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いと高き処、神に栄光あれ
人を、音でしか判断出来ない。それでは駄目なんだ。
遠い昔、そんな事を誰かに言われたような気がする。
夢の中で言われた、のかも知れない。夢なら、すぐに忘れてしまいそうなものではあるが。
何にせよ、他人を判断するには『音』を聴くのが最も手っ取り早い。それは事実であった。
会話をする必要が、ないからだ。
自分が他人との触れ合いを苦手としているのは、会話をする事なく相手を判断出来てしまう、この能力のせいではないのか。
八瀬葵は、そう思わない事もなかった。
「……って駄目だよな、何かのせいにしてちゃあ」
呟きながら葵は、その場を立ち去る事が出来ずにいた。
聞こえてしまったからだ。『音』が。
哀しみと寂しさ。いかなる音であるかを言葉で表現するとしたら、それしかない。
早朝。アルバイト先の喫茶店へと向かう、道の途中である。
葵の職場である、喫茶店の近く。
雑居ビルと空き店舗の隙間に、その少女は佇んでいた。
10歳前後、と思われる小さな女の子。
哀しみと寂しさの『音』そのものが、細く弱々しい少女の姿として具現化している。葵は、そう感じた。
「見つけた……」
少女は言った。
独り言ではなく、葵に話しかけてきている。
「あたしと同じくらい、寂しい人……」
「君は……」
いかなる返事をするべきか、頭で考える前に、葵は感じた事を口に出していた。
「生きて……ない? もしかして……」
「何で、そう思う?」
少女が、にっこりと儚げに微笑んだ。
生きている人間に、こんな綺麗な『音』が出せるわけがない。葵は、そう思っただけだ。
「まあいいや……それより、お兄ちゃんも一緒に行こ?」
「どこへ……」
訊くまでもない、という気はした。
「1人は、寂しいよ……そうでしょ? だから一緒に行くの」
少女が、小さな手を差し伸べてくる。
少し前の自分であれば、その手を握っていただろう、と葵は思う。
「……俺は、行かない」
「どうして? 1人は、寂しいよ?」
少女が、じっと見つめてきた。
「わかるよ……お兄ちゃん、1人なんでしょ?」
今の俺は、1人じゃない。葵は、そう言ってしまいそうになった。
口に出して、言う事ではなかった。
「俺は……1人さ。確かに寂しいよ」
葵は、少女を見つめ返した。
まっすぐ、お客様の顔を見て。そうすれば自然に、ある程度は大きな声が出ます。
雇い主である喫茶店のマスターが、助言してくれた事である。
「……だけど、君と一緒には行けない。これからバイトだから」
「……1人は……寂しいよぉ……」
少女の愛らしい顔が、険しく醜く歪んでゆく。
寂しさと哀しみが、憎悪に等しいところまで達しているようだ。
「1人は……嫌……あたしと行くのぉ……お兄ちゃんも、一緒に行くのぉおおおおおおお!」
おぞましい憎悪の『音』が、葵を襲った。
身体が動かない。逃げる事も、耳を塞ぐ事も出来ない。
憎悪の思念の塊となった少女が、ゆら……っと葵に迫って来る。
そして止まった。止められた、ようにも見えた。
「どうにか普通に人と話せるようになって……仕事も見つかって」
そんな事を言いながら、誰かが歩み寄って来た。
黒一色のスーツに身を包む、1人の青年。
初対面の時から、何やらいろいろと世話を焼いてくれる彼が、じっと少女を見据えている。
「前向きに生きられるように、なってきたとこなんだ。連れて行かせる、わけにはいかないんだよ」
その両眼が、エメラルドグリーンの光を燃やしている。
力を有する眼光が、少女を射すくめていた。
「フェイト……さん」
「ごめん、付きまとってた。ストーカーみたいな事してるって自覚はあるよ。だけど、あんたの護衛は俺の仕事なんでね」
言いつつフェイトは、緑色の眼光で少女を威圧し続けた。
威圧だけではない。この青年がその気になれば、霊体だけの少女など、一瞬にして消えてなくなる。
それほどの『力』が、エメラルドグリーンの瞳に漲っている。
「説教臭い事、言うわけじゃないけど……難儀な力を持ってるのは、葵さんだけじゃあない」
「何……何なのよ、あんた……」
少女が、怯えている。
フェイトの『力』を、感じ取っているのだ。
緑色の瞳を、容赦なく輝かせながら、フェイトは言った。
