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<東京怪談ノベル(シングル)>


海水浴の季節


 海の家が、危機を迎えているらしい。
 騒音が問題になったり、羽目を外しすぎた若者たちが近隣の住民に迷惑をかけたりで、規制を強化せざるを得ないのが現状であるようだ。
 音楽を流してはならない。ダンスも禁止、酒の販売も禁止。
 やり過ぎではないか、という声は当然ある。海水浴客が激減し、廃業しなければならなくなった海の家もあるらしい。
 海岸がゴミだらけにならないのは、まあ悪い事ではないのではないか、と松本太一は思っている。
 以上、全て人間界での話だ。
 魔界の海水浴場には、規制など存在しない。
 音楽は常に、嵐のような大音量。若者たちは酒を飲みながら踊り狂い、羽目を外しまくる。海水浴場近隣の住民にも、大いに迷惑をかける。迷惑をかけられた人々は、官憲に訴えたりはせずに実力行使で報復を行う。
 松本太一が海の家で働き始めた、その日。都会から来た竜族の若者らが、地元の漁師である蟹男の自宅前にゴミを放置した。蟹男は即日、その若者たちを切り刻んで海にばらまいた。
 太一の先輩として働いていたオークが、海水浴客の中から女の子を選りすぐって盗撮していた。
 盗撮された娘たちの中に、鬼族の女戦士がいた。彼女は太一の先輩を捕えて解体し、仲間たちと楽しいバーベキューパーティーを開いた。
 魔界の海水浴場は日々こんな感じで、太一の知る限り20名近くが死んでいる。海難事故以外でだ。
 その程度で営業が止まる事もなく、海の家は今日も大盛況である。
 人魚に半魚人、オークにゴブリン、エルフとドワーフ。竜族に鬼族、獣人、人型キメラ、夜叉と羅刹。悪魔、堕天使、吸血鬼や死神。
 様々な種族の海水浴客が、海の中を楽しげに漂いながら焼きそばを食い、ラーメンやカレーライスを食らい、ビールを飲んでいる。海中で、普通に汁物や液体を摂取しているのだ。
 魔界の海水浴場は、空と海岸と水中の判別が曖昧であった。どこまでが海の家で、どこからが遊泳区域なのかも、よくわからない。
 とにかく松本太一は、注文された品を運びながら、ひたすら泳ぎ回っていた。
 今の太一は、人魚の如く優美に泳ぐ海竜娘である。
「はい、お待たせいたしましたぁ。焼きそばと海おでん、生ビールになりまぁす」
「おおう来た来た、美味そー!」
「ぐへへへ、俺はおめぇを喰っちまいてえなあ姉ちゃん。今日のダンスイベント、一緒にどうよ?」
 下級邪神族と思われる客が、嫌らしく触手を絡めてくる。
 さりげなくかわしながら、太一は愛想笑いを振りまいた。
「ごめんなさい、私その時間もみっちり仕事入れられちゃってるんですよぉ。じゃ、ごゆっくりどうぞー」
 まず注文を聞かねばならない。注文されたものを、運ばなければならない。馴れ馴れしく話しかけてくる客とも、会話をしなければならない。
 忙しい、とは太一は思わない事に決めていた。
 自分はすでに、5億円もの給料を前借りしてしまったのだ。5億円分、働かなければならない。
「いやあ、よく働くねえお嬢ちゃん。助かるよ」
 海の家の店長が、七輪でクラーケンの切り身を焼きながら言う。
「雇うんなら、やっぱ真面目な女の子だなあ。男はダメだ。水着の姉ちゃんのケツばっか見てて、注文もろくに聞きやしねえ」
『貴方だって、そうでしょうに。よくもまあ店長になれたものね』
 太一の頭の中で、女悪魔が言った。
『この海の家は大丈夫? シャワールームに、カメラとか仕掛けてあったりしないでしょうね?』
「勘弁して下さいよ姐さん。そんな事したら、帝王様にシメられる前に、あんたに殺されちまう」
 普段、太一にしか聞こえない声を相手に、この店長は普通に会話をしている。
 外見は、シャツと腹巻とステテコの似合う、冴えない中年男である。
 太一は、とりあえず訊いてみた。
「あの……お知り合い、なんですか?」
「おう。姐さんには昔、いろいろとお世話になってねえ」
 店長が、懐かしげな声を発した。
「やんちゃ坊主だった俺も姐さんのおかげで、こんなふうに帝王様から店1軒、任せていただけるまでになったんよ。ほい賄い出来たよ、お待ちどお」
「あ、ありがとうございます」
 焼きイカ、と言うかクラーケンの切り身をタレで焼いたものに、太一はかじりついた。
 程よく柔らかく弾力のある歯触りも、甘辛いタレの風味も、絶品である。
「美味しいです……タレの材料が何なのか、気にならない事もないですけど」
「まあ、そいつは聞かない方がいい。それより嬢ちゃん、食って一息ついたら、ちょいとお使い頼むよ」
「わかりました。ええと、買い出しですか?」
「まあ似たようなもんだ」
 言いつつ店長が、手早く焼きそばを作ってくれた。
「体力仕事になるから、炭水化物ちょいと多めにな」
「ありがとうございます……」
 焼きそばに入っているのが何の肉であるのかも、恐らくは聞かない方が良いのだろう。


