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祈り
中東カルヴァイン。
テロによる内戦の続くその地で男は一人の女の子と出会った。褐色の肌にそばかすをつけたあどけない顔が印象的な女の子だ。その子の落としたクマのマスコットを拾ってやった。
「ありがとう、おじさん」
お礼を言われて男は不満そうに顔を歪めた。
「お兄さんだよ」
すると女の子はクスクスと笑って言い直す。
「お兄さん、ありがとう」
「ああ」
どういたしましてとばかりに頭の上へと伸ばしかけた手をそっと彼女の肩に移動させてポンポンと優しく撫でてやると女の子は満面の笑顔を男に向けた。母親に呼ばれて駆けていくその背を見送りながら男は徐ろに立ち上がる。女の子の残していった笑顔は殺伐としたこの世界には何とも不釣り合いで、男の乾いた心に温かな滴を落としていった。
次に男が女の子と再会したのは町外れにある食堂だった。
テロ組織の潜伏場所と噂される場所だ。その日、連合軍による襲撃が行われた。後にその情報は偽物だったと知れる。ただ。生存者のないその店の片隅で、娘を守るように覆い被さる母の下で、女の子は大きな目をこれ以上ないほど開いて、責めるように男を見上げていた。いたたまれない気分で少女の目を閉じさせると、男はその場を離れ、こみ上げてくる嫌悪感と共に胃の内容物を吐き出した。
偽情報に踊らされ襲撃を行い無関係の家族を撃ち殺した連合軍第二中隊隊長――その功名心と出世欲の前に大事の前の小事と多くの犠牲と代償を支払った――ユアン=ヴァンシスは、その3ヶ月後テロ組織を壊滅し、内戦に終止符を打ったことでカルヴァインの英雄と呼ばれるようになった。
半年後――東京。
ビルの屋上で男はライフルスコープを望遠鏡代わりに覗いていた。
「水嶋か」
振り返るでもなく男は背後に声をかける。
「お久しぶりです、教官」
水嶋と呼ばれた女が静かに頭をさげた。
「元、だ」
苦笑混じりに訂正して男はようやくスコープから目を離すとそれをトレンチコートのポケットに仕舞いながら女を振り返った。
「何故ですか?」
女が問う。
「昔のよしみで見逃してくれると嬉しいんだが」
男は期待をこめた笑みを女に向けた。
「申し訳ありません」
女が目を伏せる。
「ま、そりゃそうだ」
おどけたように肩を竦めて男はポケットからそれを女に向けて無造作に投げた。
「!?」
スモークポッドで奪った視界の向こうで女が後方に飛び退く影が見える。男は欄干を飛び越え何の躊躇もなく宙にダイブした。
「全てが終わったら、君の任務に付き合ってやるよ」
煙幕の向こうに声をかけながら振り子のような軌道で空を舞い。
そして独りごちる。
「よりによって、また厄介なのを引き当てちまったな」
▼
カルヴァインの英雄の命を狙うテロリストの暗殺指令を受け、対象がスナイプの下見に来ることを予測して、水嶋琴美はそれに適していると思われるそのビルの屋上を訪れた。確信があったわけではない。即任務というつもりでもない。その証拠に隊の正装に薄手のスプリングコートを羽織った姿だ。ただ会えればいいと思っていた。理由を聞いてみたかったのかもしれない。隊を辞しテロ組織に身を置く理由を。彼は変わってしまったのか。いや、そうではない。
「…終わってからでは遅いのですが」
煙幕の向こうに消える影を見送りながら琴美は困ったように呟いて踵を返した。彼の覚悟と決意。それを確かめたかったのだと思う。
▽
タイトスカートのファスナーをおろしながら、ふと琴美はロッカーのドアミラーに映る自分の顔を見返した。
――迷いはない。それでも。屋上で再会した男はカルヴァインに赴任する前と変わらぬように見えた。
