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金の薔薇咲く
都内とは思えぬ程の静寂と緑に満ちた庭園であった。東屋の下、夏の強い日差しを遮る位置では、二人の女が白いテーブルを挟んで笑顔を向け合っている。その隣では冷たい紅茶を啜る、眼帯姿の男性が独り。
(…怪獣大決戦)
彼が内心そんなことを考えていること等露知らず、女達は微笑みあった。
黒髪を切り揃え、夏の日差しの下で日焼けの気配を知らない白い膚の少女――石神アリスは、薄い陶器のティーカップの持ち手をつ、とその細い指先で撫でる。その瞳は甘い金色に輝いて、少しつりあがり気味の瞳も、幼さの強い顔立ちの中では険よりも猫のような愛らしささえ感じさせた。
対するのは、年の頃なら確か40を過ぎている妙齢の女性だ。とはいえその容色に衰えは見えず、夏の空気の中では些かならず重たい色香さえ漂わせて、ティーカップの中身をゆっくりと口にしている。真っ赤な厚い唇と、少し垂れた瞳、泣きぼくろはそういう趣味の男にはたまらぬ色気を覚えさせるだろうな、と、彼は他人事のように思う。口に運んだ冷たい紅茶は何だか言うブランドの、それはそれは良いものであるらしいが、生憎と、今の彼には味も香りもさっぱり分からなかった。
目の前の、40絡みの女の方がティーカップをテーブルに置く。飲み口をすいと指先でなぞり、彼女は黒い瞳を、対面の少女に向ける。その瞳に紛うことなき陶然とした、押し殺した熱を感じて、ぞくりと青年は背筋を粟立たせた。しかし彼が見遣る先、隣に座って絡む様な舐めるような視線を向けられたアリスは平然としたものだ。
「…それでその指輪、」
小さな唇を開けば零れ落ちるのは鈴を転がすような、可愛らしい声色。
「いくらで譲っていただけるんでしたかしら」
満足げに喉を鳴らす猫のように、対面の女が嫣然と微笑み細い白い手を翳す。その両手の指には金の台座に深紅のガーネット、あるいは銀に鮮やかなエメラルドといった宝石が並ぶが、ひとつだけ、薬指の鈍い銀の指輪だけが異彩を放つ。彫り込まれた図案は簡略化された薔薇で、銀の中でそこだけが黄金に輝いている。
「値段を付けられるものではないと、お答えしたはずですけれど…?」
ゆったりとした調子で告げて首を傾げる所作は夏の午後の重たい空気をゆるりと混ぜて物憂げだ。対する少女はティーカップの中身を一口。艶やかに微笑む。金の瞳は、女の手にある黄金よりも、テーブルの上に置かれた陽を透かした蜂蜜のよう。視線はとろりと甘い。
「わたくしで支払える対価ならば何でもお渡し致しますよ」
「ふふ。あなたの『作品』には確かに、心惹かれるものはあるわ」
「お分かり頂ける方がいらっしゃって光栄だわ。時に顔を顰める方もいらっしゃるんですの。美しさの前には、どんな言葉も無力ですのに」
「ああ、貴女は思った通り、美の分かる方ね」
「そちらこそ」
ふふふ、と女達が笑い合う。横の青年は得体のしれぬ居心地の悪さに目線を伏せた。彼も相当に神経が図太いと自負しているが、この空間に満ちる怖気は、彼には全く太刀打ちの出来ぬ類のものだ。
彼は不意に、家に置いてきた自身の愛弟子を想った。今ほど彼女が恋しいと思ったことは無いと断言できる。
(…あいつ、安全無害な女だったんだなぁ…)
鈴生がそんな思案に逃げ込む横で、指輪を翳す女の手がするすると伸びて、アリスの細い、テーブルに敷かれたレースの上で、象牙細工のように白く輝く掌に触れる。
「支払える対価ならどんなものでもと仰ったわね」
女の指先は滑るような所作でもってアリスの掌を撫で上げ、覗き込むように首を傾いでアリスの顔を覗き込む視線が絡み付いた。濡れた黒い瞳は底知れぬ火を宿して少女の、黄金よりもなお甘い金の瞳を見据えた。
無骨な銀の指輪が熱を帯びる。
「…! おい、石神の!」
果たして何を察知したか。青年が警告を発した時には既に遅かった。アリスが見下ろす先、女の触れた場所から、彼女の白い膚に黄金の光が宿る。それまで悠然とした笑みを浮かべていたアリスがその時初めて、視線を鋭くその手を見下ろした。何を、と、問うのはあまりにも愚問だった。
女の指で、薔薇の刻まれた銀と金の指輪が光る。
――それが何であるかを、アリスと、アリスと共にこの場に出向いた鈴生は知っていた。指輪は名を、「ミダス王の指輪」、と言う。フリギアの一都市の王であったとされるかの王の名を指輪が冠している理由は至極単純、かつて彼が、神を歓待して得たとされる異形の力を持ち主に発揮させることが可能な魔道具であるが故でった。
ミダス王の力とはすなわち、触れたもの全てを、黄金と化す力。
王はその力を得て後、その力を乞うて得たことを後悔し、流れる川の水で全てを清めて流し去ったとされている。食事が全て黄金と化してしまうからとも、あるいは抱きしめた愛娘が黄金と化したからとも伝えられるが、定かではない。
