|
終焉の悪魔・1
――恐れよ、恐れこそ崇高なり。
そう告げた悪魔がいた。
ほんの数ヶ月前の話である。
美しき武装審問官、白鳥瑞科が礼拝堂にて一人静かに祈りを捧げているところであった。
ヴェールから漏れ見える艶のあるロングヘアがさらりと肩を滑る。伏せた瞼にステンドグラスからの光が舞い降りてまつ毛の先にその光が集まり、宝石で飾られているかのような輝きを放っていた。
「シスター瑞科。『司令』がお呼びです」
「……分かりましたわ。すぐに向かいます」
重い扉がゆっくりと開かれた後、一人の修道士が姿を見せて瑞科に声をかけた。
瑞科はその言葉に反応するようにして祈りの姿勢を解き、静かに立ち上がる。
深いスリットが入ったシスター服からは美脚が見え隠れして、悩ましい。禁欲的な信仰をしているにもかかわらずその色気を包み隠さない彼女の肢体は、誰が見ても内心が跳ねた。
瑞科を呼びに来た修道士も例に漏れずであり、直後に慌てて十字を切り己を正していた。
礼拝堂からの長い回廊を、瑞科は一人歩み進める。
荘厳な作りの教会は、不思議なオーラに常に包まれていて、それは清らかなものだと呼吸するたびに感じる。
規則正しい足音がしばらく続いた後、瑞科は一つの部屋の前に辿り着いた。
無駄のない所作で右手を上げ、軽やかに扉をノックする。
数秒後、扉の向こうから「入りたまえ」との声が聞こえた。
「失礼致しますわ」
ドアノブを捻り、奥へと一歩。
瑞科の視界に入り込んできたのは、一人の神父の姿であった。
「呼び出して済まないな、白鳥君」
「いいえ、平気ですわ。それより、任務ですの?」
「察しが良くて助かる。これを見てくれ」
神父はそう言いながら、瑞科の目の前に数枚の資料を差し出してきた。
細かに書かれた文字と写真がある。
見覚えのある古い教会と、高層ビル。
「……あら、これって……」
「君が数ヶ月前に殲滅したあの教団組織だ。調べたところさらなる黒幕がいると判明した」
建物ごと悪魔を信仰する老神父を葬った。
彼は組織のほんの一部分、駒のような存在にしか過ぎなかったことが、紙の上に記されていた。
「表向きは普通の企業ですのね。随分と仰々しい高さのビルですこと……」
資料に目を通しつつ、瑞科はそう言った。
要人と思わしき人物が三人。
初老の男と黒髪のメガネの女と三十代と思わしき男。
「今回のわたくしのお相手かしら」
「ビルは三つのエリアに分かれている。彼らはエリアごとのリーダー格だ。戦闘のスペシャリストであり、熱心な悪魔崇拝者でもある」
「結構なことですわ」
神父の言葉に、瑞科は余裕の笑みを見せてそう応える。
そして彼女は資料を机に戻し、くるりと踵を返した。必要なデータはすでに記憶済みのようだ。
「良い結果をお持ちしますわ」
「期待している」
瑞科はそう言い残して部屋を後にした。
悪を許さず正しい道を貫く戦うシスターは、今日もその艶やかな唇に笑みを湛えて戦闘準備を開始した。
クローゼットから取り出したものは、丈夫に作られた彼女専用の皮のコルセットだ。
同じ素材のグローブの下には二の腕まで伸びる白の手袋を先に装着する。指無しのそれがするりと瑞科の細い指を通りぬけ、ピッタリと張り付く。
その後にコルセットを装着すれば、形の美しい豊かな胸が強調されて悩ましげに揺れる。シスター服のままなのでケープがラインを隠してはいるが、布切れごときでは最早彼女の色っぽさを秘する事など出来なかった。
腰掛けたベッドの端からすらりと伸びる足。
特別な素材で作られたオーバーニーソックスを履くと、瑞科の太ももにそれが食い込んで境目には新たな艶が浮かぶ。人差し指をその食い込みにゆっくりと差し込みラインを整え、傍に添えてある編み上げのロングブーツを履くために、言葉なく立ち上がる。彼女の愛用品の一つでもあった。
ジー、と音を立てるのはブーツの内側のファスナーの音。
美しいラインの脚を飲み込む、という言い方がしっくり来るような形で瑞科はブーツを履き終え、部屋を後にする。
「さぁ、参りますわよ」
その言葉の後にばさりと空気を横切ったのは、瑞科の長く美しい髪の毛であった。
郊外に位置する高層ビル。
