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<東京怪談ノベル(シングル)>


御佩刀の休息

「水嶋・琴美、ただいま帰還いたしましたわ」
 唇に弧を刻んだ女の微笑に、司令は深く頷いた。
 元より琴美のことをそこまで心配していたわけではない。彼女の実力は彼もよく知るところであるし、斃れたとなればそれこそ未曾有の危機ということになる。
 だが――この自信に満ちた表情を見られるのは、少なからず安心する。
 だから――。
 彼が返すのは笑顔と一言だ。
「ご苦労だったな」

 *

 司令から解放された琴美がその足で向かうのは専らカフェテリアである。
 その圧倒的な実力ゆえに多忙を極める彼女が、短い休暇のうちに迎える場所は限られている。足を運ぶのは幾度もの来訪の末に時間を割くに足ると判断された場所だけだ。
 だから、ここは行きつけの店ということになる。
 店内は広くはない。場所が場所だけに、人も来ない。その分だけ静かだ。
 いわゆる隠れ家的名店にあたる――のだろうか。
 その窓際に陣取って珈琲を飲むのが好きだ。湯気を立てるカップにミルクを入れてかき混ぜる。柔らかな色合いになったそれのにおいを楽しみながらゆると傾けて、渦巻く液体を嚥下する。
 ああ――幸せだ。
 長い睫毛がふと緩む。大きな黒目を細め、整った顔が花のように小さな笑みを浮かべた。
 ――けれど、この後はどうしましょう。
 珈琲の苦い香りに呑まれて手持無沙汰に外に向けた視線を自転車が横切った。サイクルジャージとレーサーパンツを纏った青年がちらと琴美を見る。一瞬だけぐらついた自転車は、しかし風を切って大通りへ漕ぎ出していく。
 窓ガラス越しの鮮やかな風圧をまともに喰らった気がした。
 それに釣られたように立ち上がる。くゆる珈琲の香りを一気に味わいながら流し込んだ。
 やりたいことは決まった。
 琴美は、風への衝動には勝てないのだ。

 *

 戦闘服で訓練室に現れた琴美を見るや、幾人かの男性構成員が手を止めた。
 その一人に容赦なく蹴りを喰らわせた女性が笑顔で駆け寄ってくる。人懐こい彼女を見ると、琴美の頬も自然に緩んでしまう。
「どうしたんですか、休暇でしょう」
「ええ、ちょっと、風を切りたくなって。誰かお付き合いしてくださるかしら」
 溌剌とした声音に頷いて見渡すが、俄かに沸き立った男性たちの昂奮は鎮まってしまったようだ。訓練室は水を打ったように静まり返る。
 琴美の実力は嫌というほど知っている。幾ら彼女が絶世の美女であっても、その美女が扇情的な格好で相手をしたいと申し出ても――それが今まで一度も傷を負ったことのない女豹からの訓練の誘いとあっては手を上げることはできない。
「あんた、あんだけ喜んでたんだからやりなさいよ」
「何で俺なんだよ、皆喜んでたろ」
「あら。何言ってるの、私の蹴りも防げないほど動揺した癖に」
 琴美に駆け寄ってきた女性が、先程蹴り飛ばした男性の背を叩く。暫し彼女と琴美の顔を見比べていた彼は、観念したように頷いた。

 *

 本当に――。
 水嶋・琴美というのは美しい女性だ。
 否、美しいということすら烏滸がましいかも知れない。
 黒いラバースーツに浮き出す扇情的なラインのみならず、プリーツスカートから覗くしなやかな細い足にまで無駄がない。日本人としては白く透き通るような肌の滑らかさが芯を凍らせるような心地さえする。一挙一動に合わせて揺れる黒いロングヘアを照らせば、どんな安っぽい蛍光灯ですら高級なものに思えてくる。
 本当の美人は怖い。
 それは分かっている。
 だが――こと琴美に限っては、恐怖の方向が違う。
 周囲を逆巻く風が手元の武器を狙っている。丸腰になったら――否、武器を持っていてすら、琴美には勝てない。
 だからこれは精一杯の反撃なのだ。
 丁度、肉食獣に食われる草食獣が、その手中で足掻くのと似ている。
 そんな気分で繰り出した拳は果たして虚しく空を掻く。バランスを崩してよろけた男の耳元で蠱惑的な声が囁いた。
「チェックメイト、ですわ」
 同時に脳天に喰らう一撃に意識が持って行かれそうになる。崩れ落ちて初めて、彼女のそれが計算しつくされたものであると知った。
 危うく意識を失うところだったのではない。
 意識を失わないように繰り出されたのだ。
 暫しの間があって、誰かが流石だと声を上げた。静寂に満ちていた空気の揺れが観戦者たちに伝播して、口々に琴美を湛える声が上がる。
 満足げに微笑を返した彼女は、彼に向けて手を差し伸べた。
「大丈夫ですか」
「光栄です」
 つるりとした肌に触れた男の顔が言いようもない喜色を漏らす。またそんな顔して――と歓声の中から声が上がった気がした。
 ふと携帯が鳴ったような音がした。自分のそれを手に取った彼女は、いつもの穏やかな声音で応答する。
「水嶋か」
 ――司令からの呼び出しだ。琴美の顔が僅かに歪む。こういう電話が朗報だったことはかつて一度もない。
 手短に電話を切って、戦闘服を脱ぐべく更衣室に向かう。
 今度は頬をつねっている彼女には、応援の意も込めて小さく手を振っておいた。

 *

 辿りついた司令室では、やはり眉間に皺を寄せた上司が待っていた。
 神妙に立つ琴美を真っ直ぐに見詰め、まず謝罪の一言を口にした彼は、本題だがと言葉を区切って肘をついた。
「任務だ。ある企業で非合法アンドロイドが開発されようとしていることが分かった。それを阻止してほしい」
 これを何とか出来るのはお前だけだ――。
 視線が語っている。
 その実力への信頼が素直に嬉しい。誇らしげに胸を張り、返答の代わりに敬礼をしながら、しかし琴美は落胆する。
 やはり――。
 短い休暇になってしまった。