|
魔眼の封印
あの赤い瞳の少女は、確かに恐ろしい敵だった。恐ろしい敵を、フェイトが1人で引き受けていた。
その間、イオナが楽をしていたわけではない。
この敵たちを相手に戦い、切り抜け、力を消耗し続けてきたのだ。
皮膚を剥ぎ取った人間、のように見える。剥き出しの筋肉はしかし、外皮同然の強靭さを有しているようだ。
唇のない口元では、刃物のような牙が凶暴に輝いている。
そんな怪物たちが、一目では数を把握出来ないほど群れているのだ。
そして、あらゆる方向からフェイトに、イオナに、襲いかかる。
襲い来る者たちを、イオナは隻眼で見据えた。
フェイトと同じ、緑色の瞳。眼光を燃やしているのは、右側だけだ。左目は、黒いアイパッチで覆われている。
この少女が左目を解放した時、恐ろしい事が起こる。IO2日本支部で囁かれる、噂の1つだ。
今のところは左目を解放せず、イオナは左手で鞘を握り込んだ。
刀身を内包した鞘。
無銘の日本刀である。妖刀魔剣の類ではない、単なる数打ち物だ。
その鞘から、光が走り出した。
抜刀。
たおやかな五指が、しっかりと柄に絡みついている。それが、フェイトには辛うじて見えた。
少女の繊手が、細腕が、無銘とは言え重量のある日本刀を、軽々と抜き放ち、一閃させたのだ。
腕力の不足を、念動力で補っている。
フェイトがそんな分析をしている間に、怪物たちは薙ぎ払われていた。少なくとも12、3体が、真っ二つになっていた。
腕力で振るわれる刃では有り得ない殺戮をもたらす、念動力の斬撃。
上下に両断された怪物たちが、断面から様々なものをぶちまけ、倒れてゆく。
その様を眺めながら、フェイトは弱々しく上体を起こした。
立ち上がれぬフェイトを背後に庇いながら、イオナが剣を構える。優美な反り身の片刃は、目に見えぬ念動力の波動を帯びている。
「お兄様は……立てないのか? ならば這いずって逃げてもらうしかないな」
「何を……言ってる……!」
呻きながら辛うじて、フェイトは立ち上がっていた。
「戦う余力があるうちに逃げろ! 俺を守るために力を消耗するな!」
「逃げなければならないのは、私ではなくお兄様の方だ。何故なら……お兄様は、1人しかいないのだから」
豊かなポニーテールが、ふんわりと揺れる。
たおやかな細腕が、重い抜き身を一閃させていた。
「私は、あと3人いる。1人目が、ここで失われるだけだ」
一閃した刃から、念動力の波動が迸る。
怪物たちが数体まとめて、斜めに裂けた。
「I02、03、06……彼女たちが、私の記憶も戦闘データも、全て受け継いでくれる。問題はない」
「あの3人が……」
フェイトの妹たち、とも呼べる少女が7人いた。
うちI01、04、05の3体は、虚無の境界へと走った。
残る4名はIO2の管理下に置かれたわけだが、エージェントとして動いているのはI07……イオナのみである。
他3人が現在どのような扱いを受けているのか、フェイトは知らない。知らされていない。
「3人とも、あれから意識が戻っていない。昏睡状態のまま、生命維持設備によって保存されている。私の、予備として」
「予備……だと……」
殺意に近い怒りが、燃え上がった。
それをフェイトは、辛うじて押さえ込んだ。
彼女たちを昏睡状態に陥らせたのは、自分である。
IO2日本支部は、非道な事など何もしていない。むしろ彼女たちの、生命を維持してくれているのだ。
黒い影が複数、イオナを襲った。
剥き出しの筋肉組織を躍動させながら、怪物が2体、いや3体。念動力の斬撃を、低く駆けてかいくぐり、あるいは跳躍して飛び越え、イオナに迫る。
肉食の猿を思わせる、剽悍な動き。
木偶人形のように斬殺されていた怪物たちの身体能力が、いきなり向上したとしか思えなかった。
(こいつら……!)