脱いだスカートを畳んでロッカーの中へ。代わりにスパッツを穿く。伸縮・速乾、機能性に優れた黒のインナーを身につけ、足をベンチにかけると、その白い太股にベルトを巻いた。
――隊のパソコンからカルヴァインの策戦に関する記録を読み込もうとしたがロックがかかりアクセス出来なかった。
着物のように前で合わせるタイプのノースリーブに袖を通し、煩わしげに長い髪を掻き上げると、豊満な胸を覆うように衿を合わせ、せっかくの曲線美を消し去るように帯を締める。
――連合軍は何かを隠しているのか。
ミニのプリーツスカートで太股のベルトを忍ばせるようにして、再び足をベンチにかけると編み上げで膝まであるロングブーツを履く。
――わかっている。己が知る事ではない。
グローブをはめ、何度も握り直しながら琴美はミラーに映る自分を睨みつけた。ゆっくり息を吐き出す。心のスイッチをオンにして。
得物を手に取りその切れ味を確認するように指でなぞって、太股のベルトにセットした。
組織の拠点を潰し、分厚い雲の向こうの太陽が西の地平線に消えるのを待って闇夜の帳に身を委ね琴美は再びビルの屋上を目指した。
だが昼間と違って今回はそう簡単に上へは行かせて貰えないらしい。琴美は登ろうとした非常階段の3段目で反射的に足を止めた。そこに張られたピアノ線。トラップだ。ゆっくりと視線を周囲に巡らせる。
下と上が囮だろう。直径10cmもない手すりの上を駆けあがると跳躍、クナイでトラップを起動させる。投げたクナイをワイヤーで回収。トラップにかかった敵を迎え撃たんと潜んでいたのだろう銃を構えて飛び出してきたその青年の喉元に、琴美は手の中に戻ったクナイをつきつけた。
「!?」
青年の蹴り。琴美はバク転で避ける。間合いをとっての睨み合いに琴美が走った。その後を追うように青年の銃撃。だが上へ下へと動く琴美を捉えきれず。逆に間合いを詰めた琴美はクナイで彼の喉元を狙う。その攻撃は読まれていたのか青年が右へ避けた。そこまで計算尽くで琴美はクナイを頭上へ投げると、床に両手をつき側転しながら両足を彼の腕に絡めて引き捻り、床にうつ伏せに倒して自らはそこに馬乗りになった。その手に再びクナイが戻ってくる。
それを振り下ろそうとした琴美に、青年が右手を振るった。
「!?」
琴美が反射的に退きクナイを盾のように眼前に掲げる。放たれたのは閃光弾。至近距離のそれに視覚を奪われ目を閉じて身構える。
殺気だけに身体が反応した。
青年の一撃を左手のクナイで受け止め、右手がクナイを投げていた。
徐々に視覚が戻ってくる。
真っ白な世界が淡い輪郭を描き黒い影は徐々に色を集め、首を押さえる青年が声にならない声で呻いていた。
「教えてくれ。この理不尽な世界で、何が正しくて何が間違っているのか」
琴美は小さく息を吐いた。
青年が手を離す。刹那、天井を鮮血が染めた。鼓動と同じテンポで噴水のように溢れる血。だが、それも瞬く間の出来事で。
「隊長を…頼む」
と青年の唇が動いたような気がした。
かつて忍びは正否を自分たちが判じる事はなかったという。それを決めるのは仕える主だったからだ。――何が正しくて、何が間違っているのか。
琴美は階段を進み屋上へ出た。月も星も雲に覆われ頭一つ高い屋上を照らすものは殆どなく、階にかろうじて下界の明かりが届く闇。更にいつから降り出したものか霧雨が視界を曇らせていた。その向こうで防水シートに頭を入れうつ伏せでライフルスコープを覗いていた男がシートから顔を出しゆっくりとこちらを振り返る。
「やれやれ」
面倒くさそうに呟いて諦念に満ちた溜息を吐き、男は据え置き型のライフルから手を離して立ち上がると、静かに身構えた。