シスター服を身にまとう瑞科には不釣り合いとも言える場所だ。
時刻は二十二時を過ぎた頃。周囲に人気は殆ど無い。
腰ベルトの後ろに装着している懐中時計を手にした瑞科は時刻を確認した後、言葉なく顔を上げて歩みを始める。
ブーツのヒールが地面を叩く音が、やけに大きく響いていた。
彼女は何の躊躇いも見せずに、そのビルの入り口を真正面から潜り抜けた。
瑞科を通した自動ドアはゆっくりと閉まった後、カチリと音を立てて動力の気配を消す。
「我が社へようこそ、シスター様」
そんな声が響いてきた。
エントランスホールの奥に位置するインフォメーション。半円状のカウンターの向こうに立つ女性がにこりと微笑みながら瑞科に声をかけてきたのだ。
資料で目を通した人物とは別の顔であった。
「わたくしが訪れることは、すでにご承知のことですのね」
「ええ、もちろん。最上階では会長がお待ちです。――その前に、貴女の力を試させて頂きます」
「……あら、準備運動の時間を設けてくださるのね。いいでしょう、お受けいたしますわ」
にこにこと微笑み続ける受付の女性は、その笑みを湛えたままで足元を蹴った。
そしてひらりと身軽に己の身体を翻し、カウンターの上へと立つ。
「――恐れよ」
瑞科に向かってそう言った。
数ヶ月にも同じ響きを耳にした、と瑞科は顔色一つ変えずに心でそう思う。
目の前の彼女を含むこのビル内にいるであろう存在すべてが、悪魔の囁きを聞いてしまったのかと考えが至り、彼女の眉根が僅かに歪んだ。
そして、艶を含んだ唇から零れ落ちる言葉に、悲しみを含ませた。
「哀れですわね」
「私達を悲観する必要はない。欲しているものは恐れのみ……!」
受付の女性がそこでようやく、笑みを崩して叫びに近い言葉を放った。
それと同時に右腕を横に払う仕草を見せ、直後に瑞科の周囲を囲む何かが空気を張り詰めた。
「……糸」
瑞科は視線のみでそれを確認して、ぽつりと呟く。
鋼の糸が彼女の周囲を幾つもの線で囲み、身動きが取れない状態になっている。
それでも瑞科は、少しの焦りすら見せなかった。
「動けば身体が裂かれる。いきなり万事休すですね、シスター様」
「そうでもありませんのよ」
「な、何――」
瑞科の返事を耳にして、受付嬢は余裕の笑みから表情をひきつらせた。
己の勝利を確信していたのだろう。
「……精巧な作りですこと。確かに少しでも動けば一瞬で肢体が引き裂かれてしまいますわね。ただ、残念ですけれど、わたくしには通用しませんのよ」
「う、動けぬままで何が出来ると……?」
瑞科は人差し指を手元にある鋼糸の一本に伸ばしつつそう言った。
指の腹で触れるか触れないか。
そんな一瞬の後に、強い光が生まれる。
「!?」
何が起こったのか、女には理解できなかった。
最初に痛みを感じたのは目の奥だった。光をまともに見てしまい、その強さに瞳が耐えられなかったのだ。
次に訪れたものは、手のひらが焼けるような感覚。
「……ッ!?」
ビリ、と痺れがあったかと思えばそれは一瞬にして全身に行き渡り、女はその場でよろめいた。
「ギャアア……!!」
悲痛な声が響き渡る。
それが数秒続いた後、ドサリという音がいくつかに別れて瑞科の耳に届き、彼女は静かに瞳を閉じる。
「少しでも動けば……そう申しましたでしょう?」
そう言う彼女の右手からは、バチッと何かが弾ける音がした。
電流であった。
女が放った鋼の糸を通して、強い電撃を伝わせたのだ。
その電撃が流れとなり、女の目を潰し、手のひらを焼く。
そしてバランスを失った女はカウンターの上から落ちて、自らの糸により肢体を裂かれて事切れた。
「……準備運動にすらなりませんでしたわね」
糸の力がなくなり、パラパラと落ち始めたのを横目に、瑞科はその場から先を進んだ。
カウンターの横手にあるエレベーターの前に立ち、昇降ボタンを押す。
扉の向こうで機会が動く音を静かに聞きながら、瑞科は僅かに唇を開き、こう言った。
「安らかなる眠りを」
ポーン、とエレベーターから音がした。
次の瞬間に開いた扉に瑞科は躊躇いもなく進み、踵を返して上の階へ行くボタンを押し、そっと扉が閉じていくのを見つめていた。
|
|
|