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<東京怪談ノベル(シングル)>


御佩刀の剣舞

 正直な話をするならば、琴美は乗り気ではなかった。
 何しろ移動中に賜った緊急の指令である。命令を下す側はそれでも構わぬのだろうが、戦闘服に着替える時間すらなく、動きにくいスーツでの戦闘を強いられる方はたまった物ではない。
 勿論――。
 負ける心づもりなど毛頭ない。眼前の廃ビルを睨み、形の良い唇に自信に満ちた笑みを刻みこんで、琴美は長く伸ばした黒髪を一つに縛り上げた。
 丁度降り出した雨はスーツを濡らして彼女の体を流れていく。長く上向いた睫毛に弾かれた水滴が、薄く桃に色づいた見目にも柔らかそうな頬を伝って、ブラウスのボタンの中で窮屈そうに存在を主張する胸元で跳ねた。いっそ芸術的とすら思える二つの丘陵を引き締まったくびれが引き立てる。形のいい臀部に張り付く短いタイトスカートから伸びた、黒のストッキングに包まれた長く細い足が地面を叩いた。ヒールの甲高い足音を廃ビルの内側へ滑り込ませながら、彼女は懐からナイフを取り出す。
 崩落しかけた古い廃ビルには、通常の人間では気付かぬほどの、頑なに隠された微かな痕跡がある。何か後ろめたい企みが行われていることは明白だった。
 彼女がここに来た理由――テロ組織の殲滅は滞りなく遂行できそうだ。
 加えて他に人間の気配はしない。自衛隊員として一般人を巻き込むような戦闘は出来ないが、ここならば思う存分暴れられそうだった。
 周囲に多大な犠牲を強いようとする連中には相応の仕置きが必要だ。奴らの自業自得なのだから手加減する必要はない――と笑う上司の声を思い出し、白く大人びた顔立ちに年相応の拗ねたような表情を浮かべた琴美だったが、その考えにはおおむね賛同している。
「天誅、ですわ」
 小さく笑んだ艶やかな少女の表情は、天使的とすらいえる無垢さを孕む。誰もが見惚れるであろう表情を虚空に向けて、彼女は鉄筋の間へ身を隠して息を殺した。
 品のない大男たちの下卑た笑声は、視界の先の一室から響いてくる。元は会議室か何かだったのだろう。広いスペースと埃を被った備え付けの丸机が、外れたドアの中から見え隠れする。
 幸いにして、曇天の中に佇む証明のない室内では、濡れ羽色の髪とスーツは目立たない。普段ならば警戒すべきハイヒールの足音もますます強まる雨音の中ではさしたる懸念材料にはなるまい。研ぎ澄ませた神経がそのまま黒く大きな瞳に集まって、壁の向こうを見透かすがごとく気配を伝えてくる。
 十五人といったところだろうか。よもや気付かれてはいまいとでも思っているのか、或いは気取られる可能性など端から考えていないのか、彼らの憚ることない大笑が耳を劈く。
 ――全く大した自信ですこと。
 いっそ憐憫めいた感情さえ込み上げてくる。自衛隊がなめられているというよりは、彼らが自信過剰なだけだ。
 自衛隊を――水嶋・琴美を敵に回すことの意味を理解していない。
 声との距離を詰める。ナイフを握り直して、スーツの前ボタンを外す。
 いつでもこの瞬間は心臓が高鳴った。その理由が何なのか、琴美にはよく分からなかったが、訓練とは全く違う緊張感と高揚感が一様に悪いものであるとは思えなかった。
 危険分子の排除というのは決していい仕事ではない。非情になるというのは重要な場面でこそ難しいものだ。故に、必要なのは非情さではなく、むしろ己の感情を塗り変えることなのではないかと彼女は思っている。
 だから――。
 自然と持ち上がる張りのある口角には逆らわない。
 息を整えてから地を蹴る。
 豹のような身のこなしで部屋に入り込むと、まず近くにいた一人の首に手刀を見舞う。ようやく侵入者に気付いたらしい周囲が、声も上げずに倒れ込む屈強な男とその後方に立つ少女の姿にたじろいでいる間に、逆巻く風が不可視の斬撃を叩きこんだ。
「敵は女一人だ!」
 主導者と思しき筋骨隆々の男が一喝する。その間にも琴美の動きは止まらない。銃弾の軌道から巧みに外れ、拳銃を所持する男と距離を詰めるやしなやかな足による回し蹴りを脇腹へ入れる。
 即座にその場から駆け出して、もう一人の拳銃所持者たる女の鳩尾へ掌底を食らわすと、鉄パイプを振りかざした男へナイフを思い切り振り抜いた。
 巻き起こった風圧が男のバランスを奪った。即座にその手から鉄パイプを蹴り上げると、あっさりと中空に舞ったそれが暫しの間をおいて彼の頭上へ落下する。
 我武者羅にナイフを振り回す青年の顎へ拳を叩き込み、気を失う彼の隣で錯乱状態に陥っていた少女は鳩尾への一撃で容易く目を閉じた。不意の銃弾をナイフで弾き飛ばし、風の刃を飛ばして残る数人から意識を奪うと、主導者へと近寄っていく。
 彼は存外にも穏やかだった。
「どうなさいますか。降伏なさって今回の件についての聴取を受けて頂けるなら――」
「冗談じゃねえや。俺からは何も言えやしねえよ」
 黒髪を逆立てた屈強な男は、見目に違わぬざらついた声で笑った。
 それからふと目を細める。
「水も滴るいい女――ってのァ、よく言ったもんだな」
 近づいてくる琴美を眺めて低く呟くと、彼は豪快に笑声を立てて、冷えた瞳をした眼前の仇を見下ろした。
「テロリストの組織に単身乗り込んでくるたァどんな女かと思って見りゃ、とんだ別嬪だ。俺の嫁にしたいくらいな」
 余りにも場違いな言葉は、彼が既に諦めた故だろうか。凪いだ黒い瞳の先には目的も理由も話さないという強い意志がある。
 方法さえ間違えねばいい指導者になったろうに――琴美の脳裏にふと悔やむような思いがよぎった。
 それでも――。
 彼女の役目はそうではないのだ。
「お断りいたします」
 笑顔で言い放たれたその言葉を聞くや、彼は観念したように両手を上げた。
 無言のうちに全てが終わる。
 全員から武器を回収し終えて硝子の外れた窓へ目を遣ると、いつの間にか雨は止んでいた。