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夏夜のすべて
最寄り駅に辿り着き改札を出ると、ドーン、と大きな音が響いてきた。音に誘われるように夜空を見上げた青霧ノゾミの視線の先で、色とりどりの光が大きな花を咲かせる。思わず彼は立ち止まり、口元をほころばせた。花火大会の開始時刻はもう既に過ぎており、打ち上げも始まっていたらしい。
道行く人は皆、花火に魅入られたように柔い笑みを浮かべている。連れ立って花火大会を訪れたらしい浴衣姿の人々が、楽しげに身を寄せ合っては空を見上げていた。それを横目に見つつ、ほんのわずか、彼らを羨む気持ちがわいた心を振り切るように、ノゾミは目的地へと急ぐ。
穴場だと聞いた場所は花火大会の会場から少し離れた小高い丘の上だ。丘の上に設置された展望デッキには幾人かの恋人同士の姿があった。そこからもう少し進み遊歩道を行くと、道沿いに設置された木製のベンチを見つけた。ノゾミは、慣れない下駄で少し疲れた足を投げ出してそこに腰掛けた。
鼻緒が当たっていた足指の間を撫でながら、乱れた裾をそっと直す。初めて身に着けた浴衣は、足元がすかすかするので涼しいのだが、いつもの歩幅で歩けず少々難儀だった。いつも通りの歩幅では、すぐに裾が乱れてしまうのだ。駅の階段ではうまく上る事が出来ずに手摺りに掴まり一歩ずつゆっくり上らざるを得なかった。
濃紺の雪花絞りの浴衣は、涼しげで控え目な色合いが気に入って購入したものだ。見様見真似で着付けてどうにかそれらしくなったが、似合っているのかどうかは、正直よくわからない。
一通り浴衣の乱れを直し終えたノゾミは、浴衣に袖を通した時の高揚を思い返した。全身が映る鏡とにらめっこし、おかしな格好になっていないかと前から後ろから横からと何度も自分の姿を確かめた時の緊張と期待が蘇る。
待ち人が来るかどうかもわからないのにはしゃぐ心を窘めようとするが、期待を全て捨てるのは難しい。
ドン、と重い音が響き、足元に視線を落としていたノゾミが顔を上向けると、細く白い光が上空へと昇っていく所だった。尾を揺らしながら夜空を駆け上がった光は、彼の視線の先で大輪の花へと姿を変える。
夜空に花が咲くのに少し遅れて、遠くに人々の歓声が聞こえた。薄雲が所々に浮かぶ暗い空が立て続けに打ち上げられる花火で彩られるのを、ノゾミは静かに見上げた。
彼の鮮やかな青い瞳には、光の粒が映り込んでいる。眼差しの先で花火が弾ける度、ゆらり揺らめく光が彼の瞳を撫でた。
(……綺麗だ)
空が鮮やかな色で染められる美しさに、ノゾミは心中で感嘆の息をもらす。と、同時に、彼と一緒に見たら、どんな風に見えただろう、と夢想した。
待ち人は未だ現れない。そもそも、現れるかどうかすら、怪しいものだ。
「先生!」
翌日に近場で花火大会が催されると知ったノゾミは、頂戴してきたフライヤーを手に伊武木リョウの元を訪れた。昼休みの時間帯だったが、伊武木は研究室の自席で資料に目を通しており、ノゾミの来訪に顔を上げ彼に笑みを向けた。
「ノゾミ、どうしたんだ」
「明日、近くで花火大会があるんだって!」
ふうん、と呟いた伊武木は途端に興味をなくしたようで、再び資料に目を落としてしまう。そんな伊武木に駆け寄り、手にしたフライヤーを彼に見せる。ほらこれ、と言いながら指で示し伊武木を見上げるも相手の反応はイマイチだ。
ノゾミが、むうと唇を尖らせると、伊武木はいよいよ困った顔で首を傾ける。
「ノゾミ……」
「俺、花火大会行った事ない」
「そう、だね」
「行きたい」
「うん……」
「一緒に、見たい……花火」
消え入りそうな声でノゾミが言う。伊武木は眉根を下げたまま、俯いてしまったノゾミを見下ろして彼の頭を撫でた。そうして、善処しよう、と搾り出すような声で呟く。
「ほんと!?」
弾かれたように顔を上げたノゾミの表情は、先程とは打って変わって喜びに満ちていた。やったー! とフライヤーを手に万歳をしたノゾミを落ち着かせようと伊武木が口を開く。
「ノゾミ、善処というのはね――」
「わかってる」
ノゾミの声色に虚を衝かれた伊武木が言葉を切る。やや目を瞠っている伊武木を振り返ったノゾミは、悲しげにも見える笑みを彼に向けた。
「わかってるよ。先生」
花火に見惚れている内に時間はあっという間に過ぎた。ふと腕時計の針を確かめると、あと十五分ほどで花火大会が終了する頃合だ。
駅前で貰ってきたプログラム表に目を落とすと、最後の十五分は『百花繚乱』と記されている。どんな花火が打ち上げられるのかその名からは想像がつかず、ノゾミはやおら首を傾けた。
と、その時、ドン、ドン、と、連続して花火が打ち上がる音が聞こえた。
「わぁ……きれい」
今日のプログラムの中で最大規模の打ち上げが始まる。菊や牡丹、柳に冠菊。その美しさに目を奪われるノゾミの背に、待ち侘びた声が投げかけられた。
「お待たせ、ノゾミ」
驚いて振り返ると、ノゾミの傍らにはスーツ姿の伊武木の姿があった。
「……リョウ先生」
驚きでうまく言葉が出てこない。
