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<東京怪談ノベル(シングル)>


嘆きの石姫


「残念だが、彼女の記憶の上書きを解く術は無い」
 萌の所属するIO2では、イアルの『人魚姫』として植え付けられた偽りの記憶を消し去ることが出来なかった。それほど、彼女に掛けられた魔力が強大なものなのかもしれない。
 石化は解くことが出来たのに、精神面のほうが厄介なのかと萌は苛立ちを感じずにはいられない。
 混乱していたイアルを落ち着かせはしたが、相変わらず怯え続けている状態で、まともに会話も儘ならない。口を開けば『主様』と呪文のように繰り返す彼女を見ているのが、正直辛くもあった。
「…………」
 状況的にこのままを続けるのは良くないと、萌は上司の前であったが思案の波に沈んだ。
 術というものは施した者が解除できるパターンが多い。魔法などと言われる能力も大抵はそうではないか。
 ならば、イアルの件も同じではないのだろうか。
 だが。
「――茂枝、彼女を囮に魔女を誘き出せ」
「え……っ」
 思考がひとつの方向へと向いた所で、上司からのそんな言葉が彼女を現実へと引き戻す。
 聞き間違いではないかと思えるような内容に、珍しく表情が歪んだ。
「今回の件は長引きすぎている。そろそろ我々も片を付ける時なのだ。彼女を使って魔女を誘き出し、必ず本拠地を突き止めろ」
「……了解、しました」
 上司の言うことは尤もでもあった。だから萌は、従うしか無い。
 このままこの案件を、いつまでも引き摺るわけにもいかないのだ。それだけ、敵対する魔女組織は強大であり、手強いのだが。
「私は、私の出来る限りのことをします」
 萌はそう言い切って、軽い会釈の後、上司の部屋を後にする。
 矛盾と葛藤が、心の中を駆け巡っていた。
 囮という言葉に否定したくもなるが、自分が思案の末に思いついた一つの策も、あまり褒められたものではないと自覚している。
 イアルから偽りの記憶を消し去るのは、やはりその術を掛けた本人、つまりは魔女自身にやらせるしか他にない。危険な賭けでもあったが、今の萌にはこれ以上の改善策も思いつかなかった。
「イアル……私が絶対、守ってあげるから……」
 廊下を歩きながら、ぽつりと零す独り事。
 決意にも似たそれを脳内で噛み締めるようにして繰り返し、萌は作戦を実行に移すための行動に入るのだった。



