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閉店後の一時
いくらか厳しい口調で、注意をされた事くらいはある。怒られた事はない。
本当に厳しい上司とは、声を荒げて怒る事なく、一言二言の注意だけで相手の心を引き締めてしまうような人物を言うのではないか、と八瀬葵は思っている。
この喫茶店のマスターのようにだ。
厳しい人であり、優しい人である。そして今一つ、何を考えているのかわからない人物でもある。
「マスター……一体、どういうつもりなんですか。こんなもの置いて」
広くもない店内の一角を占領している、黒く巨大な物体を見つめながら、葵は呟いた。
ピアノである。つい最近、納入されたものだ。
閉店後の後片付けを終え、一息ついているところである。
マスターは先程、売上金を持って信用金庫へ向かった。
葵は、ピアノを見つめている。
客が時折、面白がって弾いたりしているが、それだけのためにマスターはこんなものを店内に置いたのか。
音大にいた時も、楽器の実技はそう得意な方ではなかった。
思い出しつつ葵は、いつの間にかピアノの前に座り、鍵盤に指を走らせていた。
店内に曲が流れる。が、最初の一小節だけで止まった。それ以上、弾けなかった。
葵はとっさに、鍵盤から両手を遠ざけていた。まるで、熱したプレートにうっかり触れてしまった時のように。
「何だ……俺は、今……何を弾いた……?」
あの曲の、最初の一小節。
親友の命を奪い、愛する人の心を壊した、あの曲を自分は今、奏でようとしていた。
「……俺は……まだ、あんなものを……!」
「おにいちゃん、ピアノひけるの?」
小さな男の子が1人、楽しそうに駆け寄って来て訊いた。
晶・ハスロ。
マスターの子息で、確かそろそろ小学校に上がる頃のはずである。
時折こうして、閉店作業などを手伝ってくれる。させられる事と言えば無論、簡単な掃除くらいしかないのだが。
「いや、その……弾ける、ってほど弾けるわけじゃ……」
「ねえ、ひいてひいて! でんでん虫! ボクうたえるんだよぉ」
でんでん虫、というのは童謡「かたつむり」の事であろう。
「おにいちゃんも、いっしょにうたお?」
晶の小さな身体が、ぴょこんと跳ねて葵の膝に座る。まるで仔猫のように素早い動きだった。ろくに身体を動かした事もない音大中退者に、かわせるものではない。
「ね、うたお?」
膝の上から、晶がじっと葵を見つめてくる。
緑色の、澄んだ瞳。
顔立ちはマスターと奥方、どちらに似ているのだろうか。
何にせよ、経営者令息からの要望である。
とは言え、歌う事は出来ない。弾くしかなかった。
弾けないのであれば最初から、こんな所に座るべきではないのだ。
ピアノの音色が澄んで耳に心地良いのは、自分の技量ではなく、単にピアノの品質によるものであろう、と葵は思う。
とにかく、澄み渡ったピアノの調べに合わせ、幼くあどけない歌声が店内に流れる。そんな一時だった。
あどけない歌声。それが、晶・ハスロの「音」なのだ。葵は、そう感じた。
この幼くあどけない「音」は、晶の生き方に合わせて、これからいくらでも変わってゆくだろう。
いずれ父親のように、荘厳な音楽を完成させるかも知れない。
あるいは葵の母親のように、不安定な悲鳴の如き音しか出せなくなってしまうかも知れない。
晶が、膝の上から葵をじっと見上げている。唱歌「かたつむり」を歌い終えたところである。
「おにいちゃん……うたって、くれないの?」
「俺は……駄目なんだよ」
葵は、そう答えるしかなかった。
「……俺が歌うとね、晶君に……すごく、嫌な事が起こるんだ。だから……」
「だいじょうぶだよ」
晶が、にっこりと笑った。葵の胸を衝く笑顔だった。
この子は、知っている。
特に何の根拠もなく、葵はそう感じた。
自分の、この歌とも呼べぬ忌まわしい力を、晶・ハスロは知っている。
「ボクなら、だいじょうぶ。だから、いっしょにうたお?」
「晶君……」
あのマスターが、息子相手にとは言え、軽々しく話すとは思えない。
晶は、知っている、と言うよりも感付いたのだ。
「……晶君にも……不思議な力が、あるのかな……?」
「うーん、よくわかんない。だけどママは、ふしぎなこと、いっぱいできるよ?」
