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<東京怪談ノベル(シングル)>


門番と番犬〜戻れない日々

●令嬢とメイド
 夕暮れ前の街に人は少なかった。
 そんな街を一人歩く女性の姿。
「う〜ん、疲れの影響ねぇ」
 呟きながら自らの額に手を当てたと思うと、肩から下げた小さなバッグから白い包みを取り出す。
 どうやら処方箋で、名前欄には「響・カスミ」。一日三回食前に、という薬は感冒薬のようだ。
「ま、明日は土曜日だし、一日休めば大丈夫ね」
 神聖都学園は、明日は休み。念のために早引けして病院に寄ったのだが、インフルエンザではない。来週からの勤務に支障はないだろう。
 その時、道の向こうから来る人影があった。
「いい? 次からはこんな見栄えだけ良くて縫製のなってない服なんか用意するんじゃないわよ」
「はい。かしこまりました、お嬢様」
 ゴシックロリータな衣装を着た少女とメイド服に身を包んだ女性の二人組だ。カスミはまったく気にしてない。
「あ……」
 もちろん、すれ違う瞬間に少女から目を見開いて呆けたような声とともに視線を受けたことも。
「ちょっと!」
「かしこまりました、お嬢様」
 気付いたのは、耳元で声を掛けられた時。
「すいません、ちょっといいですか?」
「え?」
 我に返って振り向くと、目と鼻の先に先ほどにすれ違ったメイドの顔があった。
「お嬢様が貴女を見初めたようです。屋敷へご案内させていただきます」
「え? あなた、瞳の色……」
 どさり。
 メイドの瞳が赤く輝いた時、相手が只者ではないことに気付いたがもう遅い。
 肩に掛けていたバッグが歩道に落ち、カスミは回れ右してメイドと一緒に歩いていた。
 うふふ、と少女の満足そうな微笑が、あるいは耳に入ったか。
 伸びた三人の影が、歩道に残された鞄から遠ざかっていく。


●カスミの行方
「争った痕跡も音もない。自ら夢遊病のように姿を消されては手立てがない……」
 数か月前、バッグの落ちていた場所に立ったイアル・ミラール(7523)は、これまで何度も繰り返したように水晶のベンデュラムを垂らして呟いていた。
「目撃者もないから、本当に手掛かりがない……ですか」
 イアルが口にしているのは警察から言われた言葉。もう、警察を当てにできない状況なのだと解釈している。
 これまで何度も試したように、カスミが姿を消したと思われる方へ歩く。
 歩くうち、都内郊外の自然の多く残る洋館の外壁へと行き着く。
 もちろん一番最初に気になった場所だ。
「残念ながら、目撃しておりません」
 最初に聞いた時の、ここで働くメイドの返答だった。
「もしかしたら、メイド以外で心当たりのある人が……」
 イアルはそう思い、再び巨大な門扉へと向かった。
 そして、カメラ付きの呼び鈴ボタンを押した。
 もしもまたあのメイドが出てきて、あの時の言葉は家の者全員だという意味だったら申し訳ないとも思いつつ。
「何?」
 スピーカーからの言葉は幼かった。
「あ、あのっ……人探しをしてまして、もしよろしければお話させていただければ」
「ふうん」
 イアル、藁にもすがるような声で話したが、ぎくりとした。
 まるで品定めでもしてるいかのような口調。
「いいわ。入って来て」
 がちゃん、と重厚な音がして鍵が開いた。
 イアルはほっとして入る。
 そして驚いた。
 広いだろうとは思ったが、中の庭は都内とは思えないほど広かった。そして、洋館の玄関まではまだ遠い。
「来て、と言われましたし……」
 迎えが来ず不安に思いつつも急ぐ。
「はっ!」
 道中、気付いた。
 通り掛かった蝙蝠の翼を生やした子鬼の石像を何気なく見上げたところ、その姿は――。
「カスミ?!」
 両ひざを曲げて足を開き、背を曲げてたたずむガーゴイルの姿は、カスミそのものだったのだ。
 その、数か月間風雨にさらされ苔生していたガーゴイルの……いや、カスミの顔が、動いた。
 イアルを睨みつけたのだ!
『グアッ!』
 立ち上がり飛び立つと腕を振り突っ込んできた。
「そんな……カスミ!」
 鋭いクロー攻撃はイアルの衣服をびりりと裂いただけ。驚異的な反射神経でカスミの突っ込みをかわした。振り向こうとするカスミはこの瞬間、大きな隙を作っている。
 もしも傭兵であれば、この隙を逃さなかっただろう。ギリギリで攻撃をかわしたのも本来ならそのためだ。
 だが、今のイアルは「王女の記憶と能力を植え付けられた憑代」でしかない。
「カスミ、正気に戻って!」
 そうは言うが、体は反射的に半身になっている。引いて構えた右手は、のど輪でたたきつけた後の固め技を狙っている。一方で、イアルの意思はそれを望んではいない。
 勝敗を分けたのは、この一瞬だった。
「きゃっ!」
 ぐわし、と振動が喉元と後頭部を襲った。振り返ったカスミが逆にのど輪からイアルを組み敷いたのだ。
 ざっ……。
 苦しみに耐えるイアルの横に誰かが立つ。
「門番としては優秀ね。それじゃ、後は任せるわ」
 インターフォンで聞いた声。見上げると気の強そうな少女がいた。横には、メイド。
「かしこまりました、お嬢様。では……」
 メイドが屈んでのぞき込む。
 イアルはその瞳が赤く妖しく輝いたの見たところで、気を失った。


