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とろけるような甘い罠
「うふふ。面白い物を手に入れちゃった」
ご機嫌にニコニコと笑みを浮かべているティレイラは、胸に抱いた一冊の本を大切にぎゅっと抱きしめる。
自宅に帰ったティレイラは扉を閉めると、自室で抱きしめていた本を開いてみた。
「あ……れ……?」
中に描かれていた絵を覗き込むと、突然目の前がかすみ眩暈を覚える。そして自分の意思に反して意識は遠のいて体は傾ぎ、本の上にドサリと倒れこんだ。
「……う〜ん」
ほどなくして、ティレイラは短い呻きと共にゆっくりと瞼を開いて体を起こした。
幾度となく目を擦りながら、まだぼんやりとする頭で周りを何気なく見渡してみる。
見覚えのある部屋ではなく、まわりにはまるで見たことの無い風景が広がっていた。同時に、辺りにはこれ以上ないほど甘い香りが漂っている事にも気が付く。
「……ん?」
ティレイラは怪訝そうに眉根を寄せ、ハッキリし出した頭で何度も目を瞬いた。
目の前にあるのは、よく見れば見知った動植物達が仰ぐほどに巨大化しており、しかもそれらは全てお菓子で出来ているのだ。
緩慢な動きで立ち上がったティレイラは周りの状況を確認するべく、背中の翼を広げ空へ舞い上がった。
「美味しい匂い……。全部食べたくなっちゃう」
翼をはためかせて飛んでいると、ふいにチョコレートの香りが鼻先を掠めた。
眼下にお菓子の動植物たちを見ながらチョコレートの香りに誘われて飛んでいると、目の前に巨大な巣が現れる。その巣の周りを巨大なチョコレートの蜂が飛び回っていた。
彼らはどこから取ってきたのか、もしくは自己生産なのか、口から吐き出しながら巣を固める硬質な特殊チョコでせっせと巣作りに精を出している。
「あそこから匂ってくるんだわ」
危ないと分かっていても、ティレイラはつい甘い香りに誘われてフラフラと蜂の巣へと飛んでいく。そして彼らの目を盗み、ひょいと迷宮の中へと飛び込んだ。
どこをどうしてこんな造りにしようと思ったのか、中は迷路のように細い通り道がいくつもあり、簡単に迷ってしまえそうだった。
ティレイラはそんな道を匂いだけを頼りに飛んでいると、ふいに視界が開けた。
真っ暗いホール。ただ、先ほどまでの道の狭さはなく、開けた空間だった。
何気なく下を見下ろすと、そこには多くの蜂たちが集めたのであろう。液体のチョコレートがたっぷりと池のように溜まっているのが見えた。
「わぁ。凄い! チョコレートの池ね!」
ティレイラは歓喜の声を上げて貯蔵庫であるチョコの泉へと舞い降りた。
体が汚れる事を気にもせず、ティレイラは指先にたっぷりとチョコを掬い上げひょいと口に含んだ。
「美味しい! こんな美味しいチョコレート初めて!」
甘いのにしつこくなく、どこかさっぱりしたような爽やかなチョコレートを、ティレイラは心行くまで堪能した。
顔も体もチョコレートまみれになり、お腹もふくれたところでようやく腰を上げる。
「そろそろ戻ろう」
そう言いながら、翼についたチョコレートを軽く払い貯蔵庫から出たティレイラは、もと来た道を戻ろうと飛び回った。だが、同じような構造の道が多すぎて自分がどこを飛んでいるのか分からなくなる。
右へ飛び、戻ってきては左へ飛び。頭上に空いている道へと飛び込んでみたり斜めに走る道へと飛んでみたり……。
しかし、飛べば飛ぶほどに混乱し、いつしかあの貯蔵庫の場所さえも分からなくなってしまったのだった。
「どうしよう。ここから出れなくなっちゃった……」
ティレイラは若干青ざめた様子でぽつりと呟いた。
少しばかり開けた場所にぽつんと降り立ったティレイラは、前後左右に延びる道を見回して途方に暮れる。
すると、どこかの穴から聞き覚えのある羽音が響いてきた。
「この音は、もしかして……」
顔を引きつらせながら近づいてくる音を確認する為、キョロキョロと辺りを見回した。
徐々に近づいてくる羽音。それはやがて、ティレイラのすぐ後ろから聞こえてくる。
咄嗟にそちらを振り返ると、穴の先から顔を出したのはあの巨大な蜂だった。
「!」
ティレイラは弾かれるようにその場から飛び去るも、彼女の姿を捉えていた巨大蜂はすぐさま彼女の後を追いかけてくる。
命の危険を感じてしょうがないティレイラは、匂いに誘われて何も考えずにここへ飛び込んだことを今更ながら後悔した。
大きな羽音はすぐ後ろに近づいている。こちらが飛ぶよりもずっと早い巨大蜂に、ティレイラは焦りに襲われてパニックになりそうだった。
「せめてどっか、隠れる場所があれば……」
冷や汗を流しながら辺りを忙しく見渡し、必死になって飛んでいた。が、追い風と耳障りな羽音がすぐ後ろまで迫る。
思わず背後を振り返ると、目と鼻の先には巨大蜂の目があった。
「うそっ! 一匹じゃないの!?」
逃げることに必死になっていたティレイラは、知らぬ間に何十匹にもなっていた巨大蜂の群集に我が目を疑った。
思わずその場に竦みあがって立ち止まると、巨大蜂たちは容赦なく彼女を床に抑えつけられてしまう。
カタカタと音をたてて顔のすぐ側にまで迫った蜂たちの鋭い口元に、ティレイラは蒼白して体を強張らせた。
いよいよ食べられてしまう。
そう察したティレイラは思わずぎゅっと目を閉じた。
すると、ビシャッと言う音と生暖かい感触に目を開くと、胸元に液体チョコが浴びさせられていた。しかもそれは瞬時に固まり始め、とてもではないが身動きが取れなくなってしまった。
「や、やだ! ちょっと、嘘でしょ!?」
そう叫んでいる間にも巨大蜂たちはチョコを吐きかけてゆき、気付けば顔以外の全身がコーティングされてしまっていた。
その頃になると、甘い香りに不思議とティレイラは体が脱力する感覚を覚え、妙な心地よさを覚える。
ふわふわと浮いているかのような不思議な感覚に頭の芯が痺れ、まるで夢を見ているかのような心地よさだった。
(なんだろう。なんか、すごく、気持ちがいい……)
恍惚とした表情を浮かべるティレイラに、蜂たちは最後のチョコレートを吐きかけた。
ティレイラが完全にチョコレートにコーティングされ、固められてから暫く経った頃。お菓子の世界に君臨している一人の魔女が現れた。
ふいに視線を足元に向けた魔女は、床にレリーフ状になっていたティレイラを見つけ目を瞬く。
「あら。珍しい。こんなレリーフ初めてだわ」
魔女はその場にしゃがみこむとそっとティレイラの頬に触れる。
「こんなに精密なレリーフは、このままここにおいて置くには惜しいわね……。切り取って我が部屋に飾ろうかしら」
くすっと笑いながら腕を組んだ魔女は考えるような素振りを見せた。
「それとも、大広間に飾っておくのも悪くないかもしれないわ」
楽しげにティレイラをどうするか模索する魔女の楽しげな笑い声が辺りに響いていた。
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