男のファイティングポーズを琴美は初めて見た気がした。ボクシングのそれに近いだろうか胸元で拳を握っている。
琴美も構えた。得物の代わりに手刀を作り、どこか敬意をこめながら、何とも言えず沸き起こる高揚感とは別に、どこか他人事のように内心で苦笑を滲ませる。
多くの軍の特殊部隊で格闘訓練は殆ど行われる事がない。それは単純に優先順位の問題だが、代わりに彼らは徹底的に人体構造を叩き込まれる。どこをどのようにすれば人は動けなくなるのか、をだ。そうしてワンアクションで敵を無力化する技術を磨く。隙だらけの自然体から、或いは工作員とバレてホールドアップした状態から、一撃で相手を仕止める技だ。
だから、こうしてファイティングポーズをとって対峙することは、至極稀といえた。互いに知れた者同士だからか。
先に動いたのは琴美だった。2歩で間合いを詰めて左足を軸に右足で蹴る。鞭のようにしならせた彼女の脚が男の側頭部を打つはずだった。艶やかな太股を惜しげもなく晒したそれに見とれるでもなく、男はバックステップの後同じく右の蹴りで応えてみせる。
互いに紙一重の寸止め。
自然口の端に漏れる笑み。
一歩退き再び互いに構える。
まとわりつく湿気のような雨を軽く拭って。
今度は男が攻撃に出た。
右ストレート、左ジャブ、それらを琴美は紙一重でかわしていく。次の右フックを左手でブロックしつつ力を流すように体を右へシフトして右中段蹴り。それを左腕で捌かれ、男の下段足払いが琴美の左膝を襲う。反射的に琴美は左足で地面を蹴って男の左側に右手で着地して難を逃れた。側転する琴美に男の右の拳が突き出される。合わせ目の向こうで大きく揺れる胸元に、いやその奥にある心臓を狙っているのか容赦ないパンチを、左手だけで回転により力をそらしながらかわして。牽制も兼ね左足着地と同時にその勢いを使って右足で上段に回し蹴る。流れるような攻撃に動じた風もなく男がバックステップで間合いをあけた。互いに息を吐く。
どれも決定打にはならない。
どちらも相手を無力化する研鑽されたワンアクションを持ち、それを繰り出す互いのタイミングを計っているからだ。それ故の読み合いが続く。
湿って太股にまとわりつくプリーツスカートを不快に感じながら繰り出される琴美の蹴りを男が避ければ、男の拳と蹴りを同じく軽やかなステップで琴美がかわしていく。
あたかも詰め将棋の如く互いに布石を打っては崩し合った。その一方で格闘技の決まった流れを辿りながら牽制し合うそれを楽しんでいる己の存在も感じずにはいられない。恐らくはそれも互いに。
とはいえ、ずっとこのままというわけにもいくまい。
先手は琴美。彼女の掌底が男の鳩尾を捉える。洗練された無駄のない動き。元より、実力差は歴然としてあった。
男は軽く咳こみながら2歩よろめくとファイティングポーズを解き、コールドウェポンを手にした。男の得物は2本のサバイバルナイフ。それを逆手に持ち替え構える。
刹那、男の目の色が変わったような気がした。楽しんでいる風のそれから本気のそれへ。
快感にも似た何かがその背をかけあがり琴美もクナイを手に構えた。汗なのか霧雨の滴なのかわからない何かが頬を伝い落ちる。
刹那。
キンと金属のぶつかり合う硬質な音が耳にいくつも連なった。速い。攻撃の度に男のスピードが増していく。防戦一方で後退しながらも壁際に追い込まれぬように琴美は弧を描くようにして男の攻撃を捌いて反撃の期を伺った。
一見圧されているように見えるが琴美には地の利と余裕があった。視界の片隅に“それ”が入る。琴美はよく蝶と蜂に喩えられる舞の如き柔らかな動きの中に閃く鋭さをもって男の焦燥を捌き、その場所へ誘導するように動いた。
