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白銀の誘惑
青い空の下に広がる森は、鮮やかな緑に染まる。
左右の木々を隔てるように伸びる白く大きな煉瓦道を、彼女らは歩いていた。
「わあ、立派な美術館ですね、お姉様!」
目の上へ手のひらをかざし日の光を遮りつつ、ファルス・ティレイラはぱたぱたと路地を小走りで駆けていく。
「ティレ、あまりはしゃがない。転んでも知らないわよ?」
その後ろをゆったりとした足取りで着いて行くシリューナ・リュクテイアが、小さなため息をついて微笑んだ。
彼女らの目の前には、巨大な美術館がそびえ立っている。
格式高い、というのが適当だろう。
白い壁に色とりどりの窓、両開きの古い木戸。
玄関の手前に広がる庭には桃と白の花が咲き乱れ、その上を二匹の蝶がひらりひらりと舞い踊っている。
木立から零れる鳥のさえずりを聞きながら森を抜ければ、薔薇で飾られたアーチが二人を出迎えた。
「私たちの仕事は、ここの美術品を盗む魔族を捕まえること……ですよね」
ふかふかのソファに腰かけ、落ち着きなくロビーを見回すティレイラ。
そんな彼女の様子を見て、シリューナはかすかに微笑んだ。
「そうよ。実際に動くのは夜になるわね」
「それまでは?」
「間取りを確かめて作戦を決めたら大人しくしていようかしら」
ティレイラが僅かに顔をしかめる。
(わかりやすい子ね)
シリューナはくすりと息を漏らすと、
「でも、ここまで来たのだから、間取りを確かめるついでに美術品鑑賞もしましょうか」
それで構わないかしら? と尋ねた。
とたんに明るくなるティレイラの表情に、
(本当、わかりやすい子)
再び、くすくすと笑った。
館長と話し合い、いままでに被害を受けた美術品の傾向を推測する。
美術館をくまなく歩き周り、魔族が逃げ込める場所や追跡に有利な場所を確認する。
そうしている間にもティレイラは館内の展示物に興味津津で、気付いたことやお気に入りの作品を見つけてはあれこれシリューナに報告していた。
そのたびにシリューナは『美術館では静かに』と人差し指を立て、尚もこそこそと話しかけてくる彼女をたしなめる。
そうしたやりとりがどれくらい続いただろう。
館内、休憩室や廊下へ差しこむ光が橙に染まり、遠い森が黒く染まっていく。
「そろそろ、準備しましょうか」
シリューナの言葉にティレイラが頷いた。
魔族が現れるのは、館内から人が消え、照明が落ちた後。
見回りの警備員が気付かない間に、音もなく美術品を奪っていくのだと言う。
盗まれた美術品は主に彫像だ。
「回数を重ねるごとに高価なものが狙われていくの」
と、館長がぼやいていた。
「こちらも警備は増やしているのだけれど……捕まえるどころか見つけることすらできないなんておかしいじゃない? きっと魔術も絡んでいるわ。だから貴女達にお願いしたのよ」
「強大な魔力の痕跡は残っていなかったけれど、用心するに越した事は無いわね」
館を後にする客達を眺め、シリューナが言う。
「ティレは彫刻や像の展示室を見張っていて。私は裏口に結界を張ってくるわ」
「お姉さまは結界を張り終えたら玄関に移動して、そのまま待機でしたよね?」
「そうよ。……それじゃあ、展示室のことは任せたわ。くれぐれも気を付けて」
「はい。お姉様も、お気をつけて」
玄関が閉じられ、館内の明かりがひとつひとつ消えていく。
必要最低限の照明のみが残る中、ティレイラは息を潜め部屋の様子を伺っていた。
彼女らが配置についた後も、警備員の巡回は行われている。
(警備員さんが部屋を出た後を狙って侵入してくるのではないかしら)
と、睨んでいるためだ。
裏口から、シリューナの魔力が消えた。
(裏口から入ってくるのなら話は早い。もし別の場所から入ってきたらここで捕まえて、逃げられたら裏口に誘導……)
立てた作戦を心の中で反芻する。
(大丈夫、できる。私とお姉様なら、必ず)
力強く頷いた。
そろそろ警備員が部屋から出ていく。
ふと、ティレイラの頭に、
『あら、ティレ。肩に力を入れ過ぎよ』
と、シリューナの声。……声と言うよりは、思い出か。
こうして“仕事”をする度に、時々言われている言葉だ。
いつの間にか緊張で満たされていた心をなだめるべく、一つ大きな深呼吸をする。
(そうですよね、お姉様。肩の力を抜かないと、出来ることもできなくなっちゃいますもんね!)
