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草木の箱庭
長いこと睨み合っていた地図から顔を上げて、海原・みなもは鬱蒼と光を遮る木々を見渡した。
とある高名な画家からモデルのアルバイトが舞い込んできたのは、ほんの数日前のことである。人間と自然の調和を題材とし、その信念のために森の古びた屋敷をアトリエとする彼の作品は、みなもも一度ならず目にしたことがあった。
思わず嘆息するような――。
神秘的なおぞましさがあったように記憶している。
その彼の作業場に直々に招かれることへの誇らしさを胸に、彼女は眼前の屋敷を見上げる。
深緑の間に紛れるようにして、まだらに照らされた洋風の館である。縦横に蔦が走り、苔に侵された灰色の外壁に取り付けられた、いっそ幽霊めいた繊細さの黒い鉄門がみなもを迎え入れようとしていた。
見たところ家主を呼ぶベルはない。底冷えするような漆黒の入口を前に、さて触れるべきかと繊手を彷徨わせる彼女に、門は軋んだ音で応えた。
目を上げたみなもの前に音もなく立った画家は、彼女の青い瞳の奥を覗くような眼光で破顔した。
まともに見据えた光に震える体をいなして一礼する。咄嗟に踵を返したいような衝動を生来の生真面目さで抑え込んで、彼女は画家の男に続いて広大な庭へ足を踏み入れた。
「奥まったところですから、分かりづらかったでしょう」
「ええ、まあ――」
迷いのない足取りのうちに男が訊く。曖昧な応答に尚も機嫌よく頷いた彼は、屋敷の赤錆びた大扉を開いた。
その先の風景に――。
みなもは鋭く息を吸った。
かつては大広間だったのだろうそこは、無数の緑に侵食されていた。光を失って久しいシャンデリアをも覆う植物たちが、薄暗い部屋のところどころに鮮烈な色彩を咲かせていた。
「私の信念は、知っての通り人間と自然の調和です。そのためにはこういう場所が必要なんですよ」
満足げな声には、辛うじて頷くことができた。
一面の緑色に取り残された椅子に腰掛けるよう促される。足下の緑を容易にかわしてカンバスの前に移動する彼の背を見ながら、みなもは慎重に持ち上げた足を下ろす。
その隙間から覗く床に――。
魔方陣めいた傷を僅かに見たような気がした。
存外に小綺麗な椅子の前にどうにか辿り着いて、安堵の吐息と共に座り込む。
みなもの意識はそこで途絶えた。
遠い薄明かりに瞼を震わせたみなもが目を開けると、眼前には狂気めいた光を孕む双眸があった。
男の瞳に走る血管の一つまでが青い瞳に飛び込んで来る。息を呑んだみなもは、そこで違和に気付いた。
音が――。
聞こえない。
周囲を見渡して、少女は状況を悟る。空疎な白いカンバスの中に浮いた己の体は、今まさに、目の前の画家の手によって描き換えられようとしているのだ。
みなもの声なき悲鳴に弧を描く唇の主は、とうとう彼女の体に絵筆を下ろした。
深い青の瞳を土壌にして、まず大輪のクレマチスが咲き誇った。次いで、白磁の肌が、根の苦痛を誇張するかの如く瑞々しい犬桜の大群に変わる。
鮮烈な光を放つデルフィニウムと矢車菊の塗り込められていく髪に悲しげな悲鳴を漏らそうとした唇から、数多のアネモネが零れ落ちたとき、みなもは己の真実を知った。
――絵画だ。
絵画は絵筆によってしか語られない。体に苦痛の蔦を絡ませ、数多の花を咲かせる油の色彩だけが、みなもが発しうる唯一の声だった。
自分が狂気の苗床となったことを悟った刹那、少女は自身を彩る鮮烈な花々の全てに自身が拡散していくのを知った。養分を吸い上げるように心を奪われて、最後には心地よさだけが支配する断片が、みなもの底に残った。
艶やかな葉の緑に侵され、絶えずアネモネを零す唇から、音のない声がまた一つ漏れる。
緩やかに弧を描いた柔らかな花びらが、新たな絵画の誕生を静かに祝った。
古びた館の庭に花が咲いている。
主人がその名を呼ぶと、デルフィニウムの濃厚な香りをまき散らしながら振り向いた。二つのクレマチスから蜜を零し、アネモネの花びらを笑むように震わせて、それは彼へと近づいていく。
白いカンバスの中に手を差し伸べたそれが、ふと花の香りだけを残して色彩になる。途端に幾多の色がカンバスを彩って、後には艶やかな芳香だけが漂った。
みなもと題された微笑する花々の絵を、画家の手が慈しむように撫ぜた。
終
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