ただ殺すだけなら簡単なことだ。重要なのは位置とタイミング。それから悟らせないこと。
男の攻撃をかわしながらカウントダウンを始める。
10秒前。
男の右からの攻撃を屈んで避ける。ワンテンポ遅れてなびく髪が数本切れた。反撃に出した右のクナイは男の左のナイフに弾かれる。金属がこすれる嫌な音が鼓膜を打った。その時には左のクナイが男の膝頭へ。それを避けるように男のバックステップ。
5…甲高い音が2つ連なる。
4…しなやかに霧雨を切り裂く蹴り。
3…すらりと伸びた脚先に水滴が跳ねる。
2…伏せた男にかかと落とし。
1…直線的な攻撃を避けるのは簡単だったろう、男がナイフを琴美に向ける。
0…琴美はただクナイを翳しただけだ。
突然向かいの真っ暗だったビルがイルミネーションで夜の街を華やかに彩った。毎夜同じ時間に行われるライトアップイベント。一昔前のネオンと違いLEDは強い光を放つ。それはクナイを反射し男の視界をほんの一瞬翻弄しただろうか。否。霧雨によって光は乱反射しそれほど強くはならない。だからこれは罠だ。視界を奪うと見せかけた。
男は琴美が殺気をこめて投げたクナイに反射的に足をそこへ出していた。じゃりっと軍靴が地面を滑る。いつの間にか出来ていた水たまりに足をとられたのだ。滑ったのは1cmもなかったに違いない。だが、男の意識の空白に琴美は飛び込んでいた。
「!?」
クナイが仰向けに倒れた男の腹に刺さっていた。そのクナイを握りしめたまま琴美は男の蒼ざめた顔を覗き込む。
「優しいな、水嶋は」
「教官」
男はポケットからどす黒く汚れたクマのマスコットを取り出した。
「…俺は彼女には会えない。俺が逝くのは地獄だからな。だからお前にこれを」
苦笑を滲ませ血を吐く男の最期の言葉。琴美はそれを無言で受け取りクナイをゆっくりと横に動かした。腹を抉ったくらいでは人はすぐには死ねない。出血死までには相応の時間と苦痛を要する。だから横に引いて動脈を切ってやるのだ。
琴美は静かに立ち上がると屋上の端にそのままになったライフルのスコープを覗いた。カルヴァインの英雄殿は生きている。そのパーティー会場でご満悦のようだ。
耳元に手をやった。イヤフォンマイクのチャンネルを開く。
「任務完了しました」
「ご苦労。すぐに処理班を向かわせる」
彼らの死体をそのままその場に残して琴美は夜の闇に身を投じた。
▼
翌日、報告書の提出に訪れた琴美は男をテロリストと呼ぶ上司に、手を挙げて発言の許しを請うた。
「一つだけ訂正をよろしいでしょうか」
「何だ?」
「彼が行おうとしていたのはテロ行為ではありません」
「何?」
「ただの復讐です。そう、戦闘に巻き込まれた小さな女の子の敵討ち」
「…そうか」
「失礼します」
琴美は上官の執務室を出た。
廊下の窓の外には青空。カルヴァインの英雄の今日の予定を思い出す。ポケットから取り出したのは血塗れのクマのマスコット。そっと握りしめる。
カチリとスイッチが小さな音をたてた。
琴美はクマのマスコットを傍にあったダストボックスの中に放り投げると、その存在を忘れたように廊下を歩きだした。
「私は天国に逝けるとでも思ってくださるのですか、教官」
彼女の呟きを聞く者はない。
――何が正しくて、何が間違っているのか。
それを判じるのは自分ではない。世界はそれほど単純でもない。ただ、人は心を持っているというだけだ。
『速報です。たった今、HIビルで小規模な爆発がありカルヴァインの英雄……』
■END■
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