』
「私……女なのに、松本太一なんですか?」
『名前だけは、書き換えられなかったわ』
 それ以外のほぼ全てを、太一は書き換えられてしまった。年齢も、そして性別も。
『松本太一、それは貴女の真名……私の力をもってしても、改変出来ない情報よ』
「……もちろん、いつかは男に戻してくれるんですよね?」
『後で元に戻すくらいなら、最初からやらないわよ』
 女悪魔が、容赦なく即答する。
『女に変身なんて、しょっちゅうしていた事じゃないの。今更戸惑うものでもないでしょうに』
「24時間ずっと女なんて、初めてですよ……」
 口をすすぎ、洗顔を済ませながら、太一は途方に暮れていた。
 何故、こんな事になってしまったのか。
 特別な状態というものに憧れる気持ちが、全くなかったと言えば嘘になる。
 48年間、特別な状態とは縁を持たずに生きてきた。普通の家庭に生まれ、普通に義務教育を終え、普通に高校そして大学へと進み、普通に社会に出てサラリーマンとなった。
 特別な事など何1つない日々の中で、特別な何かを、心のどこかで求めていた、のかも知れない。
 その願いが叶ってしまった、という事なのか。
 今の自分ほど特別な状態にある者は、日本いや地球全土を見渡しても、そう何人も見つからないだろう。
 この『特別』の先に、しかし何があるのか。
 何かを、自分は探すべきなのか。
 あるいは、女性化した己の肉体に戸惑いながら日々を過ごしてゆくのか。それだけで良いのか。
『魔女としての力を、世の中の役に立てたい……なぁんて考えてる? もしかして』
 女悪魔が言った。
『力を持った瞬間、世界征服とかに走っちゃうような奴……いない事もないけど、実は意外と少ないのよね。それより正義の味方になりたがる輩の方が多いわけよ、これが』
「別に、正義の味方をやりたいわけじゃないですけど……」
『やりたいなら力になってあげる。だけど私が、正義の味方とは対極にある存在……悪魔だという事だけは、忘れない方がいいわよ』
「もちろん、忘れた事なんてありませんよ」
 詰め物ではない胸の膨らみを、太一は両の細腕で抱え込んだ。
「……これが、悪魔の所業じゃなくて、何だって言うんですか」


 若い頃から、いや思春期の少年の頃から、女性の肉体というものに対して、あまり興味を持てなかったような気がする。
 硬派あるいは清廉であったわけではない。ただ単に、男として何かが欠けていただけなのだろう。
 今思えば、あの頃から、何かしら女性的なものが心の中で育まれていたのかも知れない。
 普通に女子更衣室で着替えが出来る身体になっても、だから太一は全く興奮もときめきも出来ずにいた。半裸の若い女性が、周囲に何人もいるのにだ。
 同じ部署のOLたちが、会社の制服に着替えながら、話しかけてくる。
「あれ、松本さん……今日もしかして、すっぴんですか?」
「え、ええ……お化粧、どうも苦手で」
 先日、鏡の前で化粧の練習をしてみた。
 おかしな顔にしかならなかった。
 鏡の中に、恐ろしい厚化粧の怪物が出現した時は、女悪魔に容赦なく笑われたものだ。
「もったいないなぁ。元が綺麗だから必要ないってのも、わかりますけどぉ」
「いやいや。お化粧ってのはね、元が綺麗な人だからこそ映えるもの」
 納涼祭やハロウィンの時にメイクをしてくれたOLたちが、寄って来た。
「松本さんって、お仕事はキッチリしてるんだからさぁ。メイクもばっちり決めて、もっとデキる女ってのをアピールしないと」
「うっふふふ。あの雪女とか魔女、とっても素敵だったわよ?」
 彼女たちの中では「48歳の男性社員を女装させて楽しんだ」記憶が、「いくらか地味めのOLを派手にメイクアップさせて楽しんだ」記憶に書き換えられてしまっている。
 どちらにせよ太一が、流されるまま玩具のように扱われてしまった事に違いはない。
 流されるまま、このような『特別な状態』に陥ってしまったのだ。
 夜宵の魔女……強大な力を持つ者としての、覚悟も自覚もないままにだ。
 やはり、目的を見つけるべきではないのか。
 世界征服、あるいは正義の味方。そんな大層なものではないにせよ、何かしら行く先を見据えて力を振るう必要があるのではないのか。
『……何だか御立派な事、考え始めているわね貴女』
 女悪魔が、呆れている。
『考え始める傍から、流されて玩具にされちゃってるわけだけど。その辺はどう?』
「いや、まあ……確かに、現実逃避にしかなってないんですけど」
「ほらほら喋らないで。口紅ずれて、面白い顔になっちゃいますよ?」
 OLたちが、口紅だけではなくアイライナーやチークブラシで、太一の顔を弄り回している。
 流されてしまう性格は、真名と同じく、悪魔の力をもってしても変える事が出来ないようであった。