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黒い灯火
ドゥームズ・カルト本部施設、大僧正の間。
その床に、真言の符が3枚、それぞれ1本ずつのクナイによって鋲留めされ、三角形を成している。
三角形を成しながら、電光を発している。
3点から発生した電撃の光が、バリバリと荒れ狂いながら立体的に結合し、ピラミッドを形成していた。
ピラミッド型の、電光の檻。その中に閉じ込められている何者かの姿は、よく見えない。
とにかく穂積忍が、少し離れた場所から、そちらに向かって独鈷杵を掲げている。帝釈天の真言を、唱えながらだ。
「ナウマクサマンダ、ボダナン……インダラヤ、ソワカ」
ピラミッド型を成す電撃光が、さらに雷鳴を発しながら輝きを増す。
閉じ込められている者の姿が、その光の中に浮かび上がった。
1人の女、である。
ピラミッド内部で、空気が揺らいでいる。目に見えるほどの揺らぎが、優美な女性のボディラインを成しているのだ。
実体を持たぬ、その女性が、微笑んだ。フェイトは、そう感じた。
「私、ね……可愛い男の子が、大好きなの。可愛い女の子も、大好き」
「俺はどうだい。こんな可愛い中年、なかなかいないぜ?」
穂積の口調が、いささか苦しそうである。
帝釈天の法力で、悪しきものを電光の檻に閉じ込めている。
閉じ込められたものが、しかし電光を檻を破ろうとしている。穂積の世迷い言に、応えながらだ。
「私、可愛くない男は大嫌い……お前たちのような可愛くもない男どもが、可愛くない動き方をして私の邪魔をする……この世で一番、嫌いな物事を1つだけ挙げるとしたら、それね」
「俺は……あんたみたいに、若作りに躍起になってる年増女ってのは嫌いじゃあない。ごってり厚化粧した横顔に時折、人生の疲れみたいなもんが滲み出る……これがなあ、たまらないんだよ」
「……ドブネズミがッ!」
電光の檻の中で、真紅の光が燃え上がる。実体のない女の、眼光であった。
雷鳴を発する光のピラミッドが、砕け散った。電光の破片が、弱々しく飛散する。
それと同時に、銃声が轟いた。
空気の揺らめきで構成された女の身体が、解放された瞬間、後方に吹っ飛んでいた。
「迷ったぞ、フェイト……」
男が1人、いつの間にかそこに立っていて、拳銃を構えている。
古臭いリボルバー拳銃……の形をした、強力な呪物。強固な肉体を持つ怪物であろうが、実体を持たぬ悪霊怨霊であろうが、差別なく容赦なく撃ち殺す万能武器だ。
その銃口から硝煙を立ち上らせつつ、男が言う。サングラス越しの眼光が、フェイトを射抜く。
「お前のような奴は、いっその事、生贄としてその女にくれてやる……さっきまで俺は、本気でそう考えていた」
「……すみませんでした」
フェイトは負傷した身体を立ち上がらせ、頭を下げた。
体内のどこかが破裂している。身を折ると、激痛が疼く。
それでも、頭を下げるしかないのだ。
「今も考えていないわけじゃあないがな……まあいい。お前へのペナルティは、後で酒でも飲みながら考えよう。それよりも、だ」
「……ディテクター……ふふっ、貴方……いつまで、そんな名前を使っているの……?」
呪物による射撃をまともに喰らい、吹っ飛んだ女が、苦しそうに笑っている。
笑いながら、弱々しく薄れてゆく。優美な女の形を成していた空気の揺らめきが、単なる空気に戻ってゆく。
「本物の探偵に、お戻りなさいな……あちらの貴方の方が、ずっと可愛いわよ? フェイトほどでは、ないけれど……」
「フェイトの身柄が欲しければ、貴様が直々に来い。分身など使わずにだ」
「俺を囮にする気満々、ってわけですか……」
呻くフェイトの腕を、誰かが掴んだ。
たおやかな片手が、しかし驚くべき力でフェイトの身体を引きずり立たせる。
「その通り、貴方は囮だ。弾除けだ。使い走りでもある。今後、私たちのために何でもやってもらうぞ? お兄様」
「お前も来ちゃったのか……」
腕を掴み、隻眼で睨みつけてくる少女に、フェイトは苦笑か愛想笑いか判然としない表情を向けた。
「ま、それはともかく……見ての通りだけど、どうする?」
フェイトは、ちらりと視線を投げた。隻眼の少女も、そちらを見る。
彼女と同じ姿をした少女が、倒れている。
「お前のお父さんの、仇なわけだけど」
