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〜かなわなかった未来〜
身体が軽い。
来生十四郎(きすぎ・十四郎)が目覚めたときに最初に思ったことは、それだった。
昨夜確かに一度帰って来たはずなのだ。
小父から面白い話を聞いたなどと、こちらがまったくうれしくないことを、おかしそうに言っていたのだから。
いったいいつ再度身体から抜け出して行ったのだろうか。
またかよ、と舌打ちしながら、兄の来生一義(きすぎ・かずよし)の行く先を苦々しい気持ちで考える。
彼のお気楽さ(まあ、幽霊なのだから当然と言えば当然、この世のしがらみなど、もう持っていないのであろう)が心底恨めしかったが、今日は今日で忙しい。
小母たちの好意で引きとめられはしたものの、十四郎は、お客様としてではなく、「身内」として扱われているのだ。
やれることは山ほどある。
以前住んでいた頃のように、布団をたたんで、押し入れの中にしまい、部屋を出た瞬間から、慌ただしい一日は始まった。
夕方まで、葬儀や繰り上げ法要、後飾りの祭壇設置など、法事に伴う諸事の手伝いで忙しく過ごした。
そうして、すべてが滞りなく進み、終わったその晩、広い家の中にぽつんと、小母たちと自分だけになったとき、小母たちは今夜も遅いからと十四郎を引きとめた。
確かにこれから空港に向かおうにも、帰りの便自体がない。
十四郎はうなずいて、疲れた足を引きずりながら寝室へと舞い戻った。
障子を開けて中に入ったとたん、ずっしりと背中のあたりが重くなる。
「ようやくのお帰りかよ」
仏頂面でそうつぶやき、十四郎は今度は思念だけで兄に問うた。
『どこに行ってたんだ?』
『ただいま。今日は一日、小父さんにお前が通っていた学校とか漁港周辺を案内してもらっていたんだ。広すぎて迷子になりそうになったが』
『…こんなところでまで、勘弁してくれ』
『そんなことより、小父さんがお前に会いたがってるぞ。お前に預けた指輪を小父さんに貸してやれば、いつもの私のように実体化できるから』
十四郎は四方八方を見渡した。
『小父さん、どこにいるんだ?』
『目の前だ』
十四郎はかばんの中の小銭入れから指輪を取り出した。
通常、幽体である兄の身体を実体化させるために使われている「形而下の指輪」だ。
これを使えば、間違いなく小父に会えるだろう。
十四郎は目を上げ、何もない目の前の空間と、手のひらの中にある指輪を何度も見比べた。
いつもよりややうつむき加減の顔には、迷いの色が色濃く見える。
5分はかかっただろうか、十四郎は一度出した指輪をまた元通りしまい込んだ。
それから、小父がいるはずの空間に向かい、ひとり言のように話し出した。
「ごめんな小父さん。だけど、顔見たら行くなって言っちまいそうで…小父さんが成仏できなくなったら申し訳ねぇしよ。なあ小父さん、たった1年だけど、あんたの息子になれて嬉しかったよ。ごめんな、漁師継げなくて。俺も、小父さんと一緒に海に出たかったよ。小母さん達の事は俺や義兄さん達に任せて、小父さんは向こうで待っててくれ。今度会う時は兄貴も一緒に、皆で飲もうや」
一言言葉をひねり出すたびに、その目からは涙がこぼれ落ちた。
しまいにはボロボロと泣きながら、それでも笑顔で十四郎は空間に話し続ける。
そばで見ていた一義の目には、ふたりの視線がきちんと相手を捉えていたこと、小父が十四郎の言葉ひとつひとつに、うんうんとうなずきを返していたことが見えていた。
十四郎が話し終えると、小父の節くれだったごつい大きな手が、ふわりと十四郎の頭に乗せられた。
その手がまるで乱暴に頭をくしゃくしゃっとなでるかのような仕草を見せると、ちらりと小父の視線が一義に向けられ、小父は大きくうなずいた。
『あ…』
一義が思わず声を出す。
そちらの方向を、十四郎が見ると、一義はその理由を説明した。
『小父さんが旅立ったんだ』
十四郎が天井を見上げる。
「またな…」
そのつぶやきは切なさを帯び、ふたりの心に小さな小さな痛みを植え付けてから、空気に溶けて消えた。
翌朝、空は高く澄み、よく晴れていた。
簡単な荷造りを終え、用意してもらった朝食を食べた十四郎は、小母たちに見送られながら帰途に就いた。
空港に向かう途中、不意に十四郎が小高い丘で車を停めた。
外に出る十四郎とともに、実体化した一義もまた車を降りる。
ふたりで港から、一艘、また一艘と出て行く船を何とはなしに見送った。
くわえたばこをふかしながら、ただただ船を見つめる十四郎の横顔に、一義は静かに尋ねた。
「なあ十四郎、お前、船酔いするんだって?」
視線だけ船から兄に流しやって、十四郎は無感動にこう答えた。
「…小父さんだな? ああそうだよ、薬飲んでもダメで、だから漁師になるのを諦めたんだ」
あの当時、十四郎はこのままこの地で生きて行きたい――本気でそう思っていた。
だから、小父が止めるのも聞かず、何度も船に乗り込んでは、酔って吐いてぐったりして、家に戻されるということをくり返した。
その理由を、小父はあえて聞いて来なかった。
小父にも、十四郎の思いは伝わっていたにちがいない。
ただ毎回、黙って船を港に戻してくれたからだ。
不意に、隣りから笑いをこらえ切れずに吹き出す音がした。
「お前の、漁師姿か…!」
十四郎の感傷をこっぱみじんに打ち砕いた兄に、むかっ腹が立ち、十四郎は苛立たしげにたばこをもみ消し、吐き捨てた。
「空港に到着する前に、霊体に戻れよ!」
足早にさっさと車に戻っていく十四郎を見て、一義は、こんなところに残された迷子になり兼ねないと、あわててその後を追った。
そんなふたりの背を、海のどこからか聞こえてきた汽笛が、さみしそうにそっと押した。
〜END〜
〜ライターより〜
いつもご依頼、誠にありがとうございます!
ライターの藤沢麗です。
切ない3部作のご依頼、ありがとうございました。
もし船酔いがなかったら、
このおふたりの運命も変わっていたのだろうかと考えると、
複雑な気持ちになります…。
おふたりがそろってこの地に再来する日は、
訪れるのでしょうか…。
それではまた未来のお話を綴る機会がありましたら、
とても光栄です!
この度はご依頼、
本当にありがとうございました!
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