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<東京怪談ノベル(シングル)>


囚われの彫像
 耳が痛くなりそうなほどの静寂と、息が詰まりそうな闇の中で一人膝を抱えていたティレイラは、ふいに小さなくしゃみをした。それが人気のない夜の美術館の広々としたホールに想像以上に響き、思わず身をすくませて目をつぶる。数秒の間そうしていたあと、そろそろと目を開いて耳を澄まし、体を伸ばして周囲の様子をうかがうと、安堵したようにティレイラはほっと息をついた。
「どうやらまだ泥棒さんは来ていないみたいね」
 心の中でそうつぶやき、スカートの裾を整えて膝を抱え直す。
 閉館時間をとうに過ぎ、照明の落ちた部屋の中に物言わぬ美術品が誰に見られるでもなく整然と並んでいる様は、どこか奇妙で異質な光景だった。非常灯のぼんやりとした明かりが展示物のそれぞれの輪郭を浮かび上がらせ、魂を宿したかのような生々しさを象り、いっそう世界を見慣れぬ姿に変貌せしめている。まるで鑑賞する者とされる者が入れ替わり、自分の方が美術品たちに見られているような感覚さえ覚えるほどだ。
 空間転移の能力を持つティレイラは他の世界をいくつも見て来たが、これほど静かで暗く、生物以外のものが放つある種の存在感を感じる空間は初めてだった。ついでに言うと、これほど丁寧に掃除されているにもかかわらずどこか埃っぽさを感じる場所も初めてだ。
 そんなところへわざわざ赴き、夜の闇の中でティレイラが膝を抱えている理由は他でもない、美術品を盗み荒らす魔族の捕獲をこの美術館の館長に依頼されたからである。
 何でも数日前、別の美術館を営む知り合いから、この美術館が所蔵する彫像と対になる像が盗まれたと知らせがあったらしい。一般的にはあまり知られていないことだがそれは本来二体で一つの作品であり、金で作られていることもあって両方がそろえば美術的にも金銭的にも非常に価値が出ると言われているという。数ある美術品の中からその像だけが盗まれたという点から、おそらくその真価を知ってのことだろう。ならばもう一方も狙われるに違いない。
 そこで何とかそれを阻止し犯人を捕獲して欲しいと館長直々に依頼され、引き受けたのが彼女――ファルス・ティレイラだった。
 普通の泥棒なら警察の役目だが、話によれば犯人はどうやら人外の者――魔族であるという。ならばそういったことに精通した者に依頼するのが妥当だということで、ティレイラに声がかかったのだった。
 依頼の内容は配達業を主とするティレイラの領分を超えているようにも見えるが、それでも元気いっぱいに「私がきっと捕まえます!」と彼女が引き受けたのは、ひとえにその好奇心の強さによるところが大きい。美術館関係者がそろってその魔族の存在を恐れているという話も、「なんでも屋さん」を名乗る彼女の背を押した。
 そんなわけでティレイラは美術館に張り込み、噂の魔族がやって来るのをじっと待っている最中なのだった。
 依頼を受けてすでに二日は何事もなく過ぎている。来るとしたらそろそろではないかという予感がティレイラにはあった。予知したわけではないが、不思議とそういう予感は当たるものだ。
 守るべき像はティレイラが身を潜めている壁際の柱からよく見えた。一つしかない部屋の入り口も近く、何者かが来ればすぐに判るはずだ。
 しかし何の前触れもなく、唐突に部屋の中央部――件の像があるあたりを照らしている非常灯の明かりが不自然に歪み、空間が圧縮されるような感覚が一瞬ティレイラの五感を襲った。その感覚には馴染みがある。ティレイラ自身が異空間転移をする時に感じるものだ。
 それに気付いた瞬間、部屋の中に女の姿をした魔族が忽然と現れ、その「魔族」と言わしめるに相応しい長い爪で像を奪おうと手を伸ばした。
「ダメ!」
 ティレイラはとっさにそう叫ぶと柱の陰から飛び出し、ためらうことなく魔族の下へと駆け寄る。
 しかし腕が届くすんでのところで身をかわされ、ティレイラの手はむなしく空を切った。
「おやおや、私のこの姿に驚かないなんて、なかなか勇敢なお嬢さんね。でも残念、これは頂いていくわ」
 バランスを崩し、冷たい大理石の床に膝をついたティレイラに女盗賊は愉快そうに言って金色の像に口付ける。そして踵を返すと部屋の出入り口の方へ駆け出した。
