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<東京怪談ノベル(シングル)>


恋心、その瞬間

1.
 穏やかな波、激しい波。
 緩急つけた様々な波が茂枝萌(しげえだ・もえ)の体を襲う。
「‥‥っ!」
 歯を食いしばって必死にしがみつくと、優しげな声が甘い吐息と降ってくる。
「大丈夫? もう‥‥やめる?」
 イアルの声だ。耳元で心配そうに萌を気遣う。
 萌は目を開けた。イアル・ミラール。長くやわらかな金の髪と赤い瞳の美しい人。その瞳を間近に見つめて萌は答えようとする。
「やめ‥‥ないで‥‥」
 萌がそう答えると、イアルは優しくキスをする。
 そしてまた声を出さずにはいられないほどの激しい高ぶりを感じて、萌はきつく目を閉じる。イアルの動きに必死でついていくために。イアルが与えてくれるすべてを逃さぬように。
 でも‥‥こんなのは初めてで、萌は戸惑ってばかりだ。どうイアルを受け止めたらいいのかも見当がつかない。
「大丈夫、萌はただ感じてくれればいいの」
 優しくそう言われてももう萌は何も考えられず、ただイアルの腕の中で溺れるだけだった。

 気が付けば、萌はイアルの隣で眠っていた。
「気が付いた?」
「イア‥‥ル?」
 イアルは穏やかな眼差しで、萌の体を包み込んでいた。
「‥‥萌はいつわたしを知ったの? わたし、全然わからないの」
 萌の髪を撫でながら、申し訳なさそうにイアルは言う。萌は鈍った思考の片隅にある扉を叩く。
「あれは、ある任務を受けていた時だった‥‥」


2.
 IO2は以前からとある魔女結社を追っていた。萌はIO2エージェントとしてその魔女結社を追っていた。
 その魔女結社がとある品を狙っているとの情報が手に入った。
『裸足の王女』
 そう呼ばれる美術品だった。出自不明、作者不明の彫刻‥‥という謎の美術品。
 なんでそんなものを?
 萌は不思議に思いながらも、魔女が追う物なのだから何かいわく付きなのだろうと納得した。
 そんな『裸足の王女』がこの日本に渡ってくるという情報をIO2は掴み、そしてその警備を萌は担当することになった。警備、というのは名目上でその真の目的は『魔女結社』との接触である。
 どれだけすごい美術品なのだろう?
 興味はあったが、美術品に対する知識も審美眼もあまりあるとは言えない。
 萌は淡々と任務をこなすことにした。
 『裸足の王女』は美術品ながら船の船首に飾られていた。船首像である。
 船の守り神‥‥そういうと聞こえはいいが、その石像は苔むしており長い間手入れをされていないのが遠目にも一目瞭然だった。
 停泊展示された帆船の船首像が『裸足の王女』、それであった。
「どれだけすごい物かと思ったのに‥‥」
 期待を失った。けれど船が間近になるごとに萌の胸は高鳴っていく。
 そして、間下でそれを見た時、萌の目はその像に釘付けになった。
「なんて悲しそうで‥‥なんて綺麗なんだろう」
 苦悶の表情を浮かべながらも、美しさには何の遜色もない。こんなにも手入れされていなくてもこんなにも綺麗だ。
 萌は人目を盗み『裸足の王女』の傍へと寄った。凄い異臭‥‥もう悪臭といって過言でない匂いが辺りにまき散らされている。けれどその中に甘く脳の奥を刺激するような香りも交じっていた。
 これが本物の人間だったら‥‥柔らかい唇だったんだろうな‥‥。
 『裸足の王女』に吸い寄せられるように、萌は目を閉じてその唇にキスをしようとした。
 けれど、その寸前で我に返る。
「ただの石像にキスなんて変態じみた事を‥‥」
 そう、そんなのただの変態だ。私は、変態じゃない。変態じゃ‥‥ない‥‥。
 心を惹かれながらも、萌はその場を離れた。理性がそうさせた。
 帆船の警備は何事もなく終わった。そしてまた、萌の任務も通常に戻った。
 けれど、萌の心はモヤモヤとしたままだった。


3.
 帆船の持ち主は『裸足の王女』を秘密裡に魔女結社に所属する魔女に売った。
 その情報をIO2は入手していたが、萌の元にまでは情報が伝わっていなかった。いや、伝えなかった。
 萌が『裸足の王女』に魅了された可能性があったから‥‥。

 『裸足の王女』は支配の象徴・祖国を滅ぼされた王女のなれの果て。

 『裸足の王女』を手に入れた者は、全て知っていた。それが生身の人間であり、その所有者によって解呪と石化を繰り返されていることも。
 それはこの日本に来て、魔女に買われた。魔女はイアルの石化を解き、その意識の全てを洗脳した。
 哀れなる王女はその体を魔女に弄ばれた。
 高ぶる夜の鼓動の全てを吸い尽くされて、再び石のレリーフに封印した。
 それは支配されたことを意味する、石化の烙印。その封印を再び解かれるとき、それはまた違う誰かの支配を受ける時。
 そう決められた運命‥‥のはずだった。

 カツカツカツカツ‥‥
 ハイヒールの音が鳴り響く、神聖都学園の美術館。
 美術品の目録作りをしていた女教師は、とあるレリーフの前で足を止めた。
 伝説の国を救った王女を模したレリーフ、と女教師は聞いていた。色々な伝説があるレリーフなのだと。
 コーヒーブレイクをとりながら、女教師はふとその伝説のひとつを思い出す。
 『封印を解くのは目覚めのキス』
 まさかそんな‥‥。
 ちょっとした悪戯心だった。誰もいない美術館での作業に疲れていたのかもしれない。
 けれど‥‥そのキスはレリーフになっていた王女を生身に戻した。
「ここはどこですか? わたしはいったい‥‥」
 目覚めた王女は封印を解いた女教師に問う。女教師もまた王女に名を問う。
「ええっと‥‥名前はなんていうのかしら?」

「イアル・ミラールです」

 萌は話し終えて、深呼吸をした。
 イアルと萌の運命はすれ違っていた。けれど今ようやく重なった。
 萌はそれが嬉しかった。例えそれが、イアルにとって大切な人を危険な目に遭わせる辛い事だったとしても。
「私、あの時からずっとあなたの名前を知りたかった。あなたに名前を呼んでほしかった。ホントだよ、イアル」
 幸せそうに微笑む萌に、イアルは微笑むと優しくキスをした。
「ありがとう、萌。わたしも‥‥」
 優しくいたわるようなキス。イアルの心が伝わってくるようで、萌は泣いた。
 この幸せが、ずっと続けばいいのに‥‥。