「……あれは、ただの人形だ。私が狙うもの、それは人形使いの命……!」
緑色に燃え上がる隻眼が、消えゆく女に向けられる。
「お兄様を囮にしたところで……本体を引きずり出す事は、出来なかったようだな。まあいい、魂の一部だけでも滅ぼしてやるぞ」
「……貴女も、可愛いわね……次は、貴女にしようかしら」
抜刀の構えを取る隻眼の少女に、消えゆく女が両眼を向ける。真紅の眼光が、激しく燃え盛る。
「させるか……!」
フェイトは少女の前に立ち、両腕を広げた。
そんなフェイトの眼前に、ゆらりと割り込んで来た人影がある。
「年甲斐もなく若い男に熱上げたりするから、そんな目に遭う」
穂積だった。霊験あらたかな金剛杵を構えながら、妄言を吐いている。
「もっと手近な男で間に合わせちまいな。ちなみに……俺なら今、フリーだぜ?」
「ドブネズミのような男……お前だけは、可愛くないわね」
両眼を赤く燃え上がらせながら、女は消えてゆく。
「ちょろちょろと鬱陶しく、フェイトの周りをうろつくなら……次は、容赦はしないわ……ふ、ふふふふ、悔しいけれどまた会いましょうフェイト。ずっと先の楽しみに……しておくわね……」
真紅の眼光も、消え失せた。
実体なき女は、完全に消滅していた。
結局、彼女本人を討ち果たす事は出来なかった。彼女の魂の、そこそこ大きな一部を消滅させた。それが、まあ戦果とは呼べるだろうか。
「あの女の、居所を突き止めようかとも思ったが……そんな余裕はなかった。消滅させるのが、精一杯だった」
ディテクターが呻く。
「だが……あの女も、しばらくの間は動けなくなったはずだ」
「つまり虚無の境界が、本当に分裂騒ぎを起こすかも知れないと。そういう事だな」
穂積が言った。
盟主が、しばらくの間は動けない。
それが虚無の境界という組織に、どのような異変をもたらすか、現時点ではわからないのだ。
「まあ先の事よりも……今は、あれだな」
大僧正の間の、最も奥まった部分に、フェイトは目を向けた。
派手に飾り立てられた、巨大な観音開きの扉。
その豪奢な扉が少しだけ開き、人間1人が辛うじて通り抜けられる隙間が生じている。
誰かが扉を開き、その先へ進んで行ったという事だ。
誰であるのかは、考えるまでもなかった。
黒蝙蝠などという姓はあり得ないし、スザクというのも、なかなか付けない名前ではある。
もう少しありふれた苗字の家に生まれた。両親も、普通の女の子らしい無難な名前を付けてくれた。
その名前を、黒蝙蝠スザクは覚えていない。忘れてしまった。
思い出そうとすると必然的に、両親そして弟の事を思い出してしまうからだ。
弟が生まれる事になった。
スザクは弟が欲しかったので、勝手にそう決めていた。妹であったら、それはまあそれでいい。
ともかく陣痛に苦しむ母を、父は自分の車で病院に連れて行った。
当時5歳であったスザクも同乗し、ずっと母の手を握り締めていた。
もう1つ角を曲がれば病院、という所で、トラックが突っ込んで来た。
父は確かに気が急いていただろうし、トラックの運転手も過労で寝不足気味であったらしい。
スザク1人が、ほとんど無傷で生き残ったのは、母がとっさに庇ってくれたからだ。スザク自身は、そう思っている。
自分は生き残り、父と母は死に、弟は、ついにこの世に生まれて来る事はなかった。
トラックの運転手は軽傷を負い、それを治す事もなく首を吊った。
誰が悪い。誰のせいだ。誰を、憎めばいい。
そんな思いだけが、スザクの中で渦巻いた。
行き場のない憎悪の炎が、スザクの中で燃え盛り荒れ狂い、5歳の少女の心を焼き尽くした。
そんな時、虚無の境界に拾われたのは、まあ幸運ではあったのだろう。
この組織においてスザクは、行き場のない憎悪の炎を、物理的な破壊手段として発現させる能力を身につけた。
それはやがて黒い炎となり、スザクの意思1つで、敵を焼き尽くす事は無論、威嚇にとどめておく事も出来るようになった。
能力を開発し鍛錬する環境を、虚無の境界は与えてくれたのだ。
いつ頃からか黒蝙蝠スザクと名乗り、手練の破壊工作員として、その名を馳せるようになった。
このまま虚無の境界で生きてゆく。その事に何の疑問も抱かぬまま、スザクは16歳になった。
そして出会った。生まれてから1度も目を覚ました事のない、1人の少年と。
