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人魚の薬は全てを助けられるのか
1.
イアル・ミラールは人間だった。
イアル・ミラールは人魚だった。
イアル・ミラールは石像だった。
イアル・ミラールはガーゴイルになった。
ガーゴイルとなったイアルは門に置かれた。
この屋敷の持ち主である少女のお気に入りであったが、それと同時に飼われている番犬少女たちの格好のマーキング対象でもあった。風雨にさらされマーキングもされ、イアルはどんどんと汚れていく。けれど、少女はイアルを洗おうとはしなかった。また、唯一屋敷で働くメイドにもイアルを洗うように命令はされなかった。
番犬たちはイアルを支配の象徴とした。この場所を支配したものがこの庭の支配者であると、そう思ったのだ。
少女もまた、それをよしとした。汚れていくイアルを見ても微笑みを絶やさなかった。繰り返され、日を追うごとに臭気は酷くなり、見るに堪えない惨状を生み出した。
イアルは風雨にさらされ苔むし、蜘蛛の巣が張り、汚物がまみれて悪臭を放つ。普通の人間なら耐えられない。
「お嬢様‥‥」
「‥‥うるさいですわ」
少女の考えはよくわからず、そんな状態にもかかわらず少女はイアルを日に何度も愛でに来るのだった。
茂枝萌(しげえだ・もえ)はイアルを助けるために、その屋敷に入り込んでいた。
屋敷で働くメイドは魔女だった。その為念には念を入れゆっくりと時間をかけ潜入した。全てのタイミングが揃う時を息をひそめて伺いながら。
ある日、萌はイアルの石像の前で不思議な光景を見た。
「お母様‥‥お父様‥‥」
屋敷の主である少女がイアルにすがりつき、ポロポロと泣いていた。
「悪いことをしたら、怒るって‥‥言ったじゃない‥‥どうして怒りに来てくれないのです? どうして私は独りなの?」
萌はその少女の行動が理解はできなかった。けれど、なぜか心が締め付けられるような気がした。
少女の寂しさだけは‥‥十分に理解できたから。
2.
屋敷に、ある一本の電話がかかってきた。
「はい」
メイドはそれを受けると硬直した。
元々、この屋敷に派遣されたのには訳があった。少女は両親が亡くなり、莫大な遺産を親類縁者に騙し取られた。しかし、それだけでは済まなかった。
少女に受け継がれたのは両親が残した遺産だけではなく、その家系に代々受け継がれていたものもあった。少女は詳細を知らぬまま、この郊外の屋敷に軟禁され、魔女結社の魔女が監視役のメイドとして送り込まれたのだ。
そして、少女の知らぬ間に代々受け継がれたそれは他の者に正式に継承された。
‥‥少女はもう用済みだった。
『事故で少女は死ぬ』
メイドに課せられた命令。それが先ほどの電話だった。電話を切る手が震えた。
それほど長くはない時を一緒にいただけだ。命令であれば‥‥殺せると思っていた。
けれど、思いのほかメイドは少女に情を移してしまっていた。
わがままなお嬢様だった。時折見せる人間らしい姿とその冷酷な二面性は全て両親が死んでしまったことに始まる。そんな不幸な境遇でも少女は決して笑顔を崩さなかった。曲がった方向ではあったが、心の強さを見た気がした。
殺せる‥‥だろうか?