「葵さん。俺これから、ちょっと嫌な事するからさ……見たくなかったら、バイト行きなよ。ヴィルさん、待ってるから」
生きてはいない少女を、この世から解放してやるには、力で無理矢理に消滅させるしかない。
それを実行する、とフェイトは言っているのだ。
「あんたも連れてってやる! あたしと一緒に、恐くて冷たい所へ!」
少女の姿が、激しく歪んだ。
白い肌が破裂し、中から憎悪の念が溢れ出して来る。そんな感じだ。
「あたし1人で行くのは嫌! 1人は嫌! ひとりはイヤぁあああああ!」
「……そうだよな。1人は、嫌だ」
フェイトの呟きに、何者かが続いた。
「誰もが1度は、1人で行かなければならない場所です。恐くて冷たい所になるのかどうかは、貴女次第ですよ」
身なりも体格も良い、まるでハリウッド俳優のような外国人男性。
葵の雇い主である喫茶店店主……ヴィルヘルム・ハスロであった。
「マスター……」
「おはよう葵君。今日も頑張っていきましょう……おはようフェイトさん。当店の従業員を護衛して下さって、どうもありがとう」
「葵さん、ちょっと厄介な連中に目を付けられてるからね。この子は、そいつらとは別口みたいだけど」
厄介な連中というのは、あの『虚無の境界』という組織の事であろう。
「わかるもんか! 生きてる奴に、あたしの気持ちなんて! わかるもんかあ!」
少女が、今や形容し難いほど醜く歪み捻れながら叫ぶ。
「パパもママも泣いてるの! あたしはここにいるよって声かけても気付いてくれないの! あたしの声が聞こえないの! あたしは1人! ひとり! 1人は嫌! 1人は嫌だからアンタたちも一緒に行くのぉオオオオオオッ!」
「……これは、パパとママからの贈り物ですか?」
ヴィルが、長身を屈めた。
少女の足元に、何かが転がっている。
ゴミ捨て場も同然の路地裏に放置された、廃品の1つ。
小さな箱、であろうか。
少女の姿は、その小箱から、立ちのぼるかの如く発生しているようであった。
「オルゴール……だね」
フェイトも身を屈め、その小箱に見入った。
「壊れてる? みたいだ」
「それなら、やる事は1つですね」
ヴィルが、小さなオルゴールを拾い上げる。
その形良い五指が動いた、と見えた瞬間、オルゴールはバラバラになっていた。
そして再び、組み立てられていた。
どうやら修理されたらしいオルゴールが、音楽を奏で始める。
フェイトが、唖然とした。
「え……直ったの? 凄いね、ヴィルさん」
「銃の分解清掃に比べれば、楽なものですよ」
そんな事を言いながらヴィルが、掌の上でオルゴールを鳴らしている。
葵も知っている曲であった。音楽の勉強をしている時に、聞いた事がある。
優しい音色の曲、だけではなく歌も聞こえた。誰が歌っているのか。
自分である事に、葵はしばらく気付かなかった。
「ぐ、ろぉおお……おぉおぉお……おぉおぉおー……おぉおおお……りあ……」
歌が、身体の奥から沸き起こり、唇から溢れ出す。
「いん、ねくしぇるしす……で……お……」
曲が流れているから、歌う。ただ、それだけだ。
何も考えず、葵は歌っていた。
痛ましいほど醜悪な怪物に変わりかけていた少女が、元の可憐な姿に戻りながら、光に包まれてゆく。
「パパ……ママ……」
少女は、涙を流しながら、微笑んでいた。
悲しそうな、寂しそうな笑顔が、キラキラと光の中に消えてゆく。
「パパとママにも、いつかきっと貴女の声が届きますよ」
ヴィルが言った。
「だから今は、1人でお行きなさい。いずれ私も1人で行かなければならない場所です。そこを、恐くて冷たい場所にしないで下さい。どうか、優しさで満たして」
そこで、ヴィルは微笑んだ。苦笑、のようでもあった。
「……いえ、私がそこへ行けるはずはありませんね。私が行くのは、本当に恐くて冷たい場所です」
「あなたも……」
何かを言いかけながら、少女は消えた。
小さなオルゴールだけが、ヴィルの掌に残っている。
「俺は……」
我に返ったように、葵は歌を止めた。
「俺……今……」
「歌ってた。俺もヴィルさんも聴いてたけど、何ともないよ?」
フェイトが、葵の細い肩をぽんと叩いた。
「自分の歌が人を不幸にする、なんてのは単なる思い込みさ。あんたの歌は、ただの……いい歌だよ」
「葵君の歌は今、1つの魂を救ったのですよ」
