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深夜はディストピア
『夜な夜なビルの合間を飛び回る白い幽霊』。
その都市伝説が東京から消滅してから、数日経った日の出来事である。
――ここ最近、自殺者が増加の傾向にある。
飛び降り、飛び込み、首吊り、練炭、リストカット……
自衛隊非公式特殊部隊、特務統合機動課ではこれを怪奇の仕業と判断。
隊員である水嶋・琴美(8036)に事件の究明及び解決という任務を下したのであった。
夜の東京。
星空を引き摺り下ろしたこの明るくも暗い街が琴美の庭にして職場である。
（『上』も投げっ放しな任務を寄越してくれますわねぇ……）
琴美は心の中で溜息を吐いたが、それは彼女が上から信頼されている何よりの証拠でもある。
任務成功率１００％という驚異のくの一。『仕事着』を纏った彼女は今宵も闇に解け、動き始めた。
事前に琴美が行った調査によると。
自殺者は夜にその数を増やしていることが判明した。
つまり『犯人』は夜に現れる、という事である。
東京の夜は明るいけれど、明るい場所には影ができる。
光と影は表裏一体――そう、昼と夜のように。
琴美が足音も無く降り立ったのは、誰も居ない陸橋の上だった。
切れかけの点滅している街灯が照らす、薄暗い煉瓦造り。
陸橋の下には線路が長く長く向こうまで伸びていた。時折、仕事帰りの疲れた顔をした人をたくさん乗せた電車が通る。
そこにふらふら――響いた疎らな足音。
セーラー服を着た少女が一人。鞄も何も持たないまま。
ふと彼女が立ち止まる。橋の外を眺めている。
飛び降り防止の為に橋には高い金網が張ってあった。
少女はそこを、何の躊躇も無く登ろうとして……
「お待ちなさい」
凛と響いた琴美の声。
明滅する灯り。ストロボスコープの視界。
片手だけ金網にかけた少女が緩やかに振り返った。
表情のない、朧で虚ろな表情。
まるで死体のよう……。
（……！）
琴美は僅かに瞠目した。
よくよく見澄ましてみれば、少女の背後に何か……『いる』。
陽炎のような。靄のような。
少女の背中にへばりついたそれは、彼女の耳元で囁き続けているのだ。
「死ね。死ね。死んじゃえ。死んじゃおうよう。死のう。死んどけば？」
間違いない。
あの少女には怪奇が取り憑いている。
琴美は素早く太腿のベルトより取り出したクナイを両手に持った。
研ぎ澄まされた刃の如く、くの一は怪奇を見澄まして。
「――人の心を弄ぶ怪奇よ、貴方を撃滅します」
琴美の慈母の如き優しさは、時に怪奇にすら注がれる。
けれど今日の彼女は修羅の如く。
彼女にも赦せないものがあった。
それは――罪無き人の心を弄ぶ存在、今目の前に居る怪奇のような存在だ。
怒りに我を忘れたりはしない。寧ろ湧き上がる感情は琴美の頭をいっそう氷の如く冴え渡らせる。
絶影の吶喊。
暗闇の中、夜より黒い軌跡を描くのは艶消しされた琴美のクナイ。
が、琴美はそれを寸での所で止めた。
「……悪趣味な」
怪奇は取り憑いた少女を操り、彼女の体で琴美のクナイを受け止めようとしたのだ。
自衛隊が国民を傷つけるような事はあってはならない。琴美自身としても憑依された少女を無傷で救い出したいと思っていた。
最中に怪奇が橋の柵を一本、力尽くで引き千切る。その即席の槍を少女に持たせると怪奇が攻勢に出た。怪奇に憑依された為か、異常な身体能力で槍を振り回す怪奇少女。
鈍器が空を裂く荒々しい音が何度も響き渡る。けれど『殴打音』は聞こえない。怪奇が振り回す鈍器は琴美には届かない。
怪奇の超常的な動きを前に、琴美の動きもまた人外めいていた。琴美の方が上回ってすらいる。
琴美は全ての攻撃を見抜いていた。
