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<東京怪談ノベル(シングル)>


門番と番犬〜戻るべき場所


 鰯雲の急ぐ低い空の下、石像がたたずんでいる。
 ガーゴイルだ。
 両ひざを曲げ足を開き、背を曲げて台座に座っている。
 都内だというのに広く緑の多い庭を見渡すように。
 もっとも、その面差しは小鬼のようなものではない。表情に凄みがあるものの成人女性であり、口に牙もない。それでも豊満な胸を反らし周りを見渡すようなたたずまいはガーゴイル以外の何者でもない。
「ぐるる……」
 そこへ犬のようなうなり声。
 芝生に擦るような音が響き、下の台座近くで止まった。
 続いて、何らかの水が台座にかかる音。
「わふ……」
 台座の元で、ぶるっ、と身震いする姿はイアル・ミラール(7523)だった。
 四つん這いで、右の後ろ脚を高々と上げてマーキングする姿は犬というほかない。薄汚れて異臭を放つ、野放しの野良犬だ。
 それだけではない。
 用を足して喉を伸ばし見上げる先にあるガーゴイル像は、仮に彼女が正気であればたちどころに気付くだろう。
 胸を張ってあげた顔は、響・カスミその人である。
 だが、イアルは気付かない。いや、気にもしない。
 そのままのっしのっしと四つ這いで歩いていく。
「赤目!」
 突然響く、凛とした声。
 振り向くイアル。
 赤い瞳に映ったのは、大きな屋敷の主である気の強そうな少女だった。
「こっちに来なさい」
 少女は小さな胸を張って言うと足元に水の入った皿を置いた。イアル、のしのしと移動し水を舐めて飲む。
「あーあ、こんなに薄汚れてにおいも臭くなっちゃって」
 少女はイアルの髪を撫でてやりながら蔑んだ目で言う。
「ホント、綺麗な顔が台無しよねぇ」
 くくく、と笑った。気分良さそうに。
 が、撫でる手が止まった。
「……お前、どうしていつも一人なの?」
 先程とは変わった口調。
 寂しそうな様子に気付いたイアルが顔を上げる。
「お前、群れのボスじゃなかったの? 追い出されたの?」
「お嬢様」
 見つめ合う少女とイアルだったが、新たな声に顔を上げた。
 声の主はこの館のメイドだった。
「ここは門番が守る場所。わざわざ番犬が出てくるところではありません。……さ、森に帰りなさい」
 指差すメイド。
 イアルは指示された方に素直に帰っていく。そこには、森の木々に隠れ遠巻きに見守っていたほかの野犬化した娘たちがいた。
 メイドは満足すると向き直る。
「お嬢様は中へ。お茶の用意ができております」
「……本家からはまだ何も言ってこないの?」
 少女の方はメイドに食って掛かった。メイド、少しだけため息をつく。
「はい。分家からの反発が酷く、お嬢様に登場いただくには予測のつかない事案が多すぎるそうです。もうしばらくお待ちください」
「いいわ」
 膝をついて少女の目の高さで言い聞かせるメイド。少女は冷たく答えるだけだ。
「行きましょう、お茶が冷える」
 視線を外すとメイドを置き去りにして屋敷へと急ぐ。
「慣れてるわ……待つのなんか」
 というつぶやきは、誰にも聞こえない。



 後日、敷地内の森の中で。
「わふ……」
 大樹の根元で片足を上げ、ぶるっと身震いしていたのは、イアル。
 いつもの日課だが、不意に顔を上げて視線を巡らせた。
「うっ、う……」
 かすかに聞こえる嗚咽。しかし、どこにも人影はもちろん、野犬化した娘もいない。
 それでもイアルはあきらめず探す。
 声を頼りに窪地に降りた時、灌木に隠れた斜面の窪みに人影を見た。誰かがうずくまり、膝頭に顔をうずめて泣いている。
 近付く。
 泣いている少女は顔を上げない。
 ざっ、とその傍まで近寄った時、ようやく少女は気付いて顔を上げた。
「誰?」
 館の主、お嬢様たる少女だった。普段強気の顔は真っ赤になり、弱々しい目尻から涙があふれている。
「わふ」
「赤目、お前……」
 イアル、くんくんと鼻先を近付けるとぺろりと涙を舐め取った。
「私は、誰からも気にされない存在」
 少女は舐められるに任せて呟く。
「両親からもそう。同年代からもうそう。……みんなかかわろうとせず、かくれんぼをすればいつだって誰からも見つけられなかったわ。たいして難しいところに隠れているわけでもないのに」
 反対側に回って涙を舐めとってやるイアル。少女は続けた。
「この場所に隠れてても、いつだってメイドにすら見つけられたことはない。野良犬にした少女たちにも。……それなのに」
 初めてイアルの方を見た。
 少女の目と、イアルの赤い瞳が合った。
 その時、だった!
「まさかこのようなところにいたとは……」
 はっ、と顔を上げる少女とイアル。
 頭上の斜面の上に、メイドが一人立っていた。
「どうして? 今までは見付けてもくれず、寄り添ってもくれなかったのに……」
「その野良犬を探してただけでしたが、まさかお嬢様の隠れ家まで……いえ。お嬢様、たったいま本家から連絡がありました」
 メイドはため息をついてから口調を変えて伝えた。
「え? それじゃ私、もう隠れてなくても……」
「隠れたままでいいんですよ、お嬢様」
 明るく言った少女に、にっこりと答えるメイド。いや、同時にすうっと息を大きく吸った。
「本家からの意思は、お嬢様の排除。隠れたまま、ここで死んでください!」
「え?」
 はっきりと言い切ったメイド。呆けたように目を見開くしかない少女。
 そしてメイドが腕を上げると、ずらりと野良犬の娘たちが彼女の両横に姿を現した。
「お前たち、やりなさい」
「わうっ!」
 号令と同時に駆け降りる娘たち。
 ざざざ……と一気に窪みの左右を囲まれた。
 もちろん、直上からも襲い掛かってくる!
「そんな……そんなことって!」
 その圧倒的な勢いに少女は身動きもできない。
 ただ、新たに涙を流すのみ。
「信用してたのに……お前だけはと信用してたのにっ!」
 悲痛な訴えが響く。
 その声は――耳を塞いですべてを否定しているのは、襲われているという現実ではない。裏切られた現実を受け入れたくない、そんな涙だった。
 イアル、その涙を目の当たりにして大きく目を見開いた。
 目の前では、野良犬が少女に殺到している。このまま押しつぶされてしまう。
「がうっ!」
 ついに伸ばされる野良犬たちの手。
 しかし、少女まで届かない!
 イアルが横から身を挺したのだッ!
 雷に打たれたかのように反射的に動いたイアル。二足立ちのような恰好をして――野良犬のダイブを全身でキャッチした。そのまま身をひねり大地にたたきつける。
 が、飛び込んできたもう一人にのしかかられた。
 ごろりと転がり揉み合うが、ここで体勢を入れ替えた。潰されつつもキャッチしていたのだ。マウント状態となって起き上がると足を取る。そのまま両足を抱えてぶん回した!
「きゃん!」
 左右から詰めていた野良犬をこれで一掃する。尻餅をついたお嬢様の上には、イアルのジャイアントスイング。周りから容易に近付けない。
 ――ひゅん……どさっ。
 けん制するだけけん制した後、放り投げた。
 これでイアルの強さを知る野良犬たちは躊躇した。
「お前もお嬢様を襲わぬか!」
 突然の叫びに振り向くイアル。そこには、右手中指にはめた指輪を掲げたメイドがいた。赤い宝石と妖しい瞳が独特の雰囲気を醸す。
 何らかの魔法だ。
 が、イアルの瞳は変わらない。
「……くっ。理性のかけらもなく野生化してしまったのか? ならば!」
 メイド、イアルをほかの野良犬同様に操ることをあきらめ奥の手を出すっ。