(なぁんだ……こんなとこに、いたんだ……)
一目見た時スザクはまず、そう思った。
弟は、死んだのではない。あの時から今まで、神様が預かってくれていたのだ。
スザクは本気で、そう思った。
神様が預かってくれていた、どころか、その少年本人がやがて神として扱われるようになった。
生まれてから1度も目を覚まさぬまま少年は、確かに神または魔物と呼び得るほどの力を、幾度も発揮して見せた。
虚無の境界が、恐らくは生体兵器の一種として生み出したものであろう。
そんな事は、しかしスザクにとっては、どうでも良かった。
あの時、生まれて来なかった弟が、今になって来てくれた。スザクにとっては、それが全てだった。
守り通す。
あの時、弟を守ってやれなかった自分に出来る事は、それしかない。
そう思い定め、スザクは行動してきた。
結果、今はこんな所にいる。
ドゥームズ・カルト本部施設最奥部。聖殿と呼ばれる区域。
巨大な生命維持装置は、まるで祭壇のようである。
その祭壇の中央、透明な棺とも言える強化ガラスのカプセルの中で、少年は培養液に浸されていた。
生まれてから1度も、培養液から出た事のない少年。
見た目の年齢は5歳ほど。本当に5年を経ているのか、生まれた時からこの姿であるのか、定かではない。
痛ましいほどに痩せ細った身体を、長い髪がゆらゆらと海藻の如く取り巻いている。
老人のような、白い髪。
肌も白い。透き通るような白さ。いずれ培養液と同化して、何もかも消えてしまうのではないか、と思わせるほどである。
何よりも儚げなのは、その顔立ちだ。
生まれてから今まで、ずっと目を閉じている。あどけない寝顔でもあり、死体を模して作られた人形の顔にも見える。
今にも消えてしまいそうな、この儚げな存在を『実存の神』として崇め擁立する事で、ドゥームズ・カルトは組織の体を成してきたのだ。
虚無の境界において、盟主に叛旗を翻さんとする者たちが、この『実存の神』を奪い持ち出して独立分派を実行した。
スザクの眼前には、2つの選択肢があった。この叛乱者たちを皆殺しにして『実存の神』を虚無の境界へと取り戻すか、あるいは叛乱者たちと行動を共にしてドゥームズ・カルト側から『実存の神』を守り続けるか。
最終的に後者を選ぶ事になったのは、ある噂を耳にしたからだ。
虚無の境界の盟主が、『実存の神』を失敗作として廃棄処分しようとしている。
実は失敗作と言うよりも、己の立場を脅かす危険分子として。
そうスザクに囁いたのは、誰であったか。盟主の懐刀として暗躍し、『実存の神』の開発・調整・生命維持にも携わっていた、あの少女ではなかったか。
ドゥームズ・カルトには……否。『実存の神』には、貴女が必要なのよ。貴女が、この子を守らなければ。
そう言っていた彼女が先程、もはや用済みとばかりに正体を現し、スザクの肋骨を砕いてくれた。
折れた肋骨が、体内のどこかに刺さっている。
スザクはもう1度、血を吐いた。可憐な唇が、吐血で汚れた。
だが痛みを感じている場合ではない。
足音が、聞こえてくる。複数。
助けてくれたのはフェイトだが、それ以外にも何人かいるようだ。
恐らくは、IO2からの増援であろう。先程は、銃声らしきものも聞こえてきた。
「させない……」
血の味を噛み締めながら、スザクは呻いた。
負傷した細身で、祭壇の前に立ちはだかる。
ツインテールの黒髪、ゴスロリ調のワンピース。それらが、黒色を溢れ出させる。
溢れ出した暗黒が、燃え上がった。
「この子は……あたしが、守る……あの時は、守ってあげられなかったけど……」
今、この場で守りきる事が出来たとしても、しかしこの少年はもはや長くは保たない。
だが。この少年の、健康な予備の肉体とでも言うべき存在が今、向こうから来てくれる。
足音を発していた者たちが、聖殿内に姿を現した。
思った通り、何人かいる。
スザクの目にはしかし、フェイトしか見えていなかった。
「フェイト……ねえ、貴方をちょうだい?」
血まみれの唇で、ニヤリと微笑みかけてみる。
「フェイトの……その健康な身体……筋肉、心臓、肺と胃袋……肝臓腎臓、大腸小腸……全部、この子のために……ね、いいわよね? ね? ね? ねえ?」
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