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<東京怪談ノベル(シングル)>


静寂のミューズ


 刀剣は、ある意味、銃よりも便利な武器なのではないか、と思える時がある。
 武器ではなく、美術品として扱う事が出来るからだ。
 この国に、拳銃を持ち込む事は出来ない。だが美術品ならば法に触れない。
 その美術品で、人を殺傷したりしない限りは。
「それも美術品かい?」
「無論。この大和守安定は、見て愛でるもの。床の間に飾って悦に入るためのもの」
 己の腰に結わえ付けてあるものを、少年はちらりと見下ろした。
「あくまで観賞用です。美術品としての登録も、済ませてありますから」
「世界で、恐らくは唯一……人を殺せる美術品というわけだね」
 十代半ばの、西洋人の少年が2人。そんな会話をしながら、小川を辿るようにのんびりと歩いている。
 いや、のんびりとしているのは片方だけだ。
 さらりとした銀色の髪。少年合唱団の制服が似合う、たおやかな細身。その顔立ちは、美少女のようでもある。
 もう1人は、いくらか大柄で体格が良い。大和守安定を腰に帯びたその姿は、まさしく洋装の侍である。のんびりと歩く余裕などない様子で、油断なく周囲を見据えながら、美少女のような少年を護衛している。
「美術品で人を斬るなど……よほどの事態が起こらぬ限り、私はそんな事はしませんよ」
「よほどの事態など起こりはしないさ。何しろここは世界一、平和な国なんだから」
 ウィーンの神童ニコラウス・ロートシルトの、来日公演である。
 本番を明日に控えた今、ニコラウスは日本における束の間の余暇を楽しんでいた。執事であり護衛であり、そして親友でもある、1人の少年を伴ってだ。
「確かに……銃で狙われる事のない国が、まさか本当にあるとは」
 鋭い、油断のない眼差しで、少年執事が風景を見回している。
 竹林、そして小川。
 水流のせせらぎと、風に揺れる竹の葉のざわめきが、しかし無音以上の静寂を感じさせる。
 静寂を感じさせる音。それは、欧州では出会えなかったものである。
「しばらく……この国で、暮らしてみたいな。この国の音を、もっと聴いてみたい」
「御冗談を」
「この国は、お前にとっても、心の故郷のようなものだろう? 一緒に暮らそうじゃないか」
「私に剣を教えてくれた男が、日本人であるというだけの話ですよ。私自身、この国へ来たのは初めてですが……あの男同様、何とも掴みどころのない、薄気味悪い国です。長居をしたいとは思いませんな」
 そんな事を言いながら、少年執事は立ち止まった。そして、ニコラウスを背後に庇う。
 彼をこれほどまでに警戒させる相手など、ウィーンの暗黒街にも、それほどはいなかったものだが。
 少年の左手が、腰の大和守に添えられる。右手が、ゆらりと脱力した。
 いつでも抜刀出来る構えである。
 彼が一体、何を斬ろうとしているのか。何から、ニコラウスを守ろうとしているのか。
 探すまでもない。いくらか離れた所に、その少女は佇んでいた。
 竹林の妖精。
 そんな陳腐極まる表現しか、ニコラウスの頭には浮かんで来なかった。
 少女を一目見た瞬間、芸術家としての感性が麻痺してしまったかのようである。
 14歳のニコラウスよりも、2つか3つは年上であろうか。すらりと大人びた身体を、茜色の着物と袴に包んでいる。
 黄色人種などと大雑把な分類をされてしまうが、この少女の肌は、白色人種の女性たちよりも白い。
 その白さと鮮烈なる対比を成す黒髪は、後頭部で、馬の尾の形に束ねられている。
 美しい少女である。が、これほどに容姿の美しい女性なら、ヨーロッパの上流階級にいくらでもいる。
 感性が麻痺してしまうほどニコラウスが呆然としているのは、その少女から『音』が全く聞こえないからだ。
 人間の発する『音』が聞こえてしまう。人間を『音』でしか判断出来ない。
 そんなニコラウスが、この少女からは、何も聴き取る事が出来ないのだ。
 静寂。
 その少女を一言で表現するならば、そうなってしまう。
「何者……!」
 少年執事が、剣呑な声を発している。
 彼が、気配すら感じる事が出来ずにいた少女。
 彼女が仮に、ロートシルト家と敵対する誰かしらが放った刺客で、拳銃でも持っていたとしたら。ここにいる少年2人、すでに命はない。
 そんな少女が、微笑んでいる。
「……狐にでも招かれましたか? 異国の方々」
 狐は、この国の民話においては、まるで邪悪な妖精の如く扱われている動物である。魔力を持ち、人間を幻惑し、悪戯にしてはいささか被害の大きな悪さをする。
「何者か、と訊いている。我々を煙に巻こうとするな」
 抜刀の構えを解かぬまま、少年執事が言う。
「正体を明かしたくなければ、それでもいい……こちらの御方の、敵か味方か。それだけを答えろ、正直にだ」
 ロートシルト家の……否。ニコラウス・ロートシルト個人の、敵か味方か。この少年は、その基準でしか人間を判断しない。
 ニコラウスが『音』でしか、人を判断出来ないようにだ。
「どうぞ……迷わず、お斬り下さいませ」
 少女が言った。
 風が吹き、竹の葉がさやさやと鳴った。
「いずれ、この世から消えゆく身……いえ。私たちの一族は、すでにこの世に存在しないも同然。100年後に畳の上で往生する事と、今この場で土へと還る事に、一体どれほどの違いがありましょう」
「貴女は……そこに、存在しているじゃないか」
 そんな言葉と共に、ニコラウスは前に出た。自分を守ろうとしてくれる少年執事を、押しのけるような格好になってしまった。
「……失礼、私はニコラウス・ロートシルトという者。ここが貴女がたの土地であるならば、まず正体を明かさなければならないのは我々の方だった」
「それは、どうも御丁寧に。では私も正体を……と申し上げたいところですが」
 少女が微笑んだ。
 彼女から音が聞こえない、だけではない。
 世界から一切の音が消えた、とニコラウスは感じた。
「明かすほどの正体など、私にはありません……いずれは廃れて消えゆく一族の、それも女です。誰からも必要とされず、ただ重石のように置かれて家を守るだけ。こうして家から出る事など、本来ならば許されてはおりません」
 竹が、清かな音を発している。小川のせせらぎと共にだ。
「なのに、出て来てしまった……貴方の存在を、感じたから」
「私の……?」
「存在しないに等しい人生の中で、貴方と出会う事が出来ました」
「貴女は、そこに存在している」
 自分は何を聴いているのだ、とニコラウスは思った。
 風に揺れる、竹の音。小川のせせらぎ。
 それが、この少女の『音』なのだ。静寂を強調する音。だから、何も聞こえないように感じてしまった。
「土に還るなどと、言ってはいけない……」
「それなら貴方も。どうか、生を拒絶しないで」
 少女の眼差しが、じっとニコラウスを射貫いた。
「私が……生を、拒絶……?」
「自分は、生きていてはいけない。そんな思いが……竹の葉を揺らす風と一緒に、伝わって来てしまうのです」
 悪魔の歌。呪われしローレライの血統。そんなふうに陰口をきく者たちもいる。
 言われるまでもない、とニコラウスは思う。自分が歌う歌など、歌とは呼べない。
 人の命を吸う、悪しき力だ。
 そんな力を垂れ流しながら、楽聖だの神童だのと囃し立てられている自分。
 それを、初対面の少女に見抜かれてしまった。
「貴方は、私とは違う場所に生きる人……光り輝く場所に、立てる人。こんな所にいては駄目、どうか未来を受け入れて。貴方自身がどう思おうと、それは光り輝く未来なのだから」
「それなら、君も一緒に!」
 自分は何を言っているのだ、などと思う前に、ニコラウスは叫んでいた。
「私が未来を受け入れるなら、君と一緒にだ!」