一撃、一撃。その全てを寸前で回避している。辛うじてかわしているからではない、余裕を持って見切っているからこそだ。
猛攻を掻い潜る。じっと怪奇を見澄ます琴美は一瞬の隙を窺っていた。
直後にくの一は大きく後方に跳躍する。
琴美に攻撃の気配がないと判断したのか、怪奇は逃亡ではなく更に攻撃に出た。
その間隙。
一直線。
琴美の手から投擲される一本のクナイ。
鋭利な切っ先は、少女の背後――陽炎のような姿の怪奇へと、容赦なく突き刺さる。
くぐもった怪奇の悲鳴。
突き刺さったクナイを中心に怪奇が渦巻いた。次の瞬間に霧散し掻き消えるする陽炎。カランと落ちるクナイと槍、糸が切れた人形の如く脱力し崩れる少女。
琴美は素早く駆け寄って少女が倒れる前に抱き止める。意識はないが息はあった。気絶しただけのようである。怪我もないようで一安心だ。
「……良かった」
彼女が助かったのならば何よりだ。琴美は安堵の息を吐きつつ、年若い少女を夜道に放置する訳にもいかないので彼女を抱き上げて――
「お痛が過ぎましてよ」
ひゅる、と鞭の如く振るった脚。
柔軟な琴美の脚は落ちたクナイを掬い上げるように飛ばし、『霧散したまま再度の憑依機会を窺っていた』怪奇へと一直線。
「ギャッ！」
響いたのは今度こそ断末魔。
クナイが突き刺さった陽炎のようなそれが宙でのたうち、そして、正真正銘消滅する。その証拠はベッタリと血糊がついたクナイが雄弁に証明していた。
さて、忍は夜と影に紛れ表舞台には出ない者。その存在の証拠を決して残してはならない、知られてはならない。彼女は華々しく活躍する『ヒーロー』ではないのだから。
琴美はクナイを回収すると通信機を取り出し、
「こちら水嶋。怪奇との戦闘によって現場に僅かな損傷発生。――後処理、お願い致しますわね」
現場の地点情報を送信すれば、あとは処理班の仕事だ。明日の朝には千切れた柵も元通りになるだろう。そう思った直後に、橋の下に電車が通り過ぎた。時間的に最終電車だろうか。
けれど琴美の仕事はまだ終わりではない。
気絶した少女を交番の近くにそっと寝かせ、琴美は再び夜の街を駆け始める。
風が耳元で流れてゆく音を聞きながら琴美は思案していた。
（自殺者の増加は、人を死に誘わんとする怪奇の仕業――けれど、たった一体の仕業だとすると、あれだけ自殺者が急増しているのは辻褄が合いませんわ）
鉤爪付きロープを駆使し、僅かな出っ張りを足場に、琴美は高いビルを駆け上がる。
（おそらく……。まだ、いるのですね）
人を死に誘わんとする怪奇が、この東京中に。
琴美は『夜な夜なビルの合間を飛び回る白い幽霊』を思い出していた。
（あの人も、この怪奇の『犠牲者』だったのかもしれませんね……）
降り立つ屋上。
見やった琴美の視線の先。
ビルの縁。
人間の背中が見える。
そして、その人間に取り付いた陽炎のような姿をしたあの怪奇も。
「どちらへいかれるのです？」
――『自殺へ誘う怪奇』の総数は判明していない。
彼らの目的も……あるのかは分からないが、有無すらも判明していない。
となれば夜通し、琴美は調査に救助に奔走せねばならないだろう。
「怪奇……。私の目が黒い内は、好き勝手は赦しませんわ」
構えるクナイ。
今夜は長い夜になりそうだ。
けれど幾ら長かろうと――終わらぬ夜はない。
そして終わらぬ夜に終止符を打つ事こそ、琴美の使命なのだから。
「悪夢は今宵で御仕舞。さぁ……悪い夢からは覚める時間ですわ」
いつものような美しい朝日を、誇りと共に迎える為に。
『了』
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水嶋・琴美(8036)
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