コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


祈り〜怪〜


 中東カルヴァイン。
 テロによる内戦の続くその地の、調査のために訪れたその食堂で彼は一人の女の子と出会った。目深に被ったフードの奥から覗く黒目がちの大きな目が印象的な女の子だった。
 その女の子は母親と楽しそうに食事をしていた。食べる事に夢中なのか母親との話に夢中なのか、テーブルの脇に置いていたクマのマスコットを落としてしまった事にも気づかぬほどだ。
 だから、それを拾ってやると女の子は屈託なく笑って言った。
「ありがとう、お兄さん」
 そんな女の子の頭を彼は優しく撫でてやった。
 刹那、女の子の表情が驚愕に歪んだのだが、それに彼が気づくことはなかった。
「どういたしまして」
 と、笑みを返しただけだ。
 中東では子どもの頭を撫でてはならない。子どもの頭上には精霊が宿っているからだ。だが彼はその事を知らなかった。
 それは至極当たり前であったのだが彼からすれば突然の思いもよらぬ事だったに違いない。
 母親は立ち上がると彼に向けて怒鳴りつけた。
 彼には、早口でまくし立てられる母親の、彼にとっては異国の言葉を殆ど聞き取ることが出来なかった。ただ罵られているという事だけはその語感から感じとれた。
 母親が怒り狂う理由が彼にはわからなかった。また、わかろうともしなかったし、わかりたいとも思わなかった。ただ、小うるさい蠅を払いのけるかのような無造作さで、彼は拳銃の引き金を引いただけだった。
 その一事が彼を変えた。


 彼は3ヶ月後、カルヴァインの英雄と呼ばれる事になる。



 ▼



 女の子の頭上で女の子の成長を見守っていたはずの精霊はカルヴァインの英雄によって穢れ、黒く染まり、それは図らずも肉体を失った女の子の魂と融合して悪霊の種をそのクマのマスコットに宿した。
 そしてその種は一人の男の手によって持ち込まれた東京という怪異の街で静かに芽吹くのだった。