しかし眼前の女の笑みを見れば力を得たことを微塵も悔いていないのは明らかであった。表情に驚愕と、彼女らしからぬ僅かな恐怖すらも浮かべ、席を立とうとしたアリスは見る間に黄金に覆われていく。腰をあげかけたところで輝きが足先をも覆い、動きを囚われた少女の華奢な体躯は腰をあげかけた格好のままでゆっくりと凍りついて行った。ただ、顔だけは自由にされたままなので、アリスの浮かべる感情の移ろいが良く見える。女は立ち上がり、その頬に触れて、嗚呼、と恍惚の吐息を漏らした。うっとりと頬を寄せる。忌々しげにアリスが眉を寄せるがお構いなしだ。
「この、女ッ…!」
立ち上がり、鈴生が自らの手首に巻いたバングルに触れて何事か対応をしようとするが、その指先も黄金に覆われて固まる。しまった、と口にする暇もなく彼は瞬きをするほどの間に黄金に覆われて一体の像と化す。
「ふふ、こうやって一瞬で、全て黄金に変えてしまうことも可能なんですのよ。『ミダス王の指輪』――素晴らしい魔道具だわ」
指輪に口付けて、女はまた、アリスの、未だ生身の頬を撫でる。
「さぁ、もっと怯えて、恐れて頂戴…。可愛らしいお嬢さん。その姿がどれだけ美しいか、貴女はよぉくご存知の筈よねぇ」
ねっとりとした口調で告げて艶めかしく唇を舐める舌先は血に染まったように赤い。その舌で彼女はアリスの、既に黄金で固まり切った鎖骨を、首を舐め、そうして黄金が這い上がり始めた頬に唇をつけ――
ようとしたところで、その瞳が見開かれた。
黄金に身の殆どを覆われて指一本どころか、既に表情さえ動かせなくなっているであろうアリスは、未だ自由になる目元に笑みを浮かべていたのだ。それはそれは艶やかで美しい、身を覆う黄金など何ほどの価値もないと思わせる程の、甘い蜜の金色が瞳の端で濡れて輝く。
「ええ」
自由にならぬはずの唇から鈴を転がすように美しい声が漏れ聞こえ、女は再度驚嘆に身を引いた。何故、とよろめくように下がった拍子にがたりと椅子が揺れ、そして彼女はいよいよ愕然として己の足元を見下ろす。
ぺろり、と。
先程女がそうしたように、アリスが桃色の唇を舐める。
「些かわたくしの好みからは外れますけれど、そうですわね。――怯え、震える姿、それもまた美の形です。価値のお分かり頂ける方が居て嬉しいですわ」
「な、ぜ…っ!」
アリスがかつりと靴の踵を鳴らして一歩を進めば、その身体が纏っていた黄金は薔薇の花弁となってひらりひらりと剥がれて落ちていった。一歩進んでくるりと、スカートの裾を翻してターン。黄金色の薔薇の花弁が舞う。肩越しに振り返る流し目が一瞥すれば、鈴生も黄金の呪詛から解かれてその場にへたり込んでいた。
甘い蜜金の瞳は、猫のように笑う。
「嗚呼。悔しさに顔を染めていては台無しでしてよ。…わたくしの情報は調べておいたお積りなのでしょうけれど、お生憎様。己の切り札の情報を易々と渡すほど、わたくし、愚かではございません」
つい、と、細い指先が女の頬を撫ぜる。
――その頬は既に、灰色の石と化していた。表情すら最早動かせぬ状態に陥っていることに、女はここでようやく気が付いたものらしい。口を開けず、しかしその視線から混乱の意図だけは察して、しかし解説してやる義理もない。アリスはスカートの裾を摘まんで一礼した。
「御機嫌よう。ミダス王の指輪は、確かに頂いて参ります」
「…泥棒のやり口じゃねぇか」
「せめて怪盗、と仰っていただきたいですわ」
「大差ねーだろ!?」
告げながら去っていく男の掌で、銀の指輪が転がって夏の日差しを照り返すのを睨んだのが、女の最後の視界となった。
それきり庭の中央には魔女の様な美貌の女の石像がひとつ、白い薔薇に包まれて立ち尽くすばかりだ。
「…一体全体、どういうトリックだよ」
鈴生ですら不審そうに眉根を寄せたが、アリスはふふ、と笑うばかりだった。
「言ったでしょう。切り札の情報は安くはありません」
種を明かせば簡単なのだが。アリスはこの庭園に招かれた時点で、鈴生まで巻き込んで、女に強い催眠暗示をかけていたのである。彼女は勝手にアリスを黄金像に変える夢を見、その間に易々と相手を石化させただけの話だ。最後の最後、石像が完成する直前で催眠を解いたのは――これは純粋にアリスの趣味に他ならなかった。
くく、と咽喉を鳴らして、アリスは笑った。
「依頼は間違いなく果たしました。お約束の報酬についての相談はまた何れ」
「……あんたに借りを作ると、とんだ利子をつけられそうでこえーよ、俺は」
あら、とアリスは微笑んだ。夏の日差しの下に日傘を広げる。蜜金の瞳は日傘の影になると色を濃く、艶やかに染まる。
「それは褒め言葉と捉えておきましょう」
曲者と名高い魔導錬金術師の御言葉だ。有難く頂戴しよう、とアリスは彼に、一礼をした。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 7348 / 石神・アリス 】
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