●イアルの心
(ん……)
 次に気付いた時、視界が妙に低かった。地面に近い。しかもゆっさゆっさと揺れている。
(何、これ……)
 前進しているのは分かる。が、止めようにも体がいうことを聞かない。
(まさか)
 冷静に、自分の体を確認してみる。
 手のひらにはひんやりした地面。
 膝と爪先にも同じ感覚。
 ふと、目の前に大木が。
 体はそこまで近寄ると……。
(まさか!)
 ひいい、と総毛立つような思い。
 体を横にして、幹に向かってふわっと右足を高く上げる感覚が伝わってくる。
 やがて聞こえる、じょぼぼ……という音。
(いやぁぁぁーーーっ!)
 目を背けたくなるような現実は、都合のいいことにちゃんと目を背けていた。
「普通、犬は体を伸ばして気になる方は見ないハズよ」
 顔はそうするのが自然なのだろう。上を向いている。その横目に映るメイドが冷やかにそう言った。
「いい気味。そうやってるのがお似合いよ」
 少女はそう笑って屋敷へと向かった。
「しっかり番犬として勤めるように」
 メイドはそれだけ伝えるとガーゴイルに台座に戻るよう指示し、手にしていた白い下着を適当に放った。見覚えがあるのは、イアル自身が先ほどまで履いていたものだから。落ちた近くに、ベンデュラムの水晶が寂しく光を放っていた。
(くっ)
 屈辱的な思いとは裏腹に、体から伝わってくる放尿後の生理的な心地良さに包まれる。それがまた悔しく、頬を熱いものが伝う。
 それが引き金となったか、喉を伸ばして言葉を発した。
「う、うぉぅぅ……」
 悲しき遠吠え。
 イアルには、それがまた悲しかった。

 どのくらい涙を流しただろう。
 イアルは四つ這いで洋館の森を彷徨う生活を続けている。
 幸い、寒さや体の痛みなどは感じない。犬がそうであるように。メイドの魔法のおかげかもしれないが。
「うわんっ!」
 ある夜、吠える声が聞こえた。
(あれは番犬の少女の……)
 イアルの心は、野犬の生活を否応なしにする身体にげんなりしつつも、まだ人のものとして残っていた。
(まさか、侵入者?)
 身体は吠える声の方に急いでいた。イアルの心も同じ思いだ。
 縄張りを確認するマーキング、メイドが餌代わりに放っている肉に食いつく泥まみれの食事、そして庭の小川に流れる水を舌で飲み潤いを取る姿。
 すべてが嫌悪感にまみれ、拒否感で声にならない叫びをあげるが、今ほど身体の反応をすんなり受け入れた時はなかった。
(泥棒なら許せない!)
 何より、野犬化して戸惑うイアルに、それこそ犬のように寄り添ってくれた少女の声。
 何かあったら許さない。
「なんだこの女……うわっ。汚ェ、吠えてねぇでどっかいきやがれ!」
 どかっ、きゃいん、という声。
 急ぐイアルが見たものは、優しくしてくれた少女の横たわる姿と狼藉を働いた侵入者!
「わぉぉぉん!」
 イアル、吠えた。
 心の悲しみを吐き出すように。
「おわっ! またか」
 次の瞬間、男に跳びかかって組み伏せた。
 が、相手も必死だ。大人しくしない。
「この野郎、死にてぇか!」
 しかも力が強い。押さえておけない。
(し、仕方な……えっ!)
 覚悟を決めたイアルだったが、身体はその決断よりも早かった。
 森に静寂が戻る。
 しばらくのち、イアルはとぼとぼと歩いていた。
 ガーゴイルの台座まで行くと、見上げる。
(カスミ……)
 心で問い掛けるが、返事はない。バックで月が青い。あれからさらに苔生しているのが分かる。
(私は……)
 すがるような視線は、受け止めてもらえない。
 そんな思いとは裏腹に、舌は勝手に自らの口元の血を舐めとっていた。

 そしてまた数か月。
「ぐあっ!」
 見ない娘が四つ這いになって暴れていた。まだ服が新しく、汚れたり擦り切れたりしていない。
「わんっ、わんっ!」
 馴染みの娘が振り返って吠えたてる。助けを求めているようだった。
 見ない娘は決して強そうではないが、二足立ちして組み付いてからが強い。体をひねり、捌くように相手を投げ捨てている。
「ぐおぅ……」
 仲間に期待されたイアルは相手がこちらに気付いてから襲い掛かった。
「ぐうっ!」
 相手も応じ、二足立ちで組み付く。すぐに相手は投げようとするが……。
「ふしっ!」
 過去に染みついた体の動きは、ここでも生きていた。逆に巻き込んで投げのタイミングを外し、イアルの方から投げる。
「ふしゃっ!」
 投げられた敵は勇敢だ。それでもまだ向かってくる。
 が、しかし。
 ガツッ!
「き、きゃん……」
 イアル、向かってくる娘を今度はのど輪で仕留め大地に打ち付けた。
 勝利を祝福するように、四つ這いの娘たちが近寄ってくる。体を擦り付け、頬を擦り付け、そしてペロペロと舐める。体は汚れ放題だが、イアルだけは頬がきれいな理由だ。

 たまにガーゴイル像を見上げていると令嬢やメイドと出会う。
「お手」
 戯れに令嬢が手の平を出して来たら、優しくそこへ手を乗せる。
「あら、もうすっかり人としての理性はないようね」
 令嬢は満足そうに高笑いをする。イアルには、それが心地良いように感じる。以前は自由にならずお手をしてしまう体に嫌悪感を抱いていたが。
 いつの間にか心から野生化していた。抗おうが、どうしようもなかった。
「よし、お戻り」
 メイドの言葉で屋敷内の森に帰る。
 そんなイアルを見ても、ガーゴイルのカスミも微動だにしない。すっかり門番と堕しているようだった。
 大地にはいつか落ちたベンデュラムの輝きだけが、儚くきらめいていた。