「ガーゴイルッ!」
 メイドの叫びが響いた。
 刹那、その背後からぐわっと石像の門番、ガーゴイルが現れた。大きな胸を反らし一つ咆哮を上げると、メイドの魔法でガーゴイルにされた響・カスミが躍りかかってきた。
 たちまちイアルにのしかかり大地に転がりもみ合う。
「赤目!」
 少女の叫びは悲鳴ではなく、叱咤の響き。
 理由は……。
 ――ガツッ!
 前に戦ったとき、勝利を収めているから。いま、イアルがカスミの後頭部を大地に打ち付けたように。
「もちろんここまでは織り込み済み」
 突然響く背後からの声。
 この揉み合いの隙にメイドが斜面を滑り降りているではないか。
「これで終わりよ」
 メイド、今度は反対の手にしている指輪をかざす。青い宝石を掲げ妖しい瞳で呪文を呟く。
 振り向いたイアルは、これを直視してしまっていた。
「はっ! そ、そんな……」
 唯一の希望とばかりにイアルに頼っていた少女から、絶望の声が漏れる。
 イアルが石化しているではないか!
「手間を取らせてくれたわね。……さ、お嬢様。素直にこのガーゴイルに倒されてください」
「ダメよ!」
 ガーゴイル化したイアルに指示を出すメイド。少女はイアルに抱き着いた。
「一人で死ぬのは寂しいですか?」
「ええ、寂しいわよっ!」
 聞かれて少女はぐっとイアルの首根っこを抱きしめる。
「寂しく一人で生きて、寂しく一人で死ぬなんてイヤ。せっかく、私を見つけてくれた……」
 大粒の涙を流し気丈にメイドを睨み返す少女の言葉は、そこで止まった。
「赤目……」
 ぺろり、とその涙をイアルが舐めとったのだ。
 石像化した姿から戻り、野犬と成り果てていた時の瞳からも戻り――。その姿は、寄せられた少女の頬からもらった温もりに満ち、舐めとった涙からわき起こった勇気に満ちているかのようだった。
 とはいえ、それはいつものイアルではない。いつかの……遠い遠い、身体だけが覚えているころのイアル!
「ぐっ!」
 メイドの悲鳴は、何があったか分からないという響きがあった。それだけイアルの動きは速かった。
 気付けば組み伏せられていた。
 そして気絶を狙った拳を振り上げた時。
「聞け」
 メイドが小声で話した。
「私の博打は終わりだ。……いまからここを闇に閉じる。お嬢様を連れて逃げろ。ここを見張っている追っ手は私が何とか始末するが……その後は知らん。お嬢様を頼む」
 それだけ言うとメイド服の中身が空になった。がくん、と手ごたえがなくなり前のめりになったイアルが最後に見たのは、メイド服から抜けて逃げる黒猫一匹。
 直後、闇が周囲を閉じた。



「とりあえず、親戚の子として私があなたを預かるわ」
 自分のマンションに帰り、普段の様子に戻ったカスミが「お嬢様」と呼ばれていた少女を迎え入れた。
「すぐにお茶の準備をしますね」
 こちらもすっかり普段通りのイアルがキッチンに急ぐ。
「ふん……」
 少女はいつもの癖でツンとそっぽを向くが、部屋の様子に興味津々だ。
 これから、新たな日常が始まる。