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迷子の暗殺者
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。フランツ・ペーター・シューベルト。ヨハネス・ブラームス。
名だたる楽聖たちの墓が、観光資源として晒しものになっている。
ウィーン中央墓地。恐らく、世界で最も観光客の出入りが激しい墓地であろう。
ここで今日、また1人の楽聖が、永遠の眠りに就く事になる。
その名は、ニコラウス・ロートシルト。
さらりとした銀色の髪は、光の当たり方によっては白髪のようでもある。
瑞々しい丸みを帯びた顔は、しかし老人のそれではない。
優しい輝きを湛えた、茶色の瞳。少年にも少女にも見えてしまう美貌。
身なりの整った身体は細く、起伏に乏しく、辛うじて少年であると判断出来る。
13、4歳、であろうか。
神童と呼ばれている天才ボーイソプラノ、であるらしいが龍臣は知らない。
音楽の都ウィーンに住んでいながら、音楽とは全く縁のない生き方をしてきたのだ。
自分が何歳であるのか、龍臣は知らない。誰も教えてはくれなかった。
小さな子供だから相手が油断をしてくれる、という年齢ではあるらしい。
それだけで簡単にこなしてゆけるほど、暗殺というものはしかし楽な仕事ではない。
物心ついた頃には、すでに拳銃を手にしていた。
まだ撃てなくてもいい。常に、拳銃に触れているようにしろ。
組織で、龍臣の教育係のような事をしていた男は、そう教えてくれた。
拳銃がどういうものであるのか、触って覚えろ。頭では覚えなくていい、まず手で覚えろ。うっかり弾が出て死んじまう奴がいても構わん、そいつはそこまでの運命だったって事だ。お前が死んでも、そういう事だぜ。
そう言っていた男が、死んだ。龍臣の、最初の標的だった。
詳しい事を無論、龍臣は知らない。とにかく、その男は何かしら組織の不利益に繋がるような事をしたようだ。
だから、龍臣が始末する事になった。組織から、そういう命令が下ったのだ。
躊躇う事なく、龍臣は男に銃口を向け、引き金を引いた。
組織の命令には、絶対に従う事。内心で疑問を抱く事すら、許されない。
そう教えてくれたのも、その男自身だったからだ。
初めての引き金は、子供の小さな指には、とてつもなく重かった。
2回目以降は、そうでもなくなった。
今では、とても軽い。缶ジュースを開けるように、引き金を引く事が出来る。
ただ人を撃ち殺すだけなら、ジュースを飲みながらでも出来る。
だが、龍臣の仕事は暗殺である。
標的を始末した後、自分は無事に逃げ延びなければならないのだ。警察に捕まり、組織の情報を取られるような事があってはならない。
周囲の者に気付かれぬよう標的に接近し、事が済んだらその場を無事に離脱する。
暗殺者としての技量が最も問われるのは、そこだ。射殺そのものは大して難しい事ではない。
機会が巡ってきたのは、命令を受けた2日後、つまり今日である。
標的ニコラウス・ロートシルトが、警戒厳重なロートシルト邸から外出したのだ。
そして今、ウィーン中央霊園32A区に1人で佇んでいる。
もちろん本当に1人きりでいるわけではない。行き交う観光客たちの中に、護衛が紛れ込んでいる。
注意深く、龍臣は彼らの気配をかわし、標的に近付いた。泣きそうな顔で、きょろきょろと周囲を見回しながらだ。
親とはぐれてしまった子供を演じながら、龍臣は今、服の下に拳銃を隠し持っている。
子供の手に適した、22口径の小型拳銃である。近距離でなければ致命傷を与えられない。
龍臣は、涙を拭うふりをした。
銃というものは、世間で思われているほど万能な武器ではない。特に22口径である。確実に仕留めるためには、刃物で反撃されそうな距離まで近付く必要がある。あと3歩、いや2歩……
「迷子のようだが……誰を捜しているのかな?」
声をかけられた。
ニコラウス・ロートシルトが、いつのまにか、すぐ近くに立っていた。
こうして迷子の子供に化けていれば、標的の方から近付いて来てくれる場合というものが、ない事もない。
そこを、仕留める。実際それで成功した事は、何度もある。
だが龍臣は今、そうする事が出来なかった。息を呑み、立ちすくんでしまう。
優しい輝きを湛えた茶色の瞳が、じっと自分を見つめてくる。
「お父さんとお母さんを捜している、わけではないだろう? それは、とうの昔に諦めている。自分はそんなものを必要とはしていない……君は、そんな音色を奏でている」
「何……言ってるんだ、お前……!」
龍臣は思わず、そんな声を発していた。
殺す標的と、会話を交わす。暗殺者としては、これ以上なく無駄な行為である。
わかっていながら、龍臣は叫んでいた。
「俺が探してたのは、お前だよ! 何の用かって? こういう用事さ!」
22口径の拳銃を懐から抜き出しながら、龍臣は思った。
違う、と。
このニコラウスという少年は、これまでの標的のように、迷子の子供を哀れんで近付いて来たわけではない。
見抜いている。
なのに近付いて来た。何故か。自分の命を狙う相手に、何を思って近付いて来たのか。
龍臣には、わからない。わかるのは1つだけ。
自分は死ぬ、という事だ。
このままニコラウスを撃ち殺す。直後、ロートシルト家の護衛によって自分は射殺される。
標的を仕留めた後、無事に逃げ延びなければならないのが暗殺者である。自分は失格だ。
だが少なくとも、組織からの命令は遂行しなければならない。
ニコラウス・ロートシルトを、この世から消す。