ぐっと両手に握りこぶしを作り、再び室内の見張りへと戻った。
(リラックス、リラックス)
握りしめたこぶしをそっとほどくことも、忘れずに。
現場の様子が変わったのはそれから数十分ほど経った時だった。
ふいに僅かな魔力を感じた。シリューナのものではない。
しかし、ドアや窓の開く気配はなかった。きつく閉じられているのだ、音を立てずに開けることはできない。
単純な解錠の魔法を使ったのであれば、扉を開かなければ室内へ入れないはず。
(……! 霧!?)
かすかに灯る明かりの前を、薄い影が横切った。
それは窓の隙間からするすると入り込んできている。
閉じたものの僅かに隙間が開いてしまった、枠の歪んだ窓。
(確かにこの姿なら侵入は容易いわね)
霧は、ある彫像の前に集まっている。
美しい女神をモチーフにした像……「次に狙われるのはこれかしら」と、館長が呟いていた像。
館長はもちろん、魔族もその価値をよく知っていたようだ。
霧はやがて濃くなっていき、人の姿を形作り……、一瞬の煌めきの後、少女の姿を形どった。
(魔族)
ティレイラに、今度こそ緊張が走る。
白い髪に赤い目の少女の手には、青い水晶が。
少女が細い両手に水晶を乗せ、そっと像へ近づけると――水晶が輝きを増した。
そして、それに呼応するかのように、彫像も明るく色づき始める。
「させないっ!」
物陰から飛び出すティレイラ。
その声に驚き振り向く魔族の少女。
「あなたは?」
「あなたを捕まえるために来たの。覚悟してね、魔族さん!」
魔族はじっとティレイラを見ていた。
いつ戦闘に持ち込まれても反応できるよう、身構えるティレイラ、だったが――
「ここは……引かせていただこうかしら!」
ティレイラが戦闘態勢に入る前に、魔族は踵を返し部屋の出口へと駆け出す。
「ちょっ、待ちなさい!」
あわてて追うティレイラの声を魔族は振り返りもしない。
暗い廊下に二人の足音がこだまする。
広い廊下だった。両側の壁に沿いおかれたいくつかのベンチと、等間隔に並べられた小さな彫刻や壺などがありながら、人が五人目いっぱい横に広がってもまだ余裕があるくらい、幅のある道だった。
彼女らの距離は依然として縮まらない。
魔族が霧に変化せず逃げ続けているのは、おそらく魔法の発動に時間がかかるからだろう。
なんとか捕まえなくては。
全力疾走を続けながら逡巡するティレイラ。
魔法が発動しにくいのはこちらも同じ。
今、一気に距離を詰める方法は……。
突如、ティレイラの背に翼が生じた。
美しい紫色の竜の翼だ。
次いで、同じく紫の鱗に覆われた尾が発現ししなやかに伸びる。
目の前を走る少女が異変に気付いたのは、追手が地面を蹴る音と“何か”の風圧を感じてからだった。
「――っ!」
ドン、と、鈍く重い衝撃。
響くのは、派手に転んだ二人が地面にぶつかる音。
「やっと捕まえた」
起きあがったティレイラが、地に伏せる魔族の腕に手を伸ばす――が、魔族はそれを振り払い、立ちあがって距離を取った。
「また逃げる気?」
「まさか。翼を持つ者を引き離せるほど走ったら、片足が千切れてしまうわ」
彼女から余裕は消えない。不敵に笑む口元から、鋭い牙が覗く。
「だから、今ここで仕留めてあげる」
右手で掲げたのは、手のひらにすっぽり収まる程度の真っ白な球体だ。
真珠と見紛うほどの純白をした金属の珠は、窓から差し込む僅かな月明かりを浴び、柔らかな光沢を放っている。
(魔道具)
