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<東京怪談・PCゲームノベル>


藤の麓


 彼女の機嫌が悪そうだな、というのが、セレシュの最初の感想である。

 藤の盛りの頃であった。セレシュが小さな町を訪問したのは、丁度、藤が満開になったよという知らせを知人から受け取り、折り良く珍しい酒も手に入ったので、知人に振る舞い酒でもしようかと思い立ったためである。
「…どないしたん。こんな綺麗に咲いとるのに、ご機嫌斜めやなぁ、姫さんは」
 丘の上にある小さな神社は、若い桜が多い。だが本殿の傍にあるのは藤の古木だ。立派な藤棚を設えられており、今は盛りを迎えた藤の花は、みっしりとした花弁を重たげに棚から零している。濃密に漂う藤の香りは、それだけで酩酊を誘う程であった。それが魂宿るご神木なればなおのこと。
 ところが、その肝心の、藤に宿る姫神様――同時にこの町の守り神であるところの女性は、藤棚の下で扇で顔を隠したまま、退屈そうに寝そべっている。
 顔を隠している彼女の機嫌が何故セレシュにすぐに理解できたのかと言えば、簡単な話である。神社の周りだけがどんよりと薄曇りになっていたからだ。東京都全域は本日、終日、雲一つない晴天であるにもかかわらず。
 町内限定であれば天候さえも気分一つで操る「かみさま」であるところの女性は、訪問客であるセレシュに気付いた様子で、大仰に溜息なんぞついて見せた。
「そうよ、折角綺麗に咲いたのに、藤は学校の行事で忙しいし、桜花は体調崩して寝込んでいるのよ」
「なんや、また悪いもんでも憑いたんか、あの子は」
 この神社の居候であり、巫女見習いでもある少女――桜花は大層難儀な憑依体質で、そこらの悪いモノも良いモノも見境なく体に憑依させることが出来てしまう。その為、よくよく悪霊や、邪気や、そういったものに取りつかれて体調を崩していることがあった。姫神様――ふじひめはふん、と鼻を鳴らす。
「少し前に神社に余所の神霊が遊びに来ていたのだけれどね。あの子には刺激が強すぎて中てられた様よ。まったく、セレシュが来ると聴いていたから、肴を用意させようと思っていたのに」
「それでご機嫌斜めやったんか」
「そうよ。酒があるなら美味しい肴が欲しいじゃないの」
「桜花は巫女さんであって、召使やあらへんよ、ふじひめ」
「巫女は神に仕えるものよ」
 ――ぐうの音も出ない正論ではあるのだが、セレシュとしては苦笑するに留めた。昼間だと言うのに今にも雨が降りそうな程に辺りは薄暗い。この上、この気紛れな女性の機嫌を損ねることは避けたいところだ。そこで、セレシュは手土産を彼女の方へ向けた。
「ほら、ご要望のワインや。とっておき中のとっておきやで?」
 この姫神は大層な酒好きで、おまけにミーハーだ。この一本で機嫌を勝ち取れる自信が、セレシュにはあった。彼女が掲げたボトルの中で揺れる液体は黄金色より琥珀色に近い。
「とっておき? どこのワインかしら」
「ふふふ、聞いて驚きや。――ハンガリーのトカイワインや」
「!!」
 案の定。その言葉に、ふじひめの顔が上がり、曇天の隙間から日が差し始めた。起き上がって飛びつく様にセレシュの傍に文字通り「飛んで」やってくると、ボトルを受け取り、うっとりと抱き締める。
「貴腐ワインね! 国産では無くトカイの本物とはまた…ああ、なんて綺麗な黄金かしら」
 折り良く、と言うよりも、天候を操っているのが彼女本人なのだから当然だが、その手元に真っ直ぐ陽が差し込み、トカイワインを神々しく彩った。
 黄金の色を持ち、かつて「錬金術の賜物」とも言われ、エリクサー、すなわち万能薬とも称された一品。トカイワインの中でも飛び切り上等な一品が本日のセレシュの手土産である。デザートワインとも呼ばれ、これはとにかく糖度が高い。
「ちょっと待っていなさい。これはその辺りの紙コップで飲むものではないわね。台所に切子のグラス――いえ、良いワイングラスが合った筈だわ」
 慌ただしく告げて姿を消してしまうのを見送り、何て現金な神様だろう、と、セレシュは呆れて笑ってしまった。


 重たく垂れ下がる藤の房の垂れ幕は、ようよう差し込み始めた陽光の下で、紫に輝いている。陽に透かすと赤味がかっても見え、角度によっては全く風情の異なる姿を見せた。それを眺めながら、セレシュは手渡されたグラスにワインを注ぐ。
 一口含めば、さすがのデザートワイン。口の中には圧倒的な甘さが広がる。
 横を見れば、ふわふわと宙に浮いた格好で、姫神がうっとりとワイングラスを傾けていた。いかに機嫌が良いか、一気に雲が消えた空の晴れ渡り方と、生き生きと輝き始めた満開の藤の花が如実に語っている。それからふと、彼女は顔を上げた。
「そうだわ、いけない。こんなに美味しい物を二人だけで味わうものじゃないわね」
「そうは言うてもなぁ。藤や桜花はあかんやろ、未成年やし」
「何を言ってるの。兄様を呼んでくるのよ!」
 また慌ただしく彼女の姿が掻き消える。忙しいやっちゃな、と、セレシュは改めて、藤棚の傍に用意されているベンチに腰を据えた。藤の香りは境内を覆う程に濃密だ。それだけで、アルコールでは酔うことのないセレシュの酩酊を誘う程に。

「肴なんか要らんやんなぁ。この花があれば十二分や」

 小さく呟き、ワイングラスを傾ける。薄い硝子が唇に触れ、上等のワインがまた一口、胃の腑へ落ちた。セレシュは酔いを知らないが、艶やかな程に甘いワインを傾けながら藤を愛でるこの時間を、人が酔いと呼ぶのだろうことは理解できた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【8538 / セレシュ・ウィーラー 】