異能の力を持つ者は、自分だけではない。それを葵は、わかってはいるつもりだった。
なのについ、自分1人が力のせいで苦しんでいるような気分になってしまう。
「……じゃ、歌ってみようか。晶君、何の曲がいい?」
「こいぬのマーチ!」
みつばちのマーチ、として日本に入って来た曲である。
日本で、何故か蜜蜂とは何の関係もない歌詞を付けられ「仔犬のマーチ」となった。
曲だけのものが「みつばちのマーチ」、歌のあるものが「仔犬のマーチ」、という認識で良いのではないかと葵は思う。
何にせよ、葵の指は自然に動いて鍵盤を走り、唇は歌を紡ぎ出していた。
「……よちよち……こいぬ……」
「くんくんくん、くんくんくん♪」
晶が、楽しそうに歌っている。
楽しそうな、あどけない歌声が、自分の歌の悪しき力を薄めてくれる。溶かしてくれる。無効化してくれる。
葵は、そう感じた。
(……この子と、一緒なら……俺は……)
それは本当に、何の根拠もない思いであった。
(誰も、傷付けずに……歌える、かも知れない……)
そんな思いと共に「仔犬のマーチ」を歌い終えた。
久しぶりに、本当に久しぶりに、歌を1曲、最後まで歌った。
晶を膝に乗せたまま、葵は店の天井を見つめた。
「……歌う、って……こういう事、だったんだ……」
「おにいちゃん、つぎ! つぎうたおー!」
晶が無邪気に催促してくる。
葵は特に考える事もなく、次の曲を決めた。
「そうだね……じゃ、犬の次は……猫の歌で、いこうか」
鍵盤に指を走らせ、歌い出す。
「ねこ、ふんじゃった……」
「ねこ、ふんじゃだめー!」
晶が、怒り出した。
「ねこふんだら、かわいそうだよぉ」
「……そうだね、踏んじゃ駄目だ」
葵は微笑んだ。こんなふうに笑うのも、久しぶりだ。
「じゃ……犬と猫が、一緒に出て来るお歌にしようか……」
「おうち、をきいても、わからない……」
「なまえぇをきいても、わからない♪」
葵と晶が、一緒に歌っている。しばらくは、入るべきではないだろう。
ピアノを店内に入れたのは、大した理由があっての事ではない。引越しをする知り合いから、よかったら、という事で譲り受けたものだ。
葵が歌を取り戻す、そのきっかけにでもなってくれれば……という魂胆が、全くなかったとは言い切れないのだが。
「……我ながら、小賢しい事を」
彼は自嘲した。
自身が経営している喫茶店と、その隣の建物との間。路地裏、と言っていいだろう。
そこに男が3人、倒れている。
自店の外壁にもたれたまま、彼は声をかけた。
「ここが日本である事に感謝するといい。革命から間もない頃のブカレストであれば……私はお前たちを殺し、身ぐるみを剥いでいただろう」
「ぐっ……き、貴様……どうあっても、我ら『虚無の境界』に刃向かうのだな……」
3人とも、命に別状はない。捨て台詞を吐きながら逃げ去るくらいの余力はあるはずだ。
「八瀬葵は……我らのプロデュースを受け、終末のアーティストとして愚民を導くべき存在……お前はな、彼の大いなる可能性を潰そうとしているのだぞ……!」
「消えて失せろ。私の店に近付くな」
虚無の境界と会話をしようという気が、彼にはなかった。
「八瀬葵は、当店の従業員だ。いずれ本人の意思で旅立って行く事はあるかも知れない。が、お前たちの所へは行かせない」
「ふ……どちらを、守るつもりだ? 従業員と、己の息子と……」
男たちが、よろよろと立ち上がりながら苦しげに笑う。全員、肋骨の2、3本は折れているはずだ。
「我らの目的はな、終末のアーティストだけではない……この腐りきった人類を、大いなる霊的進化へと導くためには……」
「……串刺し公の末裔が、どうしても必要なのだよ」
手元に銃があれば、彼は躊躇いなく、この3名を射殺していただろう。
「我らを相手に、両方を……何もかもを、守りきれると思うならば……やってみるがいい」
「また会おう……魔王の血脈を、正当に受け継ぐ者よ」
逃げ去って行く男たちを、彼は追おうとした。追って、皆殺しにするべきなのだ。
銃もナイフもない以上、素手で頸椎を外すしかない。
駆け出そうとした足が、しかし止まった。
葵と晶の歌声が、店内から聞こえて来たからだ。
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