その任務は、完了させなければならない。
「そんな事をして、誰か君を褒めてくれるのか?」
ニコラウスが何を言っているのか、龍臣は一瞬、わからなくなった。謎めいた事を言って、こちらを混乱させようという魂胆なのか。
「褒められたくて、やってるわけじゃあない……」
拳銃を構えたまま、龍臣は会話に応じてしまっていた。引き金を引く事も出来ない。
「これは仕事なんだよ! 仕事はやんなきゃいけないもんだろ、生きてくために!」
「仕事、か……私はね、音楽を仕事にしているよ」
至近距離の拳銃を恐れた様子もなく、ニコラウスは語る。
「生きてゆくために、と言ったね。人が生きてゆくのに必要ないものを、いくつか挙げてゆけば、音楽なんて筆頭に近いところに来るだろうね。音楽を聴いたって、お腹はいっぱいにならないし、暖かくも涼しくもならないし」
語りつつニコラウスが、墓の1つを見上げる。美しい女人像を戴く、壮麗なる墓碑。
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト……音楽という腹の足しにもならないものに、35年の短い人生を捧げてしまった、まあ楽聖と言っていいだろう。人間的には、いささか問題があったらしいけれど」
わけのわからぬ話に、龍臣は聞き入ってしまう。
「知っているかな? このお墓はね、実は空っぽなんだ。モーツァルトという人は、骨のひとかけらも、この世には残っていない……だけど、その名前は世界じゅう大勢の人が知っている。大勢の人が彼の音楽を、死後200年以上を経た今も褒め続けているんだ。褒められるって、凄い事だと思わないか?」
「思わないね……お前、命乞いしたいんなら、はっきりそう言えよ。もちろん聞いてやらないけど」
「私の所へおいで。そうすれば、私が君を褒めてあげる」
いよいよ意味不明な事を、ニコラウスは言った。
「そちらは、寂しいだろう? ……そう、寂しい。君の奏でる音色を一言で言い表せば、それしかなくなってしまう」
「何を……」
龍臣の手から、拳銃が落ちた。
膝が、がくりと折れ曲がってしまう。
気が付いたのは今だが、先程からずっと聞こえてはいたのだ。龍臣の、耳から頭へ、全身へと流れ込んで来る。
それは、歌であった。
眼前の龍臣にだけ届く、微かな歌声。ニコラウスの可憐な唇から、紡ぎ出されている。
龍臣は石畳に座り込み、動けなくなっていた。
「お前……何を、した……?」
「歌っただけさ。もっとも私は、こんなものを歌とは呼べないと思っているのだけど」
ニコラウスが言った。歌が、止まってしまった。
もっと聴いていたい。
龍臣は、そんな事を思ってしまった。
目の前に、何か光るものが浮かんでいる。飴玉ほどの大きさに固まった、淡い光。
「君の身体から、出て来たものさ。命の光……私が歌うと、こんな現象が起こってしまう。ああ大丈夫。このくらいの大きさでは、死にはしないよ」
ニコラウスは細身を屈め、龍臣と目の高さを合わせた。
わけのわからぬ事を語る唇に、浮遊する光の飴玉が、吸い込まれて消えた。
「思っていたより、ずっと寂しい味がする……迷子の、小さな暗殺者。君は、お父さんでもお母さんでもない何かを、ずっと探している。それが何なのか、君自身にもわかってはいない……そんな味がする。そんな音色を、君はずっと奏で続けている」
「うた……」
龍臣は、座ってもいられず倒れ込み、ニコラウスの細い両腕に抱き止められていた。
温もりは、感じられる。だが何も見えない。
涙だった。
「お前の……うた……」
心が溶けて両眼から溢れ出している、かのようである。
あの男を撃ち殺してしまった時も、こんなふうにはならなかった。
「もっと、きかせろよ……ききたいよう……」
「嬉しいなあ。これを君は、歌だと思ってくれるんだね」
囁きを聞きながら龍臣は、ゆっくりと意識を失っていった。
護衛の男たちが、駆け寄って来た。
「ニコラウス様、御無事で!」
「ああ、心配をかけたね」
意識のない小さな少年を抱き止めたまま、ニコラウスは彼らに微笑みかけた。
何があっても、手を出さないように。そう命令しておいたのだ。
「こいつ子供のくせに、殺し屋として充分過ぎる訓練を受けています……危ないところでした。このような事、もうおやめ下さい」
「そうだね。こんなに小さいのに……まさしく、殺しの本職だ。本当に、危なかったよ」
ニコラウスは溜め息をつき、苦笑した。
「こんな子を使ってまで、私の命を狙うとはね……私のどこに、そんな価値があるのか」
欧州経済界の重鎮の1つ、ロートシルト家の当主である。命を狙われるのは、むしろ当然と言えた。
「その子供……どうなさる、おつもりですか」
護衛の1人が訊いてくる。始末してしまえ、と言いたげな口ぶりだ。
こちらの手で始末する必要もなく、この少年はもう生きてはいられないだろう。暗殺の任務に失敗してしまったのだ。あの組織が、生かしてはおかない。
そうさせないための手段は、1つだけだ。
「ロートシルト家で雇う……私の護衛として、君たちが教育をして欲しい」
あの組織との、戦いになるかも知れない。
ならば、この忌まわしい力を、戦うために使うだけだ。
「我ながら愚かな事をしている、とは思うよ。こんな事をしても……償いの真似事にすら、ならないと言うのに」
父親になれなかった自分が、こんな子供を拾って、父親の真似事をしようとしている。
もはや滑稽過ぎて、笑う事も出来ない話であった。
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