フェイトは息を呑んだ。
戦闘経験を全員で共有し、急速に能力を成長させてゆく怪物の群れ。
同じようなものたちを、自分は知っている。
だが、そんな事があるのか。否、あるはずがない。断じて、あってはならない。
フェイトがそんな事を思っている間に、3体の怪物は牙を剥き、凶暴な勢いでイオナに群がっていた。
様々なものが、飛び散った。
少女の細身が、ズタズタに食いちぎられた。一瞬、そう見えた。
飛び散ったのは、怪物たちの肉片だった。細切れにされている。その肉片1つ1つに、滑らかな断面が残っている。
「お兄様も知っての通り……私の斬撃は、銃弾の距離まで届く」
念動力をまとう剣をゆらりと構えながら、イオナは微笑した。
隻眼の美貌が、赤黒く汚れている。返り血か、自身の流血かは、判然としない。
両方だ、とフェイトは思った。
「だからと言って、間合いを詰められたら何も出来ない……わけではないよ。あの師範殿に徹底的に叩き込まれたのは、むしろ接近戦の剣技でな」
イオナの全身あちこちで、黒いスーツが裂けている。
白い肌に痛々しく血の滲んでいる様が、二の腕で、脇腹や太股で、露わになっていた。
怪物たちの、牙によるものか、爪によるものか。
とにかく。念動力の斬撃をもかわすほどに敏捷性を上げた怪物の群れが、さほど減った様子もなく、周囲いたる所で牙を剥いている。
「要するに、この場は私1人で大丈夫という事さ」
「……俺にはそうは思えないんだよ、イオナ」
フェイトは拳銃を構えた。辛うじて、構える事は出来る。撃つ事も出来る。残弾数には、まだ余裕がある。
余裕がないのは、フェイトの力の残量だ。構えた拳銃が、重い。
赤い瞳の少女との戦いで、全ての力を使い果たしてしまった。
もはや逃げる力も残っていない、とフェイトは思った。
「1つ言っておくぞ、イオナ……お前に、2人目3人目なんていない」
両眼が緑色に燃え上がるのを、フェイトは止められなかった。
「彼女たちは、彼女たちだ。お前の予備なんかじゃあない。あんまり失礼な事、言うなよな」
「…………」
イオナが、何か呟いた。
フェイトは耳を疑った。そして激昂した。
「おい、ふざけてるのか! こんな時に!」
「こういう危機的状況になると、つい口に出てしまうんだよ……ふふ、美味しくなるための呪文……」
血まみれの美貌で微笑みながら、イオナは左手で顔面に触れた。
顔の左半分を走るアイパッチに、綺麗な指先を引っ掛けた。
「それが、よく効いていたのかも知れないな……あのケーキセット、美味しかったよ」
「イオナ……何、しようとしてる?」
訊くまでもない事だった。イオナは今、アイパッチを外そうとしている。
左目を、解放しようとしている。
「これを外すと……私は、自分で自分を止められなくなる。実戦で、試した事はないんだが」
血まみれの美貌が、激しいエメラルドグリーンに染まった。
外れかけたアイパッチから、眼光が溢れ出している。
「やめろ……」
フェイトは確信した。
自分で自分を止められなくなる。それは、本当の事であろう。
全ての力を振り絞りきるまで、イオナは止まらなくなる。気力のみならず、生命の力をも消耗し尽くすまで。
死ぬまで、イオナは止まらなくなる。
「うっかり、お兄様を殺してしまうかも知れない……だから、どうしても逃げて欲しいんだが」
やめろ、とフェイトが叫ぼうとした、その時。
怪物たちが、一斉に襲いかかって来た。凶暴な、肉食の猿の動きで。
この者たちを、やはり自分は知っている。
そんな相手との戦いで、イオナが死に向かおうとしている。
自分の中で、何かが爆ぜようとしているのを、フェイトは感じた。自覚しても、止められなかった。
自分もまた、死ぬまで力を振り絞るしかない。
戦いは、ここで終わりではないのだ。この後、ドゥームズ・カルト本拠地に攻撃を仕掛けなければならない。
この後の戦いなど、しかしフェイトの頭からは綺麗に消えて失せた。
(こいつらとの、戦いで……イオナが……死ぬ……)
