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<東京怪談ノベル(シングル)>


5億円の仕事


 届け先の欄には、松本太一の住所・名前・電話番号が、一字の誤りもなく記入されている。無論、日本語でだ。
 だが送り主の欄に記入されているのは、日本語ではなかった。英語でも、中国語でも、独語や仏語でもない。
 判読不能な、謎めいた言語である。
「以前も、こんな事がありましたねえ……」
 太一は呟いた。
 アパートの自室である。太一以外には誰もおらず、何を呟いても独り言にしかならない。
 その独り言に、しかし何者かが応えた。太一の頭の中でだ。
『あの時とは違うわ。あれは、魔女の1人が悪戯で送りつけてきた物だったけど』
 自分に取り憑いている、女の悪魔。
 彼女に関して太一が知るのは、その程度である。
『今回は……悪戯、じゃあないわねえ。これは、お仕事よ』
「お仕事……ですか?」
『そう。貴方がやらなきゃいけない、お仕事』
 女悪魔がそう言って、送り主の欄に書かれた名前を読み上げてくれた。
 聞き取れなかった。
 人間の耳では聞き取れない。人間の口では発音出来ない言語なのだ。
『報酬、5億円くらい前借りしちゃってるでしょう?』
「5億円……って、まさか」
 太一は息を飲んだ。心当たりがない、などとは言えない。
「魔界の、帝王……様?」
『そういう事。帝王様直々の御指名よ。ま、開けてごらんなさいな。大丈夫、今回はいきなり狐ちゃんになったりはしないから』
「確かに……1等の宝くじなんて、ただでくれるわけないですよね」
 宝くじ1等が当たりますように、などと願ってしまったのは太一自身である。
 初詣の代わりの、遊びのような儀式であった。
 だが願いは叶ってしまった。叶えてくれたのは日本の神仏ではなく、魔界の帝王である。
 その帝王が、送りつけてきた荷物。
 太一は包装を剥いた。
 1等の宝くじの代償、とも言うべき物が出て来た。
 太一はそれを両手で広げ、掲げ、まじまじと見つめた。
「これ……海パン? ですよね。どう見ても」
『つまりは穿いてみろという事よ』
 女悪魔が言った。
 穿くと何が起こるのか、なんとなく予想はつく。だが拒否権など、あるはずがない。
 5億円は、すでに受け取ってしまったのだ。


 穿いた瞬間、海パンは消え失せた。
 全裸になってしまった、わけではない。むしろ逆である。
 消え失せたと思われた海パンは、実はアメーバの如く伸び広がって、太一の全身を包み込んでいた。
「きゃああああああああ!」
 黄色い悲鳴を、太一は迸らせた。女の子の声だった。
 魔界の帝王から送られて来た男性用水着は、今や水着でも何でもない、わけのわからぬ物体と成り果てて太一の身体を、頭から爪先に至るまで完全に包み込んでいる。顔面にも密着しているが、呼吸は出来るし悲鳴も出せる。
 アメーバ状の謎めいた物体の下で、胴がくびれて尻が安産型に膨らみ、両脚がすらりとシェイプアップされてゆく。
 胸が、たわわに膨らみながら激しく揺れる。
 48歳の中年男が、若く瑞々しい『夜宵の魔女』へと変身を遂げていた。
 だが身にまとっているのは、いつもの紫系統の衣装ではなく、元々は海パンであった謎の物体である。
 それが全身を、1ミリの露出もなく覆い尽くしている……わけではなかった。艶やかな黒髪だけは、1本残らず溢れ出している。
 その黒髪をかき分けるように、角が生えた。
 愛らしい耳朶が、翼のようでもある鰭に変化しながら、角と一緒に伸びてゆく。
「なっ……ち、ちょっと何なんですかぁあコレ!?」
『この程度の変身、今更うろたえるものでもないでしょうに』
「慣れませんよぉ、こんなの……」
 泣き言を紡いでいるのは、新米魔女の可憐な唇ではなく、怪物の鼻面である。
 美貌の下半分が大きく迫り出して牙を剥き、竜の顔面を成していた。
 全身を覆う謎の物体が変化している、わけではない。内包されている魔女の肢体そのものが、今や人型の竜、とも呼ぶべき異形に変じつつあるのだ。
 左右の細腕は、肘から先が完全な鰭と化している。たおやかな五指が、失われてしまった。
 竜の中でも、水棲の竜。海竜である。
『人魚が人間になるお話、この世界にもあるでしょう? あれと同系統の呪力ね』
 女悪魔が、説明をしてくれている。
 その間にも、優美な背中の曲線に沿って、大型の背鰭が広がってゆく。
『まあ、呪いの中でも比較的たちの悪くない方よ。少なくとも、妖精の呪いよりはマシね』
「違いがわかりません……」
 太一の泣き言に合わせ、大蛇のようなものが畳の上でのたうつ。
 白桃を思わせる尻の双丘、その間から海竜の尻尾が生え伸びていた。
 しなやかな美脚の末端も鰭と化し、バタ足で泳ぐにはまあ便利そうではある。
 だが歩行は困難を極める、人型海竜の牝。
 それが、今の松本太一であった。
「こ、これが5億円の代償……私、5億円かけて、こんな身体になっちゃったんですかぁ……」
『ダイエットに失敗したセレブみたいな事言ってないで。ほら、仕事に行くわよ』
「……こんな格好で私、一体どんなお仕事やらされるんですか?」
『海の家のお手伝いよ。魔界は今頃、夏の真っ盛り……と言っても突然、真冬になっちゃったりする時もあるから要注意ね』
 何を注意すればいいのか、などという疑問を太一はもはや口にしようとは思わなかった。
「あの、海の家って……魔界の、帝王様が?」
『手広く商売やってる人なのよね。ま、しっかり働いて帝王様に顔と名前覚えてもらいなさいな。そうすれば人間界で失業しても、魔界でお仕事もらえるかも知れないわよ』
「私の、人間界でのお仕事はどうなるんですかぁ……明日も、会社行かなきゃいけないんですけど」
『人間界での1日が、魔界での1年間……そのくらいの時間調整は、してもらえるから大丈夫よ』
 魔界の海の家に、松本太一を迎え入れる準備は万端、整っているという事である。
 太一は、溜め息をつくしかなかった。
 魔界であろうが海の家であろうが、行くしかない。働くしかない。
 5億円は、すでに受け取ってしまったのだから。