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狼は吼え、猟人は潜む。そして楽聖は歌う。
「止めてくれ」
ニコラウス・ロートシルトが言うと、老執事は黙って車を停止させてくれた。
運転手が龍臣であれば、止めてはくれなかっただろう。彼は、危険があると判断すれば平然と主の命令を無視する。
だが、この老執事は違う。いくらか危険があろうと、ある程度はニコラウスの自由にさせてくれる。
「おい、親父……」
後部座席でニコラウスの隣に座っていた龍臣ロートシルトが、運転席の老人を咎めようとする。
その時には、後部座席のドアは開いていた。
ニコラウスは路上にふわりと飛び出し、無警戒に歩み寄って行った。道端で倒れている、その男に。
ボロ布をまとう、死体のような男。もはや死臭にも等しい臭いを発しているが、辛うじてまだ生きてはいるようだ。
ウィーンの、最も人通りの少ない区域である。浮浪者の類が倒れているのは、珍しい事ではない。
「どうしました。お身体の具合が、悪いのですか?」
ニコラウスは身を屈め、まずは話しかけてみた。
「私の知り合いが、この近くで診療所を開いています。差し出がましく恐縮ですが、よろしければそこまで」
「い……いえ、病気や怪我ではないのです……」
死体寸前とも言うべき男が、声を発した。
「ただ……お恥ずかしい話ですが、もう何日も食べておりません……どうか、水と食べ物を……いえ、水は要りません」
弱々しく言葉を発する口が、大きく裂けた。無数の牙が、頬を切り裂いて生え伸びる。
「血を……血と、肉を……貴方様の、その若く瑞々しい血と柔らかな肉を、どうか私に!」
血走った眼球から涙を飛び散らせながら、男は人間ではなくなっていた。
ボロ雑巾のような服が破け、鱗のある皮膚が、大量の筋肉と一緒に盛り上がって来る。
牙が、カギ爪が、ニコラウスの細身を襲う。
外見は確かに14歳、オーストリア人の美少年である。確かに美味そうには見えるのだろう、とニコラウスは思う。
だが血の瑞々しく肉も柔らかなこの身体は、10代前半で成長を止めてしまった70歳の老人のそれなのだ。
「……こんなものを食べては君、お腹を壊すよ?」
ニコラウスがそんな事を言っている間に、銃声が轟いていた。
怪物と化した男の巨体が、路面に倒れ沈む。その頭部……眉間の辺りに、1つだけ銃痕が穿たれている。
「ニコラウス様、そいつから離れて下さい」
龍臣が、いつの間にか車から降りて来ていた。その右手に握られた拳銃が、微かな硝煙を立ち昇らせている。
「まだ生きてるかも知れません」
「いや……お前が、一発で仕留めてくれたようだ」
凄まじい悪臭が、ニコラウスの小さな鼻孔を容赦なく襲う。
倒れた怪物の巨体が、急速に腐敗しながら干涸びていった。
腐臭を発する干物のような屍が、ひび割れ、崩れてゆく。
まともな生き物の死に様、ではなかった。
「やはり……か」
呟くニコラウスに、龍臣が歩み寄って来る。
「ニューヨークで、こういう死に方をする化け物を見かけましたが……ニコラウス様も、ご存じみたいですね?」
「馬鹿げた噂話であって欲しかった」
馬鹿げた噂話に関して、いろいろと調べた結果、ニコラウスはこうして命を狙われた。
ここで車を止めなかったら、男は怪物と化して、どこまでも追いかけて来ただろう。
「……人を怪物に変えてしまう薬が、あるらしい。そんなものの売買をしている人々が、このウィーンにもいるという話さ」
「そいつは……確かに、馬鹿げた話ですが」
言いつつ龍臣が、車の方を睨む。
