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恋心、萌ゆる恋の芽
1.
「数値に異常はなし。体調、体温、気分、いずれも良好。順調に回復していると言えます」
IO2の医療施設員に説明されながら、茂枝萌(しげえだ・もえ)はイアル・ミラールに関する精密検査の検査結果に目を通した。
異常なし、異常なし‥‥すべての結果はオールグリーン。けれど萌の顔は冴えない。
「解呪は?」
そう訊いた萌に、施設員は淡々と答える。
「‥‥今のところIO2の知識では残念ながら。若干の抑止は可能ですが、いつどこでそれが現れるかはわからないというのが結論です。もちろん、これらについては現在進行形で解決方法を模索中です」
模索中‥‥か。
それが何年かかるものなのか、萌にもわからない。明日わかるかもしれない。もしくは萌が生きているうちにはわからないのかもしれない。
イアルの中にある魔女が蒔いた野生化と魔物化の種。魔女にしか解けぬであろう呪い。操られていたとはいえ魔女の手下として働いていたイアルにはそれだけ魔女にとって価値がある。その呪いはイアルにかけられた足かせであり、魔女に気に入られた証でもあった。
IO2はそこに目をつけた。
イアルを追って魔女は来る。IO2はその魔女結社を追う。必然的にイアルが手元にあれば魔女から接触してくるはずだと。
『そんな危険な真似をさせるつもりですか!?』
萌は異を唱えたが、IO2の方針は覆らなかった。
『魔女を捕まえて調べれば解呪の仕方もわかるかもしれない。それに、魔女の手先として悪事を働いてきたイアル・ミラールの罪を不問にすると言っているのだ。そう悪い話でもないだろう?』
魔女との縁を断ち切りさらに今までの罪に目を瞑る方が利口だ、と。萌はそれに反論できなかった。
「そうだ、茂枝さん。イアルがとても気にしていることがあるので話を聞いてあげてください」
萌の思考を遮るように、施設員は困った顔でそう言った。
「? 気にしていること?」
施設員はそれ以上何も言わず、イアル本人から聞くようにと言われた。萌はそれに従った。
イアルは萌の部屋のベッドに腰掛けていた。
「イアル? どうかしたの?」
萌がイアルに声を掛けると、イアルは振り向いた。なぜか泣きそうな顔だった。
「あの‥‥わたし、臭くない? 洗っても洗っても匂いも汚れも落ちないの」
イアルは長袖を着ていた。そして、その袖をまくると苔むした肌の一部が見えた。
「気持ち悪いわよね‥‥どうしたらいいのかしら」
肌をさすりながら、イアルは不安そうな顔で床を見つめる。
そんなこと‥‥と一蹴したかった萌だが、確かに臭い。そして、苔むした腕を否定することもできなかった。
「‥‥そうだ! ならこうしよう」
萌はイアルのために一計を案じた。それは‥‥
2.
「これはどう? えっと‥‥ローズの香り? お風呂に入れるといい香りが続くんだって」
雑貨屋に並ぶ色とりどりの入浴剤をひとつひとつ手に取りながら萌はイアルの手を引く。
「お風呂に? でも‥‥」
「あ、こっちのカーディガンはどうかな? イアルに似合うと思うけど」
「レースの長袖‥‥これなら苔も隠れるかしら?」
たくさん並ぶ店の先に並んだ商品を眺めながら、イアルと萌は楽しい時間を過ごす。
ここはとある避暑地に建てられたショッピングプラザ。別荘に訪れるお客や温泉への湯治客などが入り混じる。そんな場所に、萌はイアルを連れ出した。もちろん、IO2からの許可は下りている。
たくさんの客。様々な事情を持ち合わせ、たまたまそこに居合わせすれ違う人々。
そんな中でイアルの存在も異様ではなく、ただの1人の若い女性として受け入れられる環境だった。
誰もイアルが苔むしていることを気にせず、またイアルが少々の異臭を放っていることも気にしないでいてくれる。
イアルはそんな中で少しずつ萌とこのリゾートの地での時間を楽しむ余裕が出てきた。
「萌には‥‥これなんか似合いそうだわ」
「そ、そうかな? イアルがそう言うなら着てみようかな」
美しいドレスを見て、芳しい花の香りを嗅ぎ、ショッピングプラザに沿う様に広がる湖のほとりで萌とじゃれ合いながら話をする。
「いい匂いがするね。クレープ食べようか」
美味しそうな匂いに釣られて、青い空の下で萌とクレープを頬張る。
「‥‥ブルーベリーも美味しそう」
「イアルのストロベリーと交換なら一口あげるよ」
「‥‥あっちのチョコレートも美味しそうだわ」
「これ食べたら買いに行こう」
ショッピングとおしゃべり、そしてスウィーツを楽しみながら普通の女の子同士のデートを楽しむ。そうして夜まで思う存分ショッピングに興じた後で、2人は高原ホテルの貸切風呂で体を休める。
ジャグジー付きのお風呂で2人は体を洗いっこし、ゆったりと湯船につかる。泡の水流に身を任せると、今日のショッピングの疲れも一緒に吹っ飛んでいくようだ。
「気持ちいいね」
萌がそう言うと、髪を洗っていたイアルが微笑む。
「苔も少し落ちたみたい。匂いはどうかしら? 少しは匂わなくなったかしら?」
「うん、少しずつ綺麗になってる。ここの温泉がイアルの肌に合ったんだね。匂いもだいぶ薄らいだし‥‥来たかいがあったね」
萌が答えると、イアルは嬉しそうに肌を撫でた。
3.