ヴィルが、あり得ない事を言っている。
自分の歌が誰かを救う、などという事が、あるはずはないのだ。
「君の歌には、人の心を救う力があります」
ヴィルが、まっすぐに葵を見据えた。
「それ以外の力などありません。そもそも歌に、人を壊したり死なせたりする事など出来るわけがないのですよ。人を殺せるのは、武器と暴力だけです……長く戦場にいた私が言うのですから、間違いはありません」
「マスター……俺は……」
「……さあ、仕事ですよ。葵君」
話を終わらせるかのように、ヴィルは笑った。
「君を目当てのお客様が、今日も大勢いらっしゃいます。笑顔を忘れないように」
どちらかと言うと、店主ヴィルヘルム・ハスロが目当ての客の方が、多いようではある。
とにかく店内にいるのは、ほとんど女性客であった。
レモンティーをすすりながらフェイトは、いくらか居心地の悪さを感じていた。
この店の主な出資者である人物とは、知り合いである。
彼に本場・英国流の紅茶というものを振る舞ってもらった事はある。
あれと比べて、この店の紅茶が美味いのか今一つであるのかは、フェイトの舌では判断がつかなかった。紅茶の味など、わからない。
この店で飲める物なら、コーヒーの方が自分の舌に合う、とフェイトは思っている。
これでもかというほどの、アメリカン・コーヒーであった。
4年間アメリカン・コーヒーを飲み続けてきたフェイトにとって、実に馴染む味であった。
いささか安っぽさは否めないアメリカン・コーヒーの味に、ヴィルヘルム・ハスロは何か思い入れを抱いているようである。
「頑張ってるじゃないか、葵さん」
手が空いた時を見計らって、フェイトは従業員に声をかけた。
「思ったより繁盛してるみたいで良かったよ、この店」
「フェイトさん、あんた……もしかして暇なの?」
執事風の制服を着せられた葵が、そんな事を訊いてきた。
今のところ彼の接客は、この制服に負けていると評価せざるを得ない。
落ち着きに欠け、丁寧な言葉遣いもぎこちなく、紅茶やコーヒーをこぼさずに運ぶのが精一杯という様子で、まあ微笑ましくはあった。
自分が接客をしたら、もっとひどい事になるであろう、ともフェイトは思う。
「言ったろ、あんたを護衛するのが仕事だって……あれから何か、虚無の境界の連中が手を出してきたりとかは?」
「今のところ、ないよ……それっぽい連中が来た事はあるけど、マスターが話だけで追い払ってくれた」
ちらり、と葵が視線を動かす。
同じ制服を着たヴィルヘルム・ハスロが、何人もの女性客に囲まれ、質問攻めに遭いながら、よどみなく紅茶の説明をしている。
全て御曹司からの受け売りですよ、とヴィル本人は言っていたが、それを全く感じさせない見事な接客であった。女性客は皆、舞い上がっている。
ハリウッド俳優のような美形のマスターと、美少年の従業員がいる喫茶店。
という事で、この店はあっという間に話題となった。
美少年と言っても20歳なのだが、とにかく連日、女性客で賑わっている。
連日、マスターの奥方が、いささか難しい顔をしている。それがフェイトは気になった。
「マスターにも……それにフェイトさんにも俺、借りが出来ちゃったよな……」
「言っちゃ悪いけど、あんたに何か返してもらおうなんて期待はしてないからな」
素っ気なく、フェイトは言った。感謝などされても面倒なだけだ。
気を悪くした、わけではないようだが、葵がじっと見つめてくる。
いや。見ているのではなく『音』を聞いているのだとフェイトは感じた。
「何か……変なものでも、聞こえるのかな?」
「いや、その……ごめん、たぶん気のせいだと思う。あんたの中から……フェイトさんの音、じゃないものが聞こえたような気がしたんだ」
葵は、目を逸らせた。
「フェイトさんの音は、はっきり言って荒っぽい……その下に、何か……そうじゃない音が、ずうっと流れてる……それも、あんたの音なのかも知れないけど」
すいませーん、という声が客席から上がった。追加注文のようである。
はい、と応えながら葵がそちらへ向かう。
フェイトは無言で、その背中を見送った。
アメリカで、1人の少女に魂を分けてもらった。
フェイトという魂は1度、完全に失われてしまったのだ。
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