 ▽



 半年後――東京。

 琴美はビルの屋上の階に立ち真っ黒な闇を見下ろした。
 イルミネーションイベントの行われている大通りを挟んだ向かいのビルとは反対側、人気もなく車通りもなく街灯も少ない裏通りの闇だ。任務を終えた背後を振り返ることなく彼女は体を傾けそちらへ身を投じる。重力を感じながら壁を走り、時折、スピードを殺すように蹴りあげては危なげなく地上へ降り立ってみせた。
 霧雨に重くなった髪を鬱陶しげに掻き上げ走り出すでもなく進む。
 少ない街灯が彼女の姿をぼんやりと浮かび上がらせた。長い睫の下の黒い瞳はしっかりと闇の中を捉えて離さず、肩口から覗く白い腕や、和服のように合わせた胸元から見える豊艶な胸には、長く濡れた黒い髪をはりつかせ、何とも艶めかしい雰囲気を醸し出していた。編み上げで膝まであるロングブーツとミニのプリーツスカートの間から覗くしなやかな太腿には、やはり雨がまとわりつき、ベルトとそこに取り付けられた彼女の得物を妖しく光らせていた。
 再び彼女の姿が闇に隠れる。それを街灯の数だけ繰り返して程なく彼女はその場所で足を止めた。
 路地裏にある公園。遊具はなく周囲を囲むように植えられた桜の木が邪魔をして通りから中はよく見えない。公園の隅に3on3のコートがあり、中央には噴水の前。
「私に何かご用かしら?」
 琴美はどこにともなく声をかけた。
 自分にぴったりとくっついてくる気配を感じたからだ。屋上から、ここまで。
『別に』
 と声がした。女の子の声だ。琴美が声の方を振り返ると一人の女の子がそこにぼんやりと佇んでいた。フードを目深に被り、褐色の肌に黒目がちの瞳、そばかすを付けた女の子は雨も弾かずホログラムのように実体もなくそこに浮いている。
 別に、と首を振った女の子の視線に気づいて琴美は自分の胃の辺りをそっと撫でた。帯と上着の間に黒く汚れたクマのマスコットが入っている。
「そう」
 琴美はどこか困ったように応えた。“それ”を捨てるのは簡単だ。そうすれば女の子につきまとわれる事はなくなるだろう。いや、そうではないか。はてさて女の子は自らの仇を討とうとした男の行く末をどう思っているのやら。
 琴美の困惑に女の子は気づいているのかいないのか。
『お兄さんは地獄に行かないよ』
 くすくすと笑って女の子は言った。
『だって、お兄さんが行くのは天国だから』
 空を抱くように両手を広げてみせる。何となく誘われるように琴美も空を見上げた。霧のような雨と分厚い雲が覆うだけの空を。
『お兄さんが何もしなくても、あの男の寿命は決まっていたのにね』
 女の子はやれやれとでもいう風に肩を竦めて、それから続けた。
『だから、わたしが連れて行くの』
 子ども特有の甲高い声が『地獄へ』と低く低く響いた。言葉も内容も邪悪なものをはらんでいる筈なのに、女の子のそれはどうしようもなく邪気のない笑顔だ。
 琴美はため息を吐いた。
「それは止めないといけないわね」
『どうして?』
 不思議そうに首を傾げる女の子に琴美が応える。
「あなたを地獄に行かせるわけにはいかないからです」
 これは任務ではない。別に捨て置いても構わない。けれど。マスコットを託した教官の思いを考えると、やはり放っておく気にはなれなかった。何よりも“これ”を受け取ったのは自分なのだから。任務の後始末ということで手を打ちましょう、と独りごちる。
『どうして?』
 女の子の問い。
「どうしてでしょう?」
 琴美は笑みをこぼしてなぞなぞのように女の子に問い返した。
『わたしはもう戻れない。だからあの男はわたしが連れていくの』
 駄々をこねるように口をとがらせた女の子に琴美は穏やかにしかしきっぱりと言ってみせる。
「行かせません」
 どうやら教官を殺した琴美に向けて女の子は敵意も復讐心も抱いていないらしい。どこまでも無垢な心はどちらを向いているのか。
 ただ強く思う。少なくとも女の子が“戻れない”なんて事はない、と。
『邪魔するならいなくなっちゃえ』
 女の子が空に掲げた手を地面に振り下ろした。
「!?」
 その地面からぽこぽこと泡のようなものが浮き上がりそれが人の形を作始めたかと思えば見知った男の姿をとる。
 琴美は周囲を取り囲む男どもを睨みつけた。目算で20人以上はいるだろうか。琴美は嫌そうに呟いた。
「教官…」
 とはいえ、それは外見が同じなだけで本人であるはずがない。何故なら当の本人はビルの屋上で永遠の眠りについているからだ。そして、何より彼は唯一無二。こんなにたくさんいるわけがない。
 だからこれは女の子の霊が作り出した幻だ。皆、一様にファイティングポーズをとっている。先ほどビルの屋上での戦闘をトレスでもしているのか、だとしたら面倒だ。問題はその数と、それから……対霊仕様のクナイを用意してきていないこと。そもそもこれは任務外である。
 琴美は小さくため息を吐くと“気”を直接送り込めるよう右手のグローブをはずした。一方、左手はスカートの裾の奥に見え隠れするホルダーから3本のクナイを取る。
 自身を煽るように赤い唇の端を蠱惑的にあげて、琴美は先手必勝とばかりに地面を蹴った。その時には左手は何も握っていない。
 左右と後ろの男の額にそれぞれクナイを放って、自身は正面の男に目突きを食らわせていた。手加減の必要はなかった。怯んだ男の胸に掌底を、“気”を叩き込むと男は内側から弾けた。
