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人魚の涙は石になる
1.
何があったのだろうか‥‥?
イアル・ミラールは茂枝萌(しげえだ・もえ)に甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、ふとそんなことを思う。
魔女の館‥‥親友が‥‥わたしは‥‥それから?
ひどく断片的な記憶が甦っては消えていく。真っ白な記憶、その後に出てくるのは萌のホッとした顔。
何があったのだろうか‥‥?
そんなイアルの顔を察して、萌がホットミルクを差し出した。
「そんな怖い顔して、どうかしたのかな?」
「いえ‥‥記憶が曖昧なのが不安で‥‥」
イアルの口にした不安に、萌は微笑む。
「無理して思い出さなくてもいいんだよ。それよりも今は心身ともに健康になることを考えなきゃ」
ホットミルクを受け取り、イアルは一口それを飲む。温かさが心にも、身体にも染み渡る。
「そうね‥‥早く帰らなくちゃ、彼女が心配するものね」
そう言って微笑むイアルに、少しだけ萌は寂しそうな顔をした。
イアルは半年ほど野良犬のように‥‥いや、野良犬として生きていた。
それを救ったのは萌だった。一任務の成り行きで救出した。‥‥とはいえ、イアルを助けられたことを萌はよかったと思っている。
けれど、少しだけ不満なこともある。
イアルは『彼女』を心配する。イアルがそもそも野良犬になってしまったのも『彼女』のために動いたせいだった。再度野生化しないかどうかの監視を兼ねて、萌はイアルの担当になった。『彼女』も今、別の場所でイアルと同じように養生している。2人が再会するのもそう遠くないだろう。『彼女』を思い、『彼女』の為に笑うイアル。
‥‥嫉妬というのだろうか?
萌の心がざわつく。萌の部屋で2人でいるのに、イアルの心はここにはない。
「‥‥どうしたの?」
イアルの心配そうな声に、萌はハッと我に返る。
「ううん、なんでもないよ」
「そう。具合が悪いなら遠慮なくいってね? 少しぐらいなら役に立てると思うの」
気遣ってくれるイアルの笑顔に、萌は自らの黒い心を押し隠した。
2.
「体調が良いなら、少し外に出てみようか」
ある非番の日、萌はそうイアルに提案した。
「外へ?」
イアルがそう訊き返すと、萌は「着くまでのお楽しみだよ」と言った。
イアルは萌と2人で少しだけ遠出をした。賑やかな街並みからはさほど離れていない海岸に沿って行く。そして着いたのは風光明媚な入り江。凪いだ風の音と打ち寄せる波の音、光と岩と海水が織りなす秘密の場所。
地元の人間は『神隠しに遭う』と噂する入り江だが、実際には海産物が豊富に採れる場所として地元の人間が利権を独占しようとした結果の噂である。
「綺麗な場所だわ」
イアルの顔が薔薇色にほころび、その笑顔に萌もイアルと一緒に微笑む。連れてきたよかった。
「ねぇ、海に入っても大丈夫かしら?」
「体を冷やさない程度ならね」
無邪気にはしゃぐイアルに、萌は安らぎの時間を感じる。
足で打ち寄せる波を蹴るイアルは、萌のそんな優しい視線を感じながら久方ぶりの外の世界を満喫する。
ふと、イアルの足元を何かがくすぐった。イアルが足元を見ると海藻が足に絡まっている。一瞬水上に持ち上げようとしたイアルだが、植物も生きているのだと絡まった海藻を外すだけにした。
ところが‥‥
「えっ!?」
海藻がどんどんと押し寄せて外しても外してもイアルの足に絡みつき、やがてイアルの身動きが取れないほどに足に絡みついた。
「も、萌‥‥!」
助けを呼ぼうと声に出した途端、イアルの体は強い波によって海面に叩きつけられる。
「イアル!?」
気が付いた萌が慌ててイアルの元に駆け寄ろうとするが、海に入った萌にも海藻が絡みつき、その行く手を阻む。
「イアル!? イアルっ!!」
「も‥‥ガボッ!!」
足のみならず手にも絡まった海藻で身動きが取れないイアルは、その体を波にさらわれて行く。
そして、萌は見たのだ。
イアルに絡みつく海藻の間に間に、人の顔らしきものと巨大な尾ひれがイアルを海に引き込んでいく姿を。
萌は絶望した。こんな時に‥‥目の前で私に助けを求めている人がいるのに‥‥どうして?
どうして私は、イアルを助けられないの?
『NINJA』を‥‥潜入用パワードプロテクターをつけていない私は、どうしてこんなにも非力なの‥‥?
「イアルーーーーー!!」
何もできないまま、イアルは萌の視界から消え去った‥‥。
3.