メイドは己の心に問う。
「もっと汚してあげますわ」
バケツいっぱいの森から集めた腐葉土をイアルの頭からぶっかけ、さらにその上から泥水を浴びせる。ぐちゃぐちゃになったイアルの石像を微笑みながら見つめていた少女だが、その顔から微笑みが消えた。
「‥‥あなたも、もう私に何も言ってくれないのね」
イアルの心から聞こえるのは獣のようなうめき声だけ。少女は跪き、イアルの顔をそっと拭く。
「誰も、私を見てくれないのね。私を必要としてくれないのね。私を‥‥どうして‥‥」
いつもの余裕の微笑みはなく、少女の顔は曇っていた。
「独りは寂しい‥‥私を‥‥独りにしないで‥‥」
絞り出すような声。けれど、誰にも届かぬ声。少女はそれでも心の内から吐き出すように涙を流す。
「グルルルルルル‥‥」
ふと、周りに番犬の少女たちが集まっていた。
「‥‥お前たちは呼んでいないわ。あちらに行っていなさいな」
少女はそう言ったが、番犬たちは立ち去らない。むしろ、少女に向かって威嚇し、牙を剥いてくる。
「? どうして? なんで私の言うことをきかないのです?」
立ち上がろとした少女を後ろから誰かが掴んだ。
「!?」
それは、動き出したイアルだった。
「な、なんで動け‥‥!?」
イアルの固い爪が少女の肩に食い込む。その力は容赦ない。
「ひっ‥‥!!!!」
痛みと恐怖がじわじわと足元を固める。少女は小さな悲鳴と共に腰を抜かし動けなくなってしまった。
今、少女の周りには敵しかいない。少女の命は風前の灯だった。
3.
『野犬による不慮の事故』
メイドはそう筋書きを書いた。番犬少女たちとイアルを使い、少女を事故死に見せかける。
表向きには少女はこの屋敷で1人暮らしをしているとされている。少女が死んだら、番犬とイアルを始末すればいい。
‥‥これは賭けだ。
筋書きにないことが起こる可能性にメイドは賭けた。
牙を剥き、爪を立てる野生化した群れは少女を追い詰める。
「やめて! 来ないで!! 助けて!」
叫んでも誰も来ない。誰にも聞こえない。‥‥いや、いた。メイドが助けに来た。
「助けて! は、早く助けなさい!!」
しかし、メイドは少女を見下ろしたままで助けようとはしない。
少女の首筋に水滴が落ちる。
それはイアルの涎。首筋に歯を立てて食いちぎろうとするイアルの‥‥。
「イヤッ‥‥!!!」
逃げようと必死で身をかがめる少女の上を何かが飛んでいく。少女の首筋からイアルの気配が消え、イアルの倒れた音がした。
訳が分からない少女の周りで、番犬少女たちが次々に小さな悲鳴を上げて昏倒していく。
「‥‥イアル、助けに来たよ」
それは、萌だった。萌は倒れたイアルに人魚から貰った霊薬を口移しで飲ませる。するとイアルは徐々にその姿を変える。
羽と角は消え、その身は人間であったイアルそのものとなった。
「もう大丈夫だよ」
イアルは目覚め、少女を助け起こした。萌は、気絶した番犬たちに霊薬を飲ませて回る。
「‥‥あなたは、この子の寂しさに気が付いていたのでしょ?」
イアルはメイドを見据えてそう言った。
聞こえていた。ガーゴイルであっても、イアルの心は生きていた。涙を流した少女の姿を覚えていた。
「おまえに‥‥何がわかる!!」
メイドはそう言ってイアルに殴り掛かったが、イアルはあっさりとそれを躱してメイドを地に叩きつけた。
「‥‥何もわからないわ。わたしはこの子が泣いてたことを知ってるだけだもの」
イアルがそう言って手を離すと、メイドは一瞬にして掻き消える。たった一言を残して‥‥。
「お嬢様を‥‥頼みます」
屋敷の主である少女と番犬とされていた少女たち、そしてイアルはIO2に保護された。
「お疲れ様だよ。たまった疲れはお風呂でしっかり洗い流そうね」
IO2の萌の部屋に戻った後、萌はそう言ってお風呂を用意してくれた。
「背中、洗ってあげるよ」
萌とイアルは2人で一緒にゆっくりと体を温め、身体をお互いに洗いあった。
「あの子たちはどうなるの?」
イアルが萌の背中を流しながらそう訊くと、萌は「大丈夫」と言った。
この件に深く関わり、理解をしているという理由から少女たちは萌の管理下に置かれることとなったのだ。
「‥‥そう、よかったわ」
イアルがそう微笑んだ。久し振りに見たイアルの笑顔に、萌も思わず微笑むのだった‥‥。
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