彼の姿を見詰める内、思い出したように心臓が早鐘を打ち始める。それに引きずられるように胸がじわじわと熱くなるのをノゾミは意識した。
(来てくれたんだ……)
待っていたのだ、ずっと。来てくれるかどうかわからない、寧ろ、来ない可能性の方が高いと思っていた。彼の専門である異能の能力の研究は、つい先ごろ入手したサンプルからの抽出実験が大詰めで、この所彼はずっと忙しくしていたのだ。
子どものおねだりに付き合う暇など、なかっただろう。
「……来ないと、思ってた」
ノゾミがそうこぼすと、伊武木はノゾミの心を見透かすように笑う。
「うん。間に合うように来るの、大変だった」
彼はノゾミの隣に腰を下ろした。間に合って良かった、と小さく呟きながら。
プログラムはフィナーレに向けて勢いを増している。大小さまざまな花が咲き乱れ、断続的に打ち上げ音が響き渡る。花火を見上げていると、遠くにあるその熱量がここまで届くように思えた。顔が火照っているように感じるのはもしかしたら違う理由で、気のせいではないのかもしれないけれど。
隣で伊武木が身じろぐ気配がして、ノゾミはそっと視線を彼に向けた。伊武木は空ではなく、ノゾミを見ていた。そうしてそっと唇を動かすが、打ち上げ音に掻き消されて彼が何と言っているのかわからなかった。
聞こえない。身振りでそう伝えると、ノゾミの耳元に伊武木が口を寄せる。
「浴衣、似合ってるよ」
悪戯っぽく囁かれた言葉は、ノゾミにしてみれば劇薬を流し込まれたも同然だ。ぎゅっと目を瞑ったノゾミは俯いて下唇を噛んだ。胸が、苦しい。
呼吸の仕方を忘れてしまったようなノゾミの耳に、「花火、見なくていいの?」と揶揄するような声が届く。先生だって、と言いたかったが、ノゾミの口は引き結ばれたまま開く事はなかった。
花火大会なんて、本当はどうでも良い。そんなものは単なる口実だ。
二人でいたかった。研究所の外で、二人で。
たったそれだけの、だがノゾミにとっては全てとも言えるささやかな希望だった。
ふ、と伊武木が小さく笑い、ノゾミの頭をさらりと撫でた。すぐに離れていった彼の手に名残惜しさを感じながら、ノゾミは再び花火を見上げる。今、この瞬間を目に焼き付けるように夜空を見上げたノゾミの口元には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
「綺麗」
「え?」
「きれい!」
子どもじみた言い方でノゾミが叫ぶと、伊武木も同じように「そうだね!」と言って破顔した。
一人で見た時も綺麗だと思った。でも、二人で見る花火の方が綺麗に思えた。
最後の花火が打ち上がり、花火大会の終了を告げる放送が流れても二人はその場に留まっていた。
「きれいだった……」
ノゾミは感じ入ったようにひとりごち、深く息を吐き出した。
「先生、――」
隣に座る伊武木に向き直り、ノゾミは今日の礼を伝えようとした。きっと、ここに来るのは本当に大変だった筈だ。来てくれてありがとう、一緒に花火を見られて、一緒に過ごせて嬉しかった――そう口にしかけたノゾミの耳に、ぐう、と間の抜けた音が聞こえた。
「……ふ、ふふっ」
勢いを削がれたノゾミは、堪え切れずに笑いをもらす。
「先生、お腹減ってるの?」
「……そういえば、今日はろくに食べてないな」
バツが悪そうに頭を掻いた伊武木がそうこぼす。彼が食事をとり忘れる事は珍しい事ではないが、今日は食事をとる暇もなかったのだろう。
「そろそろ帰ろう、先生」
ノゾミは勢いをつけて椅子から立ち上がり大きく伸びをした。立ち上がる気配のない伊武木を振り返ると、ノゾミは少し照れたように彼から視線を逸らし、改めて笑顔を浮かべて彼に向き直る。
「今日はありがとう」
伊武木が目を細め、酷く柔らかい笑みでノゾミを見詰めるので、ノゾミはいよいよ照れ臭くなって慌ただしく口を開く。
「食べ物の屋台が出てたから、見て帰ろうよ。まだやってるのかな」
「うーん、どうだろう。こういう所の屋台は店仕舞いが早いからなぁ」
言いながら、伊武木も立ち上がる。少し名残惜しさを感じそっと俯いたノゾミの視界の端で、伊武木が時間を確かめる様子が映った。
研究所の外で共に過ごせる時間は限られている。それもあとほんの少しで終わってしまうのだと思うと、矢張りどうしても寂しく思えた。
「屋台じゃなくても、何か食べて帰ろうか。買って帰っても良いけど」
「え……?」
驚いて顔を上げたノゾミに、伊武木が訊ねる。彼の手には仕事用の携帯電話があり、伊武木はそれを背広の内ポケットにしまいこんだ。
「何が食べたい?」
ああ、この人には敵わない。本当に、ノゾミの考える事など全てお見通しなのだ。
まだ帰りたくない――そんな子どものわがまますら。
「……ノゾミ?」
先に歩き出していた伊武木が、立ち尽くしたままのノゾミを振り返っている。ぎゅうと胸が締め付けられて堪らない。今すぐ、彼に飛びつきたくなる。そんな気持ちを振り払うようにぐっと手を握ったノゾミは、たこやき食べたい、と殊更子どもっぽく呟いて一歩踏み出した。
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