 東京近郊にあるこの海岸は、近くにある高級ホテルが所有するプライベートビーチであった。
 先日、違法なオークションが行われていたあのホテルである。
 日が落ちて人気もない砂浜に、萌とイアルは静かに立っていた。
「あ、あぁ……主様の海……」
 波がゆっくりと、寄せては帰る。
 そんな当たり前の光景を目に留めつつ、イアルはその場でかくりと膝をついて、そんな言葉を吐いた。
 自身が『人間』であるという真実を、未だに受け入れることが出来ずに嘆く『人魚姫』は、萌から見ても哀れに映った。
「……私はここから少しだけ離れた場所にいるから」
「…………」
 萌の言葉に、イアルは応えなかった。
 主と認識している魔女以外、言葉を交わしたくないようなそんな雰囲気を醸し出している。実際、そう植え付けられたものなのかもしれない。
 そう思いながら、萌は地面を軽く蹴り上げ高い位置で上空を舞い、予め目をつけていた岩場へと姿を隠した。
 残されたイアルは、その場でへたり込み静かに泣くだけだった。
 ザザ、と波の音が響く。
 それを数回繰り返した後に、空間が歪んだ。
「……っ……」
 岩場に姿を隠していた萌が瞠目した。
 その場に現れたのは紫のオーラを纏う魔女――イアルを人魚に変えた本人だ。
「おや、私の可愛い人魚姫じゃないか。シーメデューサが殺られたと聞いて戻ってきてみれば、その体はどうしたんだい」
「あ、主様……! わたし、気づいたらこんな格好で……!」
 前を大きく開けさせた黒衣を纏う、妖艶な女性。
 一見するとその程度の印象であった。
 それでも雰囲気は怪しいそのものであり、放つオーラも強力なものだ。
 潜む存在がNINJAの萌ではなく別のエージェントであったら、すぐに見つかっていたかもしれない。
 魔女は上半身をくるりと動かし周囲を確認してから、足元にいるイアルに手を伸ばした。
「寂しい思いをさせたようだね。今度は私と一緒に戻ろう。……お前に新しい場所を提供してやろう」
「主様……!」
 魔女がそう言えば、イアルは彼女に縋るような姿勢を見せつつ喜びの涙を浮かべて見せた。
 自分に対する忠誠心が少しも揺らいではいないと確信した魔女は、ニタリと満足そうに笑う。
 その表情を見た萌は、まるで妖怪の口裂け女のようだと心で素直な感情を吐露しつつ、さらなる動向を伺う。
 魔女はイアルの手を取り、その身を優しく抱くような行動に移る。
 そして次の瞬間には、ふわりと身体を浮かせて宙を舞う。
「可愛いお前……。次はどんな姿にしてやろうか」
「わたしはどんな姿でも、主様に従います……」
 魔女の言葉に素直な返事をするイアル。
 傍でそれを耳にした魔女は、更に楽しそうな表情を浮かべ高笑いをした。
「いいねぇ。だからこの遊びはやめられないのさ!」
 声高らかにそう言いながら、魔女はイアルを抱きかかえて何もない空間を人差し指で撫で始める。
 自分の半身ほどの円をその場でくるりと描くと、その線の内側が歪んだ。
「!」
 萌が僅かに表情をひきつらせる。
 だがその反応は一瞬だけ遅く、魔女はその円の中へと入り込んでいった。
 萌は必死に自分の腕を伸ばしながら移動をしたが、僅か数ミリというところで歪みは消えてしまう。
「くっ……イアル!」
 空気を掴むだけになってしまった自分の指先を見つめながら、萌は叫んだ。
 その響きは誰の耳にも届くことはなく、虚しく宙に溶けて消えた。

「あらぁ、その子。まだ生きてたのねぇ〜」
 ピンク色の髪を持つ魔女が、甘ったるい声でそう言った。
「素材はいいんだ、まだまだ私達で遊んでやらないとな」
 黒衣の魔女が移動してきた先は、浜辺を抱く高級ホテルの地下空間であった。ここが彼女たちの棲家であり本拠地でもある。
 その場にいた魔女は数人。
 イアルにも見覚えがある。彼女たちの全てが、イアルにとっての『主様』であった。
「あぁ……主様、どうかご命令を……」
「健気なのねぇ。いじらしいわぁ……でもちょっと、物足りないわねぇ」
 イアルの懇願に、ピンク髪の魔女はそう告げながら彼女の頬を長い爪でなぞった。
 連れ去ってきた黒衣の魔女より、些か感情の吐露が強い。頬を染めて息を荒くしながら、その魔女はイアルの処遇を考えた。
「そういえばこの間、コレクションのガーゴイルを一体、壊しちゃったのよねぇ。反抗心が強くて、興奮しちゃって叩いちゃったら、あっさり砕けちゃったのぉ」
「お前はそうやってすぐに物を壊してしまう。もう少しセーブを考えろ。……だがしかし、この女のガーゴイル姿は見ものかもしれないな」
 黒衣の魔女はそう言いながら楽しそうに目を細めた。
 イアルはそんな彼女たちを若干、不安そうな表情で見上げていた。
「そう、そんな顔が私達の欲を掻き立てるのだ」
 ククッと低い笑いを一つした後、黒衣の魔女がイアルの顎を掴みそう言った。
 そして、呪文のような言葉をうっすらと空気に乗せる。
「!?」
 イアルは自分の体が強張ったことを感じ取り、瞠目した。
 直後、足先から動かなくなっていき、表情を歪ませる。
「あ、主様……ッ」
 驚愕に満ちた瞳。
 それを間近で見た魔女は、ニタリと笑みを浮かべてこう言った。
「イアル・ミラール。お前の記憶を返そう。ただし、更なる苦しみを感じ取れ」
 魔女の言葉にイアルはビクリ、と身体を震わせた。
 直後、瞳の端に涙が溜まり、ボロボロとこぼれ落ちる。
 それを傍で舐めとるのは、ピンク髪の魔女だった。彼女は既に興奮しているらしく、荒い吐息がイアルの頬にかかる。
「うふふ……もっと苦しんで見せてよぉ」
「い、いや……っ、どう、して……っ、どうして、なの……ッ」
 体が動かない。
 だから声だけを喉から絞り出して、そう叫ぶ。
 どれほどの時間を、偽りの記憶で過ごしてきたのか。それすらも解らない。
 萌には手紙は届けられたのだろうか。そもそも、あの手紙はいつ書いたものだった?
 様々な感情が綯交ぜになり、心の中を蹂躙していく。
「いやぁぁぁ……っ!」
 悲痛な声が響き渡った。
 最後に伸ばされたイアルの右腕は、その手のひらを大きく開いた後、脈を浮かせてから虚しく落ちて動かなくなったのだった。



