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奮闘編.29 ■ Butterfly―A
レトロミュージックをBGMに、優奈はゆったりとした動作で美香に渡されたミルクティーを啜る。
細く白い指はネイルを嫌う優奈らしくシンプルに塗られただけの、薄い桃色を映えさせる。
いっそ彼女が持つカップさえ無骨ではなければ、この一瞬はかなり優雅な一時に見えるだろう。
思わず美香が息をついてしまいそうな程の光景だが、いかんせん草間興信所にそこまでの風情がない。
甘ったるいシャンソンは雰囲気をぶち壊すだけの破壊力があった。
やがてようやく、優奈はゆっくりとカップから口を外して机に置くと、すっと美香の顔を見つめた。
「それで、引き受けてくれるのかな〜?」
やんわりとした口調ではあるものの、その目には僅かばかりに剣呑な光が宿る。
相変わらず醸しだされる、優奈特有の独特な雰囲気を前に、僅かばかりに気圧される形で美香は身体をぴくりと震わせ、一つ咳払いした。
風俗嬢の美紀ではなく、あくまでも草間興信所の助手――美香として、優奈と向き合う方向に頭の中を切り替えたのだ。
「一応草間さん――ここの所長に確認してみるつもりですけど、受けます」
「あはっ、強気だね〜。大丈夫?」
「だ、大丈夫です……、多分……」
しかしどうやら優奈を前に美香の虚勢はあっという間に瓦解したようである。
弱気な美香の言葉にころころと笑った優奈が楽しげに目を細めてみせると、美香は慌てて詳細を詰めようと、口を開いた。
「あの、優奈さん。それで調査対象の会社なんですが……」
「――ベリアスコーポレーション。知ってる?」
「……え?」
美香にとっては予想だにしていなかった会社の名前であった。
かつて美香が背負った借金。その貸出人こそがこの会社だ。
法外な利息を課せられて以来、この数日ばかりは自分がどうするべきかと考えさせられていた会社である。
どうして優奈が?
飛鳥が関与しているのだろうか?
思わず脳裏を過ぎる数々の疑問に目を白黒させながら、美香は唖然とした表情で優奈を見つめていた。
対する優奈はと言えば、そんな美香の視線を受けてもニコニコと笑ったまま表情を崩そうとはせず、その真意が見えるはずもなかった。
沈黙が場を支配する中、ようやっと美香はゆっくりと呼吸をして気持ちを落ち着かせ、口を開いた。
「どうして……?」
「ちょっとお客さんの絡みで関係しちゃってるんだぁ。それでね、飛鳥っちから美香ちゃんがここで働いてるって小耳に挟んだものだから、お願い出来ないかな〜って」
「……そう、なんですか?」
「あはっ、変な美香ちゃん。それ以外に何があるのかな〜?」
「い、いえ! そういう訳じゃないんですけど……!」
美香の意図した質問に対し、優奈はすっとぼける様子で答えを返し、美香は思わず安堵した。
――飛鳥さんには内緒だって言ってたもんね。なら私のことは関係ない。
そう自分に言い聞かせる美香であったが、それはかえって間違った判断であるとも言えた。
やはり一枚どころか二枚も三枚も上手である優奈のガードを前に、美香が何かを返すというのは難しかったようである。
優奈はもともと、美香がこうした反応を見せるだろうと踏んでいたのだ。
この名前を聞いて、間違いなく美香は飛鳥から情報が漏れたかもしれないと踏むだろうと推測するのは容易かった。
だからこそ、あらかじめ飛鳥は関係ないと布石を打ち、こうして美香の質問を他の方向にはぐらかせながら答えたのである。
術中にはまっている美香を見て、くすくすと優奈は笑う。
――まだまだ甘いよ、美香ちゃん。
探り合いと心の駆け引きにおいて、優奈は笑顔を絶やさぬままに美香の動きをそう評した。
もっとも、純然たる探り合いではなく優奈を味方であると思い込んでいる美香だからこそ、こうしてあっさりと信じたのだろうとは優奈も理解している。
だが、時としてその淡い関係に対する無条件の信頼は、自分のツケになって帰ってくる可能性がある。
その現実を、いずれ美香も理解せざるを得ない日が来るだろう。
「んー、それとね、美香ちゃん。時間はたっぷりあるから、出来たら美香ちゃんがやってくれると助かるなぁ」
「え、私が、ですか? でも私、まだ駆け出しの助手候補みたいなものですし……」
「だけど、やっぱり美香ちゃんにやって欲しいなぁって。
出来る範囲でやって、あとは所長さんに手伝ってもらえば良いと思うんだけど、どうかなぁ?