老執事が、いくらか億劫そうに運転席から出て来たところである。
「どういうつもりだ親父。こんなのがニコラウス様のお命を狙ってる、それを知ってて車を止めたんだろう? ニコラウス様もです。わざわざ御自分から、危険な目に遭うような事を」
「このような輩が、ニコラウス様のお命を狙っている。いずれ、どこかで戦いになる」
老執事の言葉に合わせるかの如く、いくつもの人影が、ニコラウスたちを取り囲んでいた。
「それならば……人通りのない、この辺りが良い」
痙攣しながら、揺らめく人影たち。
「あ……あぁあ……ろ、ロートシルト家の……お坊ちゃん当主……」
「あ、あんたを殺せばぁ……もっと、クスリを……もらえるんだよおぉぉ……」
「だから死んでおくれよおおおおお」
口々に呻きながら全員、人間ではなくなってゆく。
龍臣が、舌打ちをした。
「野良犬どもを、毒入りの餌で飼いならしてる奴らがいるって事か」
「どうするね? 龍臣よ」
老執事がニヤリと笑いながら、老人らしく手にした杖を軽く掲げる。
否、杖ではない。鞘を被った、日本刀だ。
「お前の手に負えぬと言うのなら、私が老骨に鞭打って……美術品による殺戮を、披露しても良いが」
「引退した奴は引っ込んでろよ」
言いつつ、龍臣が引き金を引いた。ろくに狙いを定めずに1度だけ。ニコラウスの目には、そう見えた。
だが轟いた銃声は2つ、いや3つか。
メキメキと痙攣しながら、一斉に襲いかかって来た怪物たち。その中で最もニコラウスに近く迫った3体が、硬直した。
彼らの眉間に、額に、側頭部に、銃痕が生じている。
硬直し、立ち尽くしたまま、怪物3体が屍に変わり、腐り干涸びてゆく。
なおも淡々と引き金を引きながら、龍臣は言った。
「大人しくしろよ野良犬ども、一発で脳みその機能を止めてやる……薬や毒ガスよりも、楽に死ねるぞ」
あの時、自分は死んだ。龍臣ロートシルトに、撃ち殺された。
「今の俺は、もう死んでる……だから恐いものなんて何にもないんだぞっ」
若干やけくそになっているだけだ、と自覚はしながら、フェイトは引き金を引いた。
左右それぞれの手で、拳銃が火を噴いた。2つの銃口から、弾丸の嵐がフルオートで迸る。
薬物で巨大化した筋肉を獣皮で覆い、剛毛を生やした者。鱗をまとった者。外骨格を隆起させた者。翼を広げた者、無数の触手を伸ばした者。
様々な姿の怪物たちが、フェイトに襲いかかりながら銃撃の暴風に薙ぎ払われ、砕け散った。
体液の飛沫と肉片の雨が、研究施設内部をビシャビシャッと汚してゆく。
ヨーロッパ某国、湖のほとりに建てられた研究施設。とある製薬会社の所有物で、当然ながらその会社の了承を得る事もなく、こうして襲撃に及んだわけである。
このような怪物たちを、施設内で放し飼いしているだけでなく、世界各地で大量生産している製薬会社。
克明に調べ上げるまでもない、とフェイトは思う。背後には間違いなく、あの組織が存在している。
「虚無の、境界……!」
フェイトは引き金を引いた。左右2丁の拳銃が、虚しい音を発する。弾切れだった。
それを待っていたかのように、怪物たちが襲いかかって来る。
カギ爪、棘のある触手、甲殻類のハサミ……様々な異形の攻撃が、あらゆる方向からフェイトに向かって一閃する。
元々は人間であった者たち、などと考えている余裕はない。
フェイトは身を翻した。
心臓を狙って突き込まれて来たハサミが、胸板と左肩の中間あたりを高速でかすめる。黒いスーツがざっくりと裂けたが、肉体は無傷だ。
カギ爪が右肩を、棘のある触手が脇腹をかすめる。フェイトの全身あちこちでスーツが裂け、いくつもの固く小さな物体がこぼれ落ちる。掌サイズの、細長い箱。
