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水泡
水音が響いた。
どこまでも透明で混じりけのない水音。
“みなも”が目を覚ますと、そこは海だった。
薄く開いた瞼の間から差し込む陽光。
灰色の身体を横たえた大理石の床を洗う浅い波。
肌を撫でる、水の感触。
“みなも”――“撃たれた狼”は、海の底に広がる波打ち際で、目を覚ました。
天井から斜めに落ちる光の柱が、彼女の短い影を黒く照らす。
水面が海底に映り、光の網は水の流れにうねる。
寄せては返すさざ波が、みなもの身体を避けるように流れていく。
床と頬の隙間へ染み込んだぬるい海水がくすくすと音を立てた。
水にぬれ艶めく灰の毛皮はじっとりと湿り、皮膚にへばりついていた。
狼が顔を上げる。濡れた瞳は美しく濃い青で、その端から涙のように一筋の雫が落ちた。
いくつかの水泡が薄く開いた口の端から零れ昇っていく。
ぴんと立てられた二つの耳が、あらゆる水音を拾っていた。
人間よりも早く荒い呼吸が、牙の隙間から洩れている。
老いた狼は前足で身体を支え、後ろ足をしっかり地面へ付け、そっと立ちあがった。
(あたしは――)
ふっと息をつく。
(“あたし”は、何をしていたのだろう?)
四肢が床を踏みしめている。
足の裏から、冷たい大理石と波の感覚が伝わってくる。
さきほどまでは、森に居たはずだ。
湿った土の感覚がまだ残っている。
森を覆う靄の冷たさも、差し込む陽の温かさも、夢だったとは思えない。
夢のような現実か、現実味のある夢か。
花畑の真ん中に立つ少女の姿が浮かぶ。
そこに生える花の種類、少女の表情……全てが記憶の中で滲み歪んでいた。
はたして、“この場所”は森の一部なのか。
あるいは、意識を失っている間に運ばれてきたのか。
すべての思考はふわふわと、答えに辿りつこうとするほど淡く緩く消えていく。
“そこ”には本棚が並んでいた。
あの童話を見つけた図書館に似ていた。
いくつもの背表紙、古い皮脂と紙の香り。
しかしここはその図書館ではない。感覚がそう告げていた。
『ここは何処なのか』
という問いは、彼女の中には生まれない。
『ここは、ここだ。あたしはここに辿りついた、それだけ』
風が吹いた。
足元に波紋がたつ。
水面は青空を映し、いくつか浮かぶ白い雲は狼の足踏みに歪んだ。
本棚は、先ほどと一切変わらずそこに立っていた。
古書達は濡れた様子もなく、沈黙している。
みなもはぼんやりとその背を眺めた。
もうひとつの風が彼女の鼻をかすめ、遠い水平線まで飛んでいった。
「涼しい」
ぽつりとつぶやく。
つま先で鏡の空を揺らしてみると、小さな芽がぽつぽつと生えてくる。
「すごい。どんな風もこの耳には聞こえる」
言葉のひとつひとつが花を芽吹かせ、甘い香りを辺りへ撒き散らす。
かつての水面は芝生に覆われ、波は緑へ染まっていく。
彼女の耳にはあらゆる風の音が響いていた。
遠くで柳を揺らす風、黒い雲を運ぶ風、船の帆を膨らます風。
あらゆる景色と、あらゆる物語……。
彼女は花畑の中を歩いた。
幾重にも並ぶ本棚の隙間を縫うように、本を探す少女のように、歩いた。
花々は黒い足に踏まれ潰れ、彼女が過ぎたあとにはいくつかの花弁を落としながら立ちあがる。
足の裏に感じる花びらの感触。
ふと、ここへ来る数瞬前のことを思い出す。
たしか、撃たれたはずだった。
しかし痛みは無い。
「あれは夢?」
確かに自分は撃たれた。
しかし傷の熱は無い。
「……」
足元の花を見つめる。
骨ばり老いた脚を眺める。
――折れた花はこんなにも足にまとわりつくものだったか?
――先ほどの水面もそうだ。水はこんなにも冷たさをもたらしたか?
足が沈んでいくのをじっと待つ。
潰された花達の間から水がしみてくる。
水は透明で、空と、みなもの姿を映し出していた。
そこに見える“自分”が、なぜかとても懐かしく見えた。
透明な空。そこを渡る風。
足元の花畑は白く解け、厚い綿の雲となって、遥か遠い草原へ丸い影を落としている。
違和感があった。
体中にざわざわと、温度のある違和感がまとわりついていた。
雲に食い込んだ足をなおも眺める。
たしかに足は雲の水分と冷たさを感じ取っていて、しかしその感覚はどこか遠いところからやってきている。
毛皮が邪魔だと、思った。
鮮やかな感覚をもたらすこの皮膚は、自分のものではないと。
自分のやわらかな腕を、この毛皮が傷付けている気がしていた。
これが自分だ。
これが自分なのだろうか。
浮き上がるいくつもの違和感へ答えを出さずに、彼女は一歩踏み出した。
広がる草原には木の影もない。
足元の空は頭上へ落ち、天井に収まり波打っている。
みなもは二本の足で草原に立っていた。
風に揺れる草が足を撫でる感覚を味わっていた。
髪が揺れる。風が頬を撫でる。
髪先が毛皮にひっかかってほろほろ崩れる。
「あたしは」
図書館の静まり返った空気。
遠い街の喧騒。
「あたしには、」
言葉はそこで閊えた。
目の前に、“撃たれた狼”が居たのだ。
彼女はやせ細った身体から鈍く血を垂らしながらみなもを見つめていた。
床はガラス。壁は鏡。天井だけは青い空。
狼は鏡の向こうに居た。
鏡に映る“人間のみなも”に背を向け、“こちら側のみなも”を静かに見据えていた。
狼は低く唸った。あの時と似たしわがれた鳴き声だった。
それは間違いなく獣の声で、みなもの耳に言葉として届くことはなかった。
狼は確かに老いていて、しかし目だけはぎらぎらと光輝き、生きる力に燃えていた。
そこに敵意はなく、しかし心を許されてはいなく、一歩近づけば牙を剥きそうだ。
みなもはじっと彼女の目を見つめていた。
彼女もみなもを見ていた。
足にこびりついていた血が、床の水に溶け消えていく。
「もう、いいのかな」
みなもが目を凝らす。
唸り声に怯えながらも、ひとつ足を踏み出す。
「狼さん。狼さんがここに居るってことは、あたしはもう、戻っていいってこと?」
黄色がかった牙の間から零れる血と唸り声。
鏡には、自分と、狼が映っている。
二人はみなもを見つめていて、みなもは鏡のこちら側で、彼らを見つめていた。
(影が、)
目を瞬かせる。
波立つ水面の上に落ちる彼らの影は、重なり合い一つの影となって伸びている。
(そうか)
もう二人とも“あたし”に戻ったのだ。
頷いたのは彼女だったか、それとも映る彼女だったのだろうか。
背後に並ぶ本棚。
深緑に囲まれ、空色の海を背に無言で立つ、彼女の物語達。
美しい藍色の本の中に一つ、漆黒の背表紙が挟まっている。
題字のない童話。
終わらない童話。
天井の水面から、陽光が差し込んでいる。
いくつも昇る水泡が、それを幾度も歪ませる。
大理石の床の上で、狼は眠っていた。
巻かれた包帯は、汚れ一つない白で彼女の傷を永遠に隠す。
彼女の命はまだ、終わらないようだ。
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