 爆音が鳴った。
 直後に重い地響きが起こり、高級ホテルが縦に崩壊した。
 イアルの気配を追って萌が行き着いた先であったのだが、肝心の彼女の姿はすでに無く、居合わせた魔女との戦闘の末に地下を爆破させたのだ。
 この辺一体が魔女の所有地であった事と、ホテル自体も魔女結社がオーナーであったために、取りあえずは本拠地を壊滅には追い込んだ。
 ――そのはず、だった。
「……っ、どれだけ強大なの、この結社は……」
 萌が悔しそうにそう言った。仕留めた魔女は片手に収まる数人だけ。どれも下っ端と言える存在であった。
 壊滅後に確かめたが、ここは本拠地とは名ばかりの一つの集合ポイントに過ぎなかったらしい。
「いくら形だけを壊そうとも、私達は滅したりはしない! 記憶は脈々と受け継がれるのだ!」
 最後に倒れた魔女が高らかにそう言っていた。
 自分の体が滅びゆくというのに、彼女は少しも恐れてはいなかった。
 どこまでもどこまでも、その瞳には怪しい光を湛え、勝利を確信しているかのようであった。
 IO2には最初から勝ち目などはないのだ、と――。
「イアル……っ」
 握りこぶしが震えた。
 あと一歩だったかもしれない。
 あの時の一瞬の油断が招いた結果だと悔やむ以外に無く、萌は心の中で自分を責め続ける。
 そんな時だ。

 ――萌……。

「えっ!?」
 微かな声が耳に届いた。
 か細い響きだったが、確かなものであった。
「イアル……イアルなのね? どこにいるの?」

 ――動けないの……わたしは今、動くことが出来ないの……。お願い、助けて……。

「もちろんだよ。絶対、私が助けてあげるから!」

 ――萌、待っているわ……。

 イアルの声らしきものは、そこでふつりと消えて無くなった。
 萌はそこからイアルの気配を追ったが、この場から離れていると判断して、溜息を零す。
 この場で焦っても、どうにもならないのだ。
 思考の整理をしなくては、と思った。
 イアルは動けないと言っていた。もしかしたらまた、石化の呪いを受けてしまったのかもしれない。
 記憶の操作を受けることと、身体を石にされてしまうことでは、果たしてどちらか苦痛なのか。おそらくどちらも、比べ物にはならないものなのだろう。
 イアルはその身に二通りの苦痛を受け、苦しんでいる。
 いくら時を隔てても、繰り返し繰り返し。
 萌はその苦しみを、自分が取り除いてやりたい、と強く思う。
 その為には、追い続けなくてはならないのだ。
 意志を新たに、顔を上げる。そんな彼女の表情は、さらに引き締まったものになっていた。

 時間は少し前に遡る。
「このガーゴイル像、気に入ったわ。買い取らせて頂きます」
「お嬢様はいつでもお目が高い」
 ホテルの最上階、広々とした一室に、亜麻色の髪を豊かに伸ばす少女が高級そうな椅子に優雅に腰掛けてそう言った。
 彼女の前に立ち、側にある石像を紹介していたのは、黒衣の魔女であった。
 相変わらずの怪しい笑顔を湛え、それでも腰を低く構えて手のひらを石像へと向けている。
「こちらの像はつい先程、入ってきたばかりです。質の良いものを取り入れておりまして……」
「……難しい説明はいりません。とにかく私の屋敷に運んでちょうだい」
「毎度、有難うございます。今後もご