 20代後半の頃、であっただろうか。
 上司の趣味に付き合って、釣りを嗜んだ事がある。
 印象深かったのは、鮎の友釣りだ。
 釣り人に酷使される囮鮎が、会社に振り回されている自分の姿と重なって、太一としては全く楽しめなかったものだ。
 配置の関係でその上司とも疎遠になり、釣りなど全くやらなくなった。
 あれから20年以上経った今になって、太一は友釣りをやらされている。釣るべき獲物は、しかし鮎ではない。
「何、何! 何なんですかぁあああアレは!」
 悲鳴を上げながら、太一はひたすら泳いで逃げた。
 海水浴場から遠く離れた、沖合の海域である。囮鮎の役割を、太一自ら果たしているところだ。
 鮎は、縄張り意識の強い魚である。
 囮鮎に複数の釣り針を引きずらせて、野生の鮎の縄張りに突入させる。すると野生の鮎たちは、囮鮎に攻撃を仕掛けてくる。そして釣り針に引っかかってしまう。これが友釣りである。
 今、鮎などとは比べ物にならないほど凶暴な怪物が牙を剥き、囮鮎役の海竜娘を追いかけて来ているのだ。
『あれはリヴァイアサンといって、煮ても焼いてもお酒に合う生き物よ』
 女悪魔が、呑気な事を言っている。
『お刺身はちょっと、おすすめ出来ないわね』
「こ、このままじゃ私が、お刺身って言うか踊り食いされちゃいます……!」
 鮎の友釣りと違って、太一の身体に釣り針が仕掛けられているわけではない。
 追いかけて来るリヴァイアサンを、このまま海の家近くの生け簀まで誘導するのが、太一の仕事だ。
『リヴァイアサンってね、雌しかいないのよ』
 女悪魔が、呑気に蘊蓄を語る。
『だから養殖には特殊な技術が必要で、それを持っているのは魔界の帝王様だけ。逃げ出したリヴァイアサンの捕獲は、だから帝王様が直々に下さる栄誉あるお仕事なわけよ』
「え、栄誉はあっても命がなくなります! このままじゃ」
 太一は懸命に、鰭状の美脚をばたつかせた。その足元付近で、リヴァイアサンの上下の牙がガチッ! と閉じてぶつかり合う。
『まあ雌しかいない上に、その心は性悪な年増女そのもの……貴女みたいな可愛い娘を見ると、怒り狂って殺さずにはいられなくなるのよね。そんな性質を利用した、昔からの由緒正しいリヴァイアサン漁法。しっかり務めなさいな』
 性悪な年増女なら自分の頭の中にもいる、と太一は危うく思ってしまうところであった。
 生け簀までは、まだ遠い。余計な事を考えず、ひたすら泳ぐしかなかった。