 どんなに遠くにいても、思いは変わりません。
 逃げ行くニコラウスを咎めるでもなく、彼女はそれだけを言ってくれた。
 その言葉を背中に受けながら、ニコラウスはしかし逃げてしまったのだ。
 彼女が、自分の子供を産んでくれた。
 その子が、すくすくと育ってゆく。
 なのに、父親たるニコラウスの身体には、何の変化も起こらない。
 14歳のまま、時が止まってしまったのだ。
 子供がいずれ、自分を追い抜いて行ってしまう。
 それに、ニコラウスは耐えられなかったのだ。
「これが……呪われた、血統か……」
 庭園を眺めながら、ニコラウスは呟いた。
 老人のように深々と、椅子に身を沈めた身体は、しかし相変わらず14歳のままである。
 自分が捨ててしまった息子も、すでに父親となった。
 孫とは、1度だけ顔を合わせた。その孫が、まだ幼い頃にだ。
 あの幼子も、すでに成人している。
 祖父であるニコラウス・ロートシルトの肉体は、しかし14歳のまま時が止まっている。
 自分より年上の孫に再会する勇気も持てず、止まったままの時を、こうして無為に重ねているのだ。
 ニコラウスは、歌を口ずさんでいた。歌とも呼べぬ、悪しき力。だが今は、周りに誰もいない。
 命を吸い取る悪魔の歌に、しかし彼女は何の影響も受けなかった。
 天使の歌声ね、とまで言ってくれた彼女は、もうこの世にはいない。