それだけが、フェイトの頭に満ちた。
「ちぃーッス。お掃除、入りまーす」
無愛想な、女の声が聞こえた。
餓えた猿の如く疾駆し、跳躍しようとしていた怪物たちが、ことごとく転倒した。
油のようなものが大量に、ぶちまけられていた。清掃用のワックス、であろうか。
そこへ、吸い殻になりかけた煙草が放り込まれる。
炎が、轟音を立てて生じ、渦巻いた。爆発にも等しい炎上。
怪物たちが、片っ端から灰に変わってゆく。
アイパッチを外そうとする動きを硬直させながら、イオナが呆然としている。
呆然としているのは、フェイトも同じだ。
「あんた……」
「焼却炉まで運んでくの、めんどいからな」
新しい煙草を咥えながら、その女性は言った。
一見すると、この工場に勤める清掃作業員である。清掃用の作業服が、恐ろしく似合っている。
以前、フェイトとは1度だけ、戦闘行動を共にした。それだけの間柄だ。
なのに何故、助けに来てくれたのか。
そんな事を訊いている場合では、なさそうであった。
焼殺を免れた怪物たちが、爆炎を迂回し、襲いかかって来る。
暴風のようなものが、飛び込んで来た。
怪物たちが、砕け散った。叩き潰され、引き裂かれている。
獣が1頭、暴れていた。
熊、であろうか。毛むくじゃらの、人型に近い体格をした猛獣。
その牙が、あるいは獣毛をまとう豪腕が、怪物たちを粉砕してゆく。
「貴方は……」
イオナが、隻眼を見開いた。
獣が、ニヤリと笑った。
「一撃喰らえば死んじまう身体で、無茶しやがんのは相変わらずみてえだな」
熊と言うより、狼か。大柄な狼男。ライカンスロープの類、であろう。
清掃員の女性が、ちらりとイオナを睨んだ。
「ははん、おめえだな? うちの研究所にカチ込んで来て殺しまくって、ハラワタやら死体やら大量にぶちまけて、片付けもしねえでコーヒー飲んで菓子食って帰っちまいやがったのは」
フェイトが、無様にも氷漬けにされ捕われてしまった時の話であろう。
「ったく、殺りっぱなしで掃除も出来ねえお嬢ちゃんがよ。おめえアレだろ、片付けられねえ女って奴だな。部屋、死ぬほど汚ねえだろ?」
そんな事を言いながら彼女は、軽くモップを動かした。
その柄尻が、襲いかかって来た怪物の眉間を突いた。
外傷のない怪物の屍が、1つ転がった。
それを踏みつけながら、彼女はさらに言う。
「お掃除の手本、見せてやっからよ。そこで大人しくしてな、汚部屋女ちゃん」
「私の部屋は汚れてなど……汚れるほど、物はない」
そんなイオナの言葉を聞かず、彼女は怪物たちに向かって踏み込み、一体のこめかみをモップの柄で突き砕いた。
フェイトは背後から、イオナの肩に手を置いた。
「……死に損ねたな。まあ、もう少し生きてみろよ」
「私は……」
「何度でも言うぞ。イオナは、1人しかいないんだ。今ここにいる1人が死んだら、終わりなんだぞ」
「私は……終わる場所を、得られなかったのだな」
ぽつりと、イオナが言う。そうしながら抜き身をゆらりと構え、助っ人2名が戦っている場へと、歩み入って行く。
「守られるのは性に合わない。私も戦う……生きて、この場を切り抜けるためにな」
「もっと美味しいケーキセット、食べさせてくれる店がある。変な呪文は必要ない」
声をかけながら、フェイトは背を向けた。
「連れてってやる。だから……死ぬなよ」
「お兄様……?」
怪訝そうな声を発しながら、イオナは抜き身を一閃させた。襲いかかった怪物たちが2体、3体、滑らかに切り刻まれて飛散する。
この場に自分は必要ない、とフェイトは思った。あの助っ人たちがいればイオナも、命を捨てるような戦い方はしないだろう。そんな必要もなく、この場は片付く。
フェイトが1人で片付けなければならない戦いがある。
ここにいる怪物たちの正体が、自分の思ったとおりのものであるならば。
ドゥームズ・カルト本拠地における戦いは、フェイトが誰の力も借りずに決着をつけねばならないものになるはずだ。
「こいつらを戦力として使うのは、許さないぞ……実存の神」
|
|
|