 おそらく空間転移をするにはある程度の集中が必要なのだろう。あるいはそんなものに頼らずともティレイラから逃げ切れると思ったのかもしれない。
 どちらにせよ――たとえ空間転移をされたとしても依頼を受けた以上見逃がす気のないティレイラは、普段は隠してある背中の翼を広げ、展示物に当たらないようにそれらの間を器用に飛んで矢のような勢いで女魔族の背に渾身の体当りをした。
 双方の体がぶつかる音と共に短い悲鳴が上がり、長い爪に囚われていた像が重い音を立てて床に転がる。それを追って女魔族が体をひねり腕を伸ばしたが、その上に馬乗りになるようにしてティレイラが飛び付き、押さえ込んだ。ティレイラがいかに小柄とはいえ、その体勢では彼女の方が有利だった。
「くっ、どきなさい!」
「ダメです! 絶対に逃がしませんよ。大人しく捕まって下さい」
 かわいらしい顔を精一杯きりりと引き締めてティレイラが言うと、相手は観念したかのようにがくりと頭を垂れた。ティレイラはそれを見て「やったあ」と喜びの声を上げる。それから慎重に片手だけで携帯電話をポケットから取り出すと、依頼人である館長に急いで電話をかけた。
「あ、私です。はい、ついにやりました! ちゃんと捕まえましたよ! これでもう安心です」
「あら、それはどうかしら?」
 嬉々として報告するティレイラの下から、魔族の笑いを含んだ不気味な声が響く。
 はっとしてティレイラは視線を落としたがそれはすでに遅く、女魔族はどこかに隠し持っていた闇よりも暗く混沌とした色の球をティレイラの前に突き付けた。その瞬間、漆黒が視界いっぱいに広がり、ティレイラを飲み込んだ。
「捕まるのはあなたの方よ、お嬢さん」
「そんな……!」
 またたきする間もなく、ティレイラは一瞬のうちに黒く丸い膜の中に囚われてしまっていた。
 少女を一人すっぽりと包んでしまうほど大きな黒い球――それは魔法でできた封印のための膜だった。触れると柔らかいのに拒むような力でティレイラの手を押し返し、逆にまとわりつくかのように内側に揺れる。
 その黒い壁の向こう側に見える女魔族が身を起こし、妖しげに微笑みながら長い爪と手を伸ばした。
 すると魔法の膜は彼女から発せられた魔力に反応するように一度震え、風船が縮むように急速に小さくなっていく。
「いや、出して!」
 ティレイラは楽しそうに笑う魔族の声を聞きながら必死に中から出ようと膜を叩いたが、手応えがないばかりかいっそう空間は圧縮され、彼女を飲み込もうとするかのように混沌色の壁が迫って来た。その向こうに見える魔族の微笑が冷たく歪む。
 とうとう球が人一人分より小さくなっても、ティレイラはあきらめず中で懸命にもがき続けた。
 しかし、翼を広げ手足や尻尾も使って全力で押してみるが、膜は一向に破れる気配がない。
 その様子を面白そうに眺めながら女魔族はさらに魔力を込めた。
 すると魔法の膜が再び収縮し、それに触れていたティレイラの翼が球の表面にうっすらと浮かび上がる。そしてついにティレイラを完全に封じ込めようと、黒い魔法の膜は彼女の全身をぴったりと覆うようにして締めつけ始めた。球はもはや球状ではなくなり、ティレイラの体にまとわりついて手足や尻尾にいたるまで浮き彫りにしていく。
 その圧迫感や閉塞感、そして息苦しさから涙まじりの喘ぎ声を上げながらティレイラは必死にもがいた。全身にからみつく膜は恐怖となってティレイラの意識を黒く蝕んでいく。
 そんなティレイラをぎゅっと抱きしめるように、女魔族がそれを胸元へ引き寄せた――その瞬間、魔法の膜は石のように硬化し、ティレイラを黒曜石のような輝きを放つ像へと変えてしまったのだった。
「これは上出来だわ。やっぱり芸術品には魂がないとね」
 女魔族はそうつぶやいて指を伸ばし、ティレイラの華奢な首筋をうっとりとした様子でなぞる。その冷たく滑らかな感触は実に心地良く、どこか艶っぽくも見えるティレイラの苦しげな表情はどんな美術品よりも真に迫り、女魔族の心をとらえた。
「金の像が目当てで来たけど、あなたが私の物になるならそっちは返してあげてもいいわよ?」
 彼女はティレイラに顔を寄せ、頬ずりしながらそう囁いた。吐息がかかるほど近く、お互いの温度を感じられるほどの距離だというのにティレイラの体は冷たく硬く、言葉を発しようにも声はすべて闇にのまれて届かない。
 床に落ちた携帯電話からかすかに聞こえる呼び声にも応えられず、ティレイラはなすすべもないまま、元に戻して、と心の中で懇願するしかなかった。