入り江で神隠しに遭う‥‥その噂は昔から確かに地元民の間で囁かれていた。
だが、その噂はここ数年でさらに尾ひれがつき、さらには行方不明者までもが現れた。
大きな鱗が入り江に残され、地元民は入り江に大きな人食い魚でも住み着いたのかと話し合った。
実際、その入り江にはある生き物が住みついていた。
人間ではないが、人間のようにものを考え、なおかつ狡猾に生きる者たち。
人魚である。
彼らは美しい女性や少女が入り江に現れるたびに海に引きずり込んだ。そうして、イアルも人魚の手よって他の女性や少女と同じように海に連れ去られたのだ。
連れ去られた女性たちに人魚は秘薬を飲ませる。その秘薬は人を人魚に変える薬。そうして体を人でならざるものに変えた後、魔法により記憶までも人から人魚にしてしまうのが西洋から流れ着いた人魚たちの仲間を増やす方法だった。人魚に変えられた人間は『生まれながら人魚の一族』として、余生を過ごすこととなる。
しかし、イアルはまた別の理由から人魚に選ばれた。
人魚姫とイアルは顔が瓜二つ、間近で見ても見間違えるほどの生き写しだったのだ。
「オカエリ‥‥人魚姫」
人魚の歌は脳を痺れさせるほど甘美な歌声。数人の人魚たちに囲まれ、意識は混濁したままにイアルはその身を人魚にされ、人魚姫の記憶を植え付けられ‥‥そして、人魚姫として何十人もの人魚たちに出迎えられた。
「人魚姫様、めでゅーさノ要求ガ‥‥」
大半の人魚たちは本物の人魚姫が行方不明であることを知らなかった。だから、イアルがそれにすり替わっても、なんらの疑問を抱く者はなかった。
「シーメデューサが‥‥?」
メデューサは人魚たちの住む海のほど近くの海底に居を構え、美しい者にいつも嫉妬していた。人魚たちはいつも怯えていた。
「生贄ヲ出セ。サモナクバ、大切ナ姫ヲ永久ニ失ウ‥‥ト」
嫉妬の心がメデューサを狂わせる。本物の人魚姫はメデューサの手に落ちていたのだ。
「皆、気圧されてはいけないわ。メデューサのことは、わたしに任せて」
毅然とした態度でイアルは人魚姫として他の人魚たちにそう宣言する。
誰かを犠牲にしてはいけない。人魚姫として、イアルはそう思った。
犠牲になるのなら‥‥わたしだけでいい‥‥。
4.
「人魚姫、だと?」
メデューサはイアルを一瞥すると、そう笑った。
シーメデューサの神殿に自ら生贄となり赴いたイアルを、メデューサは笑ったのだ。
「何故笑うのですか!?」
「おまえは本物ではない。なぜなら、本物は私の手にあるからだ」
メデューサの言葉は真実だった。けれど、イアルは自らの記憶を書き換えられているため、それを信じることはできない。
信じてしまえば‥‥それは‥‥。
「人質を返しなさい。わたしと引き換えになさい!」
凛とした真っ直ぐな姿勢で、姫としての誇りを胸にイアルは命令した。
けれど。
「偽物が‥‥忌々しいねぇ」
シーメデューサの瞳が、イアルを捕えた。赤い瞳。まるで獣のように飢え、それだけで射殺してしまいそうなほど強い視線。
「っ!?」
イアルは怯んだ。背筋に冷たい物が走り、逃げ出そうと思った。しかし、逃げ出そうとした足が動かない。
「なっ?!」
見れば足の先から徐々に体が冷たい石になっている。
メデューサの石化の視線。
「逃げられやしないよ」
「そっ‥‥そんなっ!」
驚き、それを何とかしようとしてはみたものの、何とかできる訳もない。徐々に‥‥徐々にその石化の範囲は太ももから臀部、腰へと。
犠牲はわたしだけでいい。わたし‥‥だけ‥‥?
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
半分以上体が動かなくなったイアルは、頭を抱えた。石になっていく体が、冷たく重くなる感覚に狂いそうだった。
こんなのは嘘だ! 夢だ! 悪い、夢に違いない!
「もっと泣くといいよ。どうせお前なんか誰も助けに来やしないさ。だってお前は偽物なのだから‥‥」
イアルの恐怖を煽りせせら笑うメデューサは、イアルから流出した精気を食らい石化を促す。その精気がメデューサの好物であり糧になるのだ。
「違う‥‥違う、違う違う違違違違違っ‥‥! 助けて! 助けてぇぇぇ!!」
否定しないで!
わたしは人魚姫。偽物なんかじゃない。助けに来るわ。わたしは人魚姫なのだから。
わたしは‥‥ワタ‥‥シ‥‥ハ‥‥‥‥。
イアルの瞳から流れた大粒の涙がコロンと音を立てて神殿の床に転がった。それは、すでに石化していた。
「‥‥偽物は偽物らしく、その醜い姿を晒しているといいわ」
メデューサは悲壮なまでに懇願したまま固まったイアルの石像を、シーメデューサの神殿入り口に飾った。
「茂枝萌、これより入り江の行方不明事件に着任するよ」
IO2が萌をこの件に携わらせたのは、イアルが居なくなって半年が経っていた。
イアルの安否はいまだ確認できなかったが、それでもようやく許可が下りたことに萌は希望を見出していた。
‥‥どうか、イアルが無事でありますように‥‥。
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