スーツの内側に、大量に収納しておいた、予備の弾倉である。
フェイトは念じた。
収納しておけなくなった弾倉たちが、フェイトの周囲で、渦を巻いて浮遊する。
そのうち2つが、左右の拳銃に吸い込まれ、装填される。
龍臣ロートシルトがここにいたら、装填などする暇もなく全て撃ち落とされているところだ。
そんな事を思いながら、フェイトは両の拳銃をぶっ放した。
銃撃の嵐が吹き荒れた。
カギ爪が折れ、ハサミが砕け、触手がちぎれた。粉砕された怪物たちが、飛び散った。
装填されたばかりの弾丸が、凄まじい勢いで減ってゆく。
無駄弾を撃ち過ぎだ。だから、すぐに弾切れを起こす。龍臣には、そう言われた。
ならば、どうするか。無駄弾を撃たない。本来ならば、それが正解なのであろう。
だが、フェイトの選んだ答えはこれだ。いくらか無駄弾を撃っても、弾切れが起こらぬ状態を用意しておく。つまり、予備の弾倉を大量に携行する。
「アメリカ仕込みの物量作戦だよ、文句あるかっ!」
叫びながら、フェイトはとっさに跳躍した。
その足元で、火花が跳ねた。
「銃撃……!? いやまさか」
気のせい、ではない。
床に転がり込んで身を起こしながら、フェイトは見た。
怪物たちの中に、小銃を持った一団がいる。
持っているだけではなく、構えている。カギ爪の生えた手で、水掻きを備えた五指で、触手状の指で、器用に銃身を保持しつつ引き金を引いている。
いくつもの銃口が、フェイトに向かって一斉に火を噴いた。
身を隠す場所もない。襲い来る銃撃の嵐を見据えながら、フェイトは念じた。
左右の瞳が、緑色に燃え上がる。
エメラルドグリーンの眼光と共に、念動力の塊が生じた。それがフェイトの眼前で、不可視の防壁を成す。
そこに、怪物たちの銃撃がぶつかって来る。
フェイトの眼前で、空間に亀裂が生じた。蜘蛛の巣状の亀裂が、空間に広がってゆく。
念動力の防壁が、ひび割れてゆく。
「くっ……」
僅かでも気を抜いたら、ひび割れた防壁は砕け散る。怪物たちが弾切れを起こしてくれるまで、フェイトの気力が果たして保つのか。
その状況を破ったのは、一発の銃声だった。
火を噴き続ける怪物たちの小銃。その轟音を断ち切るかのような、鋭い銃声。
小銃をぶっ放していた怪物の1体が、いきなり倒れた。頭部のどこかに、銃弾を撃ち込まれたようである。
倒れた怪物が、腐敗し、干からび、ひび割れてゆく。
「物量作戦を否定するつもりはないが……」
声がした。それと共に、鋭い銃声が立て続けに響く。
小銃を持った怪物たちが、ことごとく倒れた。倒れた数と銃声の回数が、ぴたりと一致している。
「しかしフェイト……お前のはアメリカ流の物量作戦と言うより、日本流のカミカゼだな。まさか1人で突入するとは」
「あんたか……」
龍臣ロートシルト。
その姿は見えないが、存在は感じられる。正確無比な狙撃が、彼の存在そのものであると言える。
「武装した怪物どもの巣窟に、日本人の若造1人を放り込む……それがIO2アメリカ本部のやり方か」
恐らく拳銃ではない。銃身の長い、狙撃用のライフルであろう。
施設内のどこかで龍臣は、その引き金を淡々と弾きながら、淡々と喋っている。
「あちらでも日本人差別が横行している、と。そういう事じゃないのか?」
「俺1人だけで大丈夫、って事で派遣された。俺自身は、そう思ってるよ……結局、大丈夫じゃなくて、あんたに助けてもらう事になったけど」
「ニコラウス様のご命令でな。別に、お前を助けに来たわけじゃあない」