 一方、視界の片隅にクナイを額で受けた男が頭を吹っ飛ばされ土くれに還っていくのが写る。どうやら物理攻撃が普通に効いてくれるらしい。
 ならば。
 左手の手首を返す。地面に刺さるクナイが回収用に取り付けられたワイヤーによって彼女の左手の中に戻ってくる。
 それも一瞬。
 キンッと金属がぶつかり合う甲高い音に削れた鉄粉が小さな火花を散らしたか。男どもが投げたナイフをクナイが弾き落とした時には、琴美は右から殴りかかってきた男の鼻っ柱に回し蹴りをお見舞いしていた。彼女の柔らかな筋肉はしなりエネルギーをため込み瞬間的に爆発し後ろの男ともども吹っ飛ばす。
 琴美は流れるような動きで、前から襲いかかる男の喉に指突き、後ろからくる男の鳩尾に後ろ蹴り、右からくる男の頸動脈に手刀を振り下ろし、左からくる男の腕を掴んで飛び関節を仕掛けていた。そのまま腕をもぎ取って、腕をなくした男の体を男の群に蹴りこむ。
 腕を投げ捨て再び琴美は左手にクナイを回収すると地面を蹴った。
 彼女の細く長く、程良く筋肉をまとった左足が地面を掴んだ。霧雨に濡れた太腿は遠くの街灯を妖しく淡く照り返している。その肉感的な足が彼女の上半身を支えていた。体軸を包む体幹の筋肉が捻転をスムーズに伝え、運動連鎖から生まれる上段回し蹴りが男の横っ面を変形させるほどの威力でもって炸裂すると、男は紙のように吹っ飛んだ。
 琴美は小さく息を吐く。
 いつしか高揚感が琴美を包みこんでいた。戦闘本能が呼び覚まされたのか全身に快感のようなものが走る。相手は魑魅魍魎と少し違う。面倒な妖術や力を使ってこない、純粋に肉弾戦のみを挑んでくる無数の敵だった。それを容赦なく叩きのめすことが出来るのだ。
 男どもは実物よりほんの少し遅かった。所詮、偽物という事だろう。とはいえ弱くはない。
 そこでもそこに歴然とある実力差。それをもって琴美は“任務のおまけ”を楽しんでいたのだ。
 レバーに中段蹴り、ハートに掌底を叩き込み、男の膝を蹴って飛び上がるとその顎にサマーソルトキック。
 まるで舞踏でも舞うような無駄のない動きで男どもを蹴散らしていく。
 クナイはそのスピードの中にあって正確に的を射った。
 男どもはいわばゴーレムのようなものだろうか。人外である彼らに人と同じ急所があるわけではない。だが、プライド故かそれとも別の何かか、琴美は正確にそれらを突いていた。
 土人形は土に還っていく。
 そこで琴美は眉を顰めた。着地した足がぬかるみにとられたからだ。霧雨はいつしか想像以上に地面を濡らしていたらしい。
 つまりは、遊びの時間の終わり、そろそろ終止符を打てということだ。
 琴美は一つ大きく息を吐いた。どうせ土人形をいくら倒したところでキリがない。それらを操る女の子をなんとかしなくては。
 襲いかかる男どもを一蹴し、琴美は大きくジャンプすると木の枝を使って樹上へあがった。
 男どもからは視線をはずし、女の子を睨み下ろす。
 その左手にクナイを構えた。
 とはいえ、実体を持たぬ女の子をいかにしたものか。
 胃の辺りに右手を置く。クマのマスコット。
 と、その時だ。
 ――俺の血を使え。
 どこからともなく声がした。ような気がした。
「!?」
 思わず琴美は辺りを見渡す。だが、霧雨に煙る夜の公園のどこにもその姿を見つける事は出来なかった。
 ただ。
 琴美は右手のグローブを取り出した。
 クナイの血は霧雨と土に洗い流されている。
 グローブに残る血痕。
 琴美は女の子を見据えたままグローブをはめた。
 木の根本に群がった男たちが登ってこようとするのを一瞥して琴美はクナイを投げる。
 女の子の佇む傍の巨木に刺さったのを確認して飛んだ。
『なに?』
 自分に向かって弧を描くように飛んでくる琴美に女の子が目を丸くする。
「言ったでしょう? 貴女を地獄には行かせません」
『!?』
 グローブに残された血を女の子の体に叩き込むように右手を伸ばした。
 刹那、グローブから赤い糸が飛び出し網をつくるようにして女の子を拘束した。
『なっ!?』
 まるで教官が女の子を背中から抱きしめるように。
 いや、まるで、ではない。
「教官…」
 着地した琴美はその姿を半ば呆然と見上げた。いつしか琴美を取り囲んでいた教官の姿をした偽物たちは消えていた。
 女の子を抱きしめているのが本物。とはいえ、実体はなくその姿は雨を弾くこともなかったが。『どうして!?』と、もがく女の子に応えるでもなく教官は琴美に向かって言った。
『すまなかったな』
「はい。いえ…」
 申し訳なさそうな教官の表情に琴美は笑みを返した。
『はなして! わたしはあの男を!!』
 女の子が暴れる。
『もう、いいんだよ』
 教官は諭すように首を横に振った。
『え? どうして?』
 女の子は暴れるのをやめて教官を見上げた。きょとんとした顔で。
『俺が悪かった。行こう』
 多くは語らず教官は優しく微笑んで女の子の肩をぽんぽんと撫で、促しただけだった。それに女の子は逆らわなかった。駄々をこねる事もしなかった。素直に『うん』と頷いた。
「………」
 なんだか拍子抜けな気分で琴美は女の子と、それから教官を見上げていた。光が教官と女の子を包みこむ。
 ふと教官が琴美を振り返った。
『お前はまだ、こっちには来るなよ』
 まるで揶揄するような口調で。
「………」
 光の中に薄らぐ2人の姿を見守った。
『いつか、遠い未来に会うとしよう』
 そんな言葉を残して2人の姿は夜の闇へ消えていった。
「………」



