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<東京怪談ノベル(シングル)>


絡繰り歯車

 何故このような事態に陥っているのか、みなもにはとんと思い出せなかった。
 物思いに耽りながら帰り道を歩いていたはずである。いつもの道から逸れたような記憶がなければ、まして知らぬ家の扉を開けた覚えもない。
 それに――。
 余り趣味の良いとはいえない内部をした館だ。外見が無意識のみなもをそうまで惹きつけたとは思えなかった。
 何しろ、壁という壁に、床という床に貼り付いた無数の時計が、今も規則正しい針の音を刻んでいる。
 シャンデリアのように室内を照らすものが小さな時計の塊であることは序の口で、書棚と思しき棚すら時計で構成され、中にも時を告げる静物が詰まっている。この館に住んでいる者があるなら相当な狂人だろう。
 そこまで考えて、彼女は青い瞳を瞼に隠した。ここから出ぬことには話は始まるまい。
 どういう仕組みになっているのか、亀裂の入った時計を見回す。出入り口が既に埋もれてしまった以上、この幾多の窓と思しきものから正解を引き当てるまでは、彼女は外に出られなかった。
「ごめんなさい、失礼します」
 誰に言うでもなく謝って、少々躊躇しながら床に埋まった時計を踏みつける。びくともしない硝子に安堵の息を吐いた。
 恐る恐る手を掛けた窓から歯車のかすかな振動が伝わってきた。唾を呑み込んで、みなもは息を止めて掌に力を込める。
「きゃ」
 かしゃん――と軽い音がして、開いた時計から歯車が飛び出した。
 その名にふさわしく、まさしく水面を思わせる青い髪にうずもれたそれが、規則正しくきりきりと音を立てている。どうやら噛んでしまったようで、慌てたみなもが幾ら取り出そうとしても、髪の中の静物が床に落ちる気配はなかった。
 致し方がない、後で取ればいいだろう――。溜息を吐いて、彼女は隣の窓に手を掛ける。
 今度こそ勢いづいて押し開けた時計から再び歯車が飛び出してくる。ごく自然に、緩やかな速度で閉じた窓の外を見るより先に、己の目を疑った。
 右腕に食い込んだ歯車が、痛みを発するでもなく回っている。
 白く滲むような眩暈がする。頭を抑えると、白い腕の亀裂が嫌でも目に入った。
 よもや夢でも見ているのではあるまいか――。
 正気を疑えど、触ることすら出来ないまま、再び膨れ上がってきた恐怖を紛らすように片っ端から窓を開ける。その度に、黒く塗りつぶされた空間から乱雑に飛び出す歯車が、みなもの体に突き刺さった。
 制服を裂き、皮膚を割って、冷えた無機物が自身の体の一部になっていく。痛みの代わりに静寂と空虚な感覚が開いた穴を満たして、規則正しく時を刻む音だけが体の中に反響する。
 脳髄を直接掻き回されるような心地に朦朧とした頭で、ゆるゆると閉じた時計を押し開ける。飛び出した歯車は、既に白い肌には居場所を見つけられなかったようで、右目へ淀みなく飛び込んできた。
 嫌な音は――。
 体中で連結した歯車の音の乱反射に掻き消された。
 刹那、柔らかな紅い唇から、罅割れた悲鳴が轟いた。
 自分の中に入り込む無機物を――己が無機物の一部と化すことを恐れるように、その証たる時計の音を覆い隠すように、長く強い響きが館中を揺るがす。
 絶叫は女の息が切れるまで続いた。
 掠れていく声をそれでも絞り出すように、肺に残った空気の一掬いまで吐き出しきって、彼女は力なくくずおれる。
 青い髪はもう見えない。白磁の肌も、青い右目も、無機質な灰色に変わってしまった。残るのは鮮やかな赤を孕む唇と左目、そしてまだ人間を保つ心だけだ。
 次に扉を開けば、また何かが奪われる。それでも開けぬわけにはいかないのだ。最早それは、帰途につきたいという思い以上の衝動だった。
 最後の抵抗とばかりに、時計の針と化した指先で時計の亀裂をなぞる。
 残った左目から一つ、歯車が零れ落ちた。