そんな会話をしてる間に、怪物は1体もいなくなっていた。全て、頭部を撃ち抜かれた屍に変わり、腐り干涸び始めている。見える範囲内では、だ。
「先へ進もうか。この奥で、例の薬が大量生産されている」
龍臣が言った。
「頼むぞフェイト。今みたいな調子で、せいぜい派手に暴れて……弾除けに、なってくれ」
聖母を讃える内容の歌が、清らかに響き渡る。
欧州の、とある大銀行。
屈強なガードマンが全員、床に倒れていた。
昏睡状態である。死んではいないものの、医師による適切な処置が必要な状態だ。
「もちろん救急車は呼んであげる。病院で何日か、ゆっくり休むといい」
同じく倒れている頭取に、ニコラウスは優しく語りかけた。
「その間に再編成は済ませておく。この銀行は、私が直轄する事になるだろう。君の今後に関しては、まあ考えておくよ」
「ぐっ……ぅ……こ、この……魔物がぁ……っ」
立ち上がれぬまま、頭取が呻く。
頭取、それにガードマンたち。倒れている者全員の上に、小さな光の塊が浮遊していた。
飴玉ほどの球形に固まった、光。
「魔物? 今更、何を言っているのかね君は」
ニコラウスは微笑んで見せた。
天使の笑顔、天使の歌声、と人は言う。
天使の歌声を聞いた者は、しかし皆こうなるのだ。生命力を、光の飴玉という形で抜き取られてしまう。
無論そんな事にならぬよう、力を制御して歌う事は出来るが、それには尋常ならざる修錬が必要であった。
修錬の末、人の命を吸い取ったりしない歌を、歌えるようになったのだ。
それこそが、まさしく歌である、とニコラウスは思う。
「君たちにも、私の歌を聴いて欲しかったよ……こんなものを、歌とは呼べないからね」
ニコラウスは、右手の人差し指を立てた。
光の飴玉が全て、その指先に集まって来た。集まり、固まり、巨大な光球を成して輝きを増す。
「こんな事を言いたくはないけれど、私がその気になれば……君たちに、目覚めの来ない眠りを与える事も出来た。それは、わかってもらえたと思う」
とある製薬会社に、この銀行から金が流れ込んでいた。
その製薬会社の研究施設は今頃、ニコラウスが名指しで依頼したIO2エージェントによって潰されているだろう。念のため、龍臣を加勢に行かせておいた。
あとはニコラウス自ら、こうして資金源を断ち切るだけである。
「愚かな事を……ニコラウス・ロートシルト……お前は、あの御方を敵に回してしまったのだぞ……」
頭取が、呻きながら意識を失ってゆく。
「我らを……大いなる霊的進化へと、導き給う……偉大なる、滅びの聖女を……」
ニコラウスはもはや聞かず、巨大な光の飴玉に、そっと唇を触れた。
人体に戻す事は出来ない。責任を持って、摂取するしかないのだ。
狙撃用ライフルを左肩に担いだ龍臣が、右手で携帯電話を折り畳んだ。
「資金源の方は、ニコラウス様が片付けて下さったらしい。俺たちの仕事も、とりあえず完了だ」
「とりあえず……ね」
龍臣と2人で湖畔に佇んだまま、フェイトは呟いた。
工場は破壊した。が、この製薬会社の背後に在るのが本当に虚無の境界であるならば、資金源や工場の1つ2つを潰した程度で、果たして終わるものなのか。
「ニコラウス様がな、お前を招いて直々に労いたいそうだ」
龍臣が言う。
「来るか?」
「……やめておく。労ってもらうほどの事は、してないからね」
フェイトは背を向けた。
「虚無の境界が相手なら、きっと長い戦いになる……また会えるよ。あんたとも、ニコラウスさんとも」
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