 ▼



 上司に前日の任務の報告を終えて琴美はその部屋を出た。昨夜の女の子の怪異については話さなかった。
 カルヴァインの英雄は女の子の予言通り運命に抗いきれず最初から決まっていた終焉を迎えるのだろうか。誰が手を下そうと下さなかろうと。決まっているのだとしたら――。
 果たしてかの英雄は地獄へ旅立つのか天国とやらに逝けるのか、或いは、この東京の怪異に飲み込まれるのか。
 見上げた青空から声がしたような気がした。『待ってる』と。
「私は天国に逝けるとでも思ってくださるのですか、教官」
 琴美は自嘲気味に呟いて長い廊下をまっすぐ歩いた。


 公園を訪れる。
 昨夜の雨が嘘のような晴天。噴水の周りに昨夜の出来事を想起させるような痕はなく、女の子が立っていた大きな木の下には今はクレープの移動販売車が甘い香りを漂わせていた。
 琴美は昨夜を振り返って小さく肩を竦めた。
 教官が出てくるのが少し遅かったように思ったからだ。1対多の戦闘訓練とでも思ったのか。あの教官だけに。
 どこか拗ねた気分でやれやれと息を吐く。
 それから、あっさり引き下がった女の子の事を思った。
 女の子はかの英雄に復讐したかったのだろうか。しかし復讐を成そうとした教官を止めた琴美には興味がないようだった。たとえば自分で手をくだしたかったというなら教官も邪魔者だろう。そもそも復讐が目的なら教官が止めても聞かなかったはずだ。
 ならば何故。
 もしかしたら、と思う。女の子はずっと汚れを知らない邪気のない顔で笑っていた。
 女の子はただ、自分のために動いてくれた教官の“願い”を、叶えたかっただけなのかもしれない。
 そう、あの教官は、ただ殺すだけではなく地獄に堕ちろとでも願ったのだろう。
 それだけが目的だったから“あの瞬間”女の子は芽吹き、程なく願いの変わった教官にあっさり引き下がったのだ。

 それは、どこか祈りにも似て――。




『速報です。……』







 ■END■