その球体から、尋常ではない魔力を感じ取れた。
「さて……、あなたはどんな像になるかしら」
うっとりと微笑む少女。
「可愛らしくて美しい像になるはずよ。楽しみね」
魔族の呪力が魔道具へと流れ込む。
(あれは……マズイ、よね)
十中八九、あの魔道具の力を解放する気だろう。
逡巡の間にも、球体は禍々しい――そして美しい妖気を放ち始める。
考えている暇は無い。
威力は無くていい、あの魔術さえ止められれば問題ない。
ティレイラの右手に小さな火が灯る。
あらたな魔力の出現に魔族が顔をしかめたのも束の間、
「くらえっ!」
ティレイラが右手を振り下ろすと同時に、小さな火炎弾が放たれる。
炎は踊るように燃え廊下を赤く照らすと、真っ直ぐに魔族の手へくらいついた。
小さな火ではあるが、怯ませるには十分の威力だ。
短い悲鳴を上げた魔族の手から、魔法の球体が滑り落ちた。
ゴトン。辺りに反響する不吉な音。
あっ……と、どちらともなく呟く。
床にぶつかった魔道具は一瞬の間をおき、真っ二つに割れ、沈黙した。
良くないなと、間違いなく思っただろう、二人とも。
そしてそれはその通り、良くなかった……というか、完全に悪かった。
球体の割れ目からひとつのシャボン玉が昇る。
それは瞬きの間に音もなく、それでいて急激に広がり、隣に居る魔族の少女を飲み込んだ。
「きゃあっ」
思いもよらない事態に動揺していたのだろう、魔族は抵抗する間もなく膜の中へ閉じ込められる。
(これは明らかに危ない)
冷や汗を拭う暇もなく、ティレイラは翼を翻しその場を飛び立つ。
いや、飛び立ったつもりだった。
「逃さないんだからっ!」
その尾はしっかりと魔族にひっつかまれていた。
我に返った魔族が一気に距離を詰め、倒れこみながらティレイラの尾を右手で捉えたのだ。
「ちょっと、離してよ!」
「ダメ! ……一緒に、永い永い時を過ごしましょ?」
「冗談じゃないわ。離して!」
翼を何度もはためかせ身体を捻っても尻尾を掴む手は離れない。
見た目よりずっと力が強いのか、むしろじわじわと膜の中へ引っ張り込まれていく。
尚も膨張を続ける魔力の泡はティレイラの抵抗をものともせず、彼女の身体もわが身に取り込んだ。
「捕まっちゃったじゃないの!」
「当り前よ、捕まえさせるために捕まえたんだから」
「今からでいいから離して!」
「ふふふ……このまま二人で一緒になりましょう」
「変な言い方しないでよ!」
きゃいきゃいと二人が言い争う仲、泡に変化が現れ始める。
膨れる一方だった膜が、ふいに膨張を停止したのだ。
口喧嘩に夢中になっている二人がそれに気付いたのは、収縮が始まってから数十秒が経った頃だ。
先に気付いたのは魔族の少女だった。
彼女の視線が自分から逸れ表情が曇ったことに気が付き、ようやくティレイラも辺りの様子を伺う。
先ほどまで廊下いっぱいに膨らんでいた膜が、眼前に迫っていた。
背筋に冷たい物を感じる。
渾身の力で魔族の手から逃れ、羽を広げ飛び立つ。
今からでも膜を突き破ることができれば、然るべき結果を避けることができるかもしれない。
視界から膜が消える。はっきりと、廊下の様子が見て取れる。
何やら叫ぶ魔族の声も遠ざかり、なにかを引きちぎる感覚がした。
思惑通り、ティレイラは魔力の泡の外へ逃れた――かに見えた。
尾の先にひんやりとした感覚。
最初は、魔族の手の温度が残っているのかと考えた。けれど、違う。
彼女が悪あがきに何かの呪術を掛けたのでは?