星空が広がり、静かな高原の夜が訪れた。
イアルと萌はダブルベッドに2人で寝転ぶ。聞こえるのはお互いの声だけ。クスクスと小さく笑ってもそれはお互いの声に響く。
ふかふかのベッドに体を横たえて、萌は思いっきり伸びをする。
「明日は何がしたい? ハーブ摘みもできるみたいだよ? それとも特設ステージのパフォーマンスでも見に行く?」
萌がそう訊くと、少し考えた後でイアルは答える。
「森を散策してみたいわ。今日買ったお洋服を着て一緒に散歩に行かない?」
「‥‥私も着るの?」
「そうよ、とっても似合うと思うもの。一緒に来て歩きたいわ」
ニコニコと笑うイアルに萌は「‥‥わかったよ」と諦めたように言った。
イアルが折角萌に選んでくれた服だから、その願いくらいは叶えてもいいだろう。
「‥‥とてもいい気分だわ。こんな気持ちでいられるのも、萌のおかげ。こんな見ず知らずのわたしにここまでしてくれて‥‥ありがとう」
花がほころぶように、イアルは改めて言った。萌はそのイアルの笑顔に複雑そうな表情を一瞬見せたが、すぐに「‥‥うん」といつもの顔になった。
「明日のために早く寝なきゃね。萌、おやすみなさい」
「う‥‥うん。おやすみ」
2人は寄り添ったまま、ダブルベッドで眠りにつく。
けれど、萌は眠れなかった。ドキドキと胸が高ぶっていた。こんなに胸が痛いのは久しぶりだった。
イアルの鼓動が聞こえる。寝息がすぐそばにある。イアルはここに生きている。
初めて、イアルを見た日を思い出していた。魔女の秘密結社で出会ったあの日よりも、もっとずっと‥‥昔の記憶。
イアルを初めてみたのはイアルが『裸足の王女』と呼ばれる船首像として飾られていた時だった。長い間海水や風雨にさらされ、汚れ放題、苔むし放題だったイアルの像。そのイアルを取り付けた船が萌の偵察任務の対象だった。
「なんて悲しそうで‥‥なんて綺麗なんだろう」
それがイアルを見た萌の最初の感想だった。
悪臭を放つイアルに萌は吸い寄せられた。悪臭の中にある甘い香りが、萌の中の何かを掻きたてた。思わず口づけしようとして、ようやく理性が働いた。
「ただの石像にキスなんて変態じみた事を‥‥」
けれど、その時キスしなかったことをずっと悔やんでいた。それは萌の中の小さな感情の芽生え。
萌は‥‥イアルに恋をした。
「イアル‥‥ごめんなさい。私、あなたのことをずっと前から知ってた。ずっと前から私、あなたを好きだった。あなたにずっと見てほしかった。あなたに名前を呼ばれたかった。私‥‥あなたと‥‥」
萌は眠っている筈のイアルの唇にキスをする。柔らかな唇。
イアルの唇に触れた途端に、萌は正気に戻る。
こんなことしたら、イアルに嫌われてしまうかもしれないのに‥‥!
慌てて体を離そうとした萌の顔を、白いイアルの手が包む。
「いかないで、萌‥‥」
「イアル‥‥」
イアルの唇が、萌の唇にゆっくりと重なる。それはイアルが萌を受け入れた証。
柔らかく繊細な手が絡みつく。真っ暗な部屋の中で、イアルと萌の息遣いだけが聞こえる。
「イアル‥‥好き‥‥大好き‥‥!」
何度でも繰り返されるその言葉が、イアルに向けられ、その度にイアルはキスの雨を降らせる。
「萌、ありがとう‥‥わたしも‥‥」
衣擦れの音と、押し殺した声が響く部屋の中。
その日、確かに萌の恋は実ったのだった‥‥。
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