依頼人なりの希望って感じで」
「い、依頼人の希望ですか……」
「そうだよー。せっかくなら美香ちゃんの探偵の腕に期待しておこうかなーってねー」
探偵も何もない自分の立場についてもう一度言ってみたところで、恐らく自分の意見は通らないだろうと美香が諦めるように嘆息する姿に、優奈は満足気に頷いた後で一枚の名刺を机の上に置いた。
「それは?」
「ベリアスコーポレーションの社員名刺。女性社員なんだけど、一度話を聞いてみたらどう?」
「えっ、優奈さんのお客さんって女性なんですか!?」
「あはっ、そんな訳ないじゃない〜。お客さんが頼まれて、私にお鉢が回ってきただけよ?」
「す、すみませんっ!」
当たり前な答えに度肝を抜かれた、という点では美香にとっての本日唯一の優奈へのサプライズであろう。その答えにクスクスと笑う優奈のせいで、美香の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
そんな自分を誤魔化して、美香は差し出された名刺を手に取った。
「……じゃあ、優奈さん。もしかして今回の事件って……」
「そう。内部告発、インサイダーって言うヤツかしら?」
いつも通りの間延びした口調からはおよそ出てきそうにもない言葉に、美香は思わず目を丸くした。
例えば、ドラマやマンガの探偵ならともかく、本来は外堀を埋めるような仕事こそが探偵の仕事である。
当然そこに変装して潜入するようなツテなどあるはずもなく、外堀が埋められなければ内部の協力者を得る必要があるのだと武彦は美香に教えていた。
しかしインサイダーとなれば、この手順とはまた違った方向で手を打つ必要もあるだろう。
今回の場合、告発者が内部の人間という事態だ。
当然それは、探偵にとっても取っ掛かりとしては十分過ぎる情報であると言える。
驚きに目を丸くしたまま呆けていた美香へ、優奈が説明を続けた。
「彼女は経理担当らしいんだけど〜、そのおかげでかえって不正を目の当たりにしていたみたいね〜。だから、彼女なら物的証拠も手に入ると思うのよねぇ」
「でも、それだったらわざわざ探偵を介さなくても十分なんじゃ……? 証拠はあるんですし、出すところに出してしまえば……」
「それは難しいわねぇ……」
「え?」
「だって〜、たった一人の手に入った情報だけで全部の決め手になるような管理をする程、ベリアスコーポレーションだって馬鹿じゃないと思うよ〜?
それに、彼女が矢面に立つような事態になったら復讐される可能性だってあるでしょ〜?」
「い、言われてみれば……」
「あはっ、私ってば探偵さんになれちゃうかな〜? まぁ冗談はこれぐらいにして、そういう事情もあって美香ちゃんの助力は必須なのよねぇ」
優奈が探偵になれば、自分よりよっぽど活躍するのではないだろうか。
そんな想像があっさりと脳裏に思い浮かんだ美香は、引き攣った顔で乾いた笑いを貼り付けた。
「……わ、分かりました。じゃあ草間さんと相談しておきます」
「うん、お願い〜。報酬については、その所長さんと決めて教えてくれればいいからね〜」
「そ、それでいいんですか?」
「もちろん。それじゃあ、美香ちゃん。よろしくね〜。ばいばーい」
「えっ、あ、あの……って、行っちゃった……」
用件だけ告げてさっさと去ってしまう辺り、優奈の腰に刻まれたタトゥーらしく彼女はやはり蝶のようであると感じる美香は、ため息を吐いて椅子に腰深く座り込んだ。
「……ベリアスコーポレーション」
まさか自分がこういう形で改めて対峙することになるなど、露とも思っていなかった美香である。
予想外の事態、優奈から振り回されるようなこの状況は何とも言い難いものはあるが、美香は一つ改めてため息を吐いた。
美香にとってみれば、仕方なく泣き寝入りする状況を甘んじて受け入れ、それで自分を納得させたつもりであった。
だが、今回の優奈の依頼によって美香は大義名分を得たのだ。
あくまでもこの戦いは、依頼者である優奈とその相談者のために行われるものなのだ、と。
ならば、今更引き下がる道理はない。
覚悟を決めるだけであった。
遅れてやって来る形となった零から早速調査依頼票を受け取り、必要な事項を書き込んでいき、書き終えた調査依頼票を手に美香が立ち上がる。
「零ちゃん」
「はい」
「私、頑張って草間さんを説得してこの仕事引き受けようと思う」
武彦が秘密裏にベリアスコーポレーションの情報をすでに精査し終えていることも露知らず。
それでも美香はどうにか武彦を説得して、今回の仕事を引き受けると覚悟を決めるのであった。
to be continued,,,
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いつもご依頼有難うございます、白神です。
新年明けましておめでとうございます。
2014年も終わり、ついに2015年。
21世紀になったばかりだとか思っていたら、もう15年目ですねぇ。
ともあれ、今回は繋ぎの要素が色濃く出た回となりました。
ちなみに、「蝶」の字です。
誤字部分はいつでもリテイクくださいませ。
借金についてですが、
「元々父親を強請る算段が、美香が勘当されて失敗。その当てつけもあって、法外な利息を課せられたという流れで大丈夫ですか?」
という背景については、全然問題ありません!
それでは、本年も宜しくお願い申し上げます。
白神 怜司
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