そうであるなら、手遅れになる前に解除しなければ。
羽ばたき宙に浮きながら背後を振り返った、つもりだった。
翼に力が入らない。
おかしい。
直感した刹那、浮力を失った彼女の身体は床へと落下した。
どすんと大きな音。
尾と羽のせいで重量も増えていたためだろう、見た目よりも重い音だ。
思い切り尻もちをついてしまったティレイラが、もうひとつ、違和感に気づく。
尾も動かないのだ。
いや、翼共々動きはする。しかし、鈍すぎる。
そして、見えた。違和感の正体が。
「何これ……!」
魔力の泡は彼女を捉えたままだったのだ。
正確には、彼女が膜を突き破ろうとした時、泡がその動きに合わせ分裂したのだ。
結果、泡は魔族を飲み込んだものとティレイラを閉じ込めたものの二つとなった。
もうひとつの膜の中で、魔族は笑っている。
「この魔の水泡から逃れられるはずないでしょ?」
少女はゆらりと立ちあがり、両手を胸の前で合わせ、祈るような体勢を取った。
「抗っても無駄。せいぜい、美しい像におなりなさい」
不敵な笑みを残したまま、彼女は白濁した膜につつまれていく。
つま先、髪、顔、腹、胸。
だんだんと不透明に白く染まっていく膜は、彼女の身体のあらゆる場所を包み込んだ。
残ったのは、月を見上げ祈りを捧げる少女の像だけだ。
真っ白で、光沢のある――まるで先ほど割れた魔道具の球体と同じように、美しい魔法金属で出来た像。
――自分も、像になるのだ。直ぐに、解った。
「ダメ、そんなのダメ!」
まだやり残したことは沢山あるのに!
叫び立ちあがるが、羽と尾はしっかりと膜に覆われ、思うように動かない。
加えて足にも徐々に膜が張り付いてきた。
慌てて片足を上げ、足元に張る膜を踏みしだくが、かえってそれはまとわりついてくる。
力の限り翼を広げるが、動く気配も感覚もない。
尾も同様だ。振り回そうともがくたびに、膜がべたべたと体中にひっついてしまう。
泡は徐々に縮まってきたようだ。
色も、だんだんと白く濁ってきた。
「そんな……! ……お姉様! お姉様ァ!!」
力の限り叫んでみるが、ここは玄関から遠く離れた廊下だ。
ティレイラの悲痛な呼び声は虚しく泡を震わすのみだった。
そうしている間にも、膜は腿へ、腕へ、肩へと吸いつく。
翼と尾は、魔法金属でしっかりとコーティングされていた。
「お姉様……」
徐々に白で覆われていく視界、膜の向こうに魔族が見えた。
無抵抗に泡に包まれ、物言わぬ命を持たぬ物へ変わり果てた少女の姿。
「……た」
彼女の頬に冷たいものがへばりついた。
「助けてええぇ……ッ」
血声を上げた口腔へ、温度のない魔法金属が入り込んでいった。
シリューナがやってきたのはそれから数分後だった。
破裂とも言うべき、魔力の暴走を肌で感じた彼女は、玄関から離れ彫刻の展示場を過ぎ、廊下までやってきた。
そして今、二つの像を目の当たりにする。
「まあ」
第一声。
やや急いていた足取りはゆるやかに落ち着き、真剣だった表情は解けていく。
「これは、素晴らしいものね」
この美術館の中にあるどんな品よりも。
そう、彼女の表情は語っていた。
真上に上った月と明るい星の明かりがふたつの像を彩る。
白い魔法金属で出来た、滑らかな表面。
伸びた髪や鱗の一枚一枚は丁寧に形作られ、表情や動きも現実的に描かれている。
“今にも動き出しそうなくらい精密に”。
「このまま寄贈してしまうのは勿体ないけれど……どうしたものかしら」
シリューナの指が、ティレイラだった物の頬に触れる。
つうとなぞれば、温度が無いはずの魔法金属から、かすかに体温を感じ取れそうだ。
「とりあえず、今はじっくりと楽しませていただきましょう。いいわよね? ティレ」
恐怖に染まった表情は、悲鳴さえ聞こえてきそうなほど活き活きと。
ティレイラに静かに耳打ちし、シリューナは恍惚に溺れる。
「報酬よりも、貴女が欲しい、なんて」
人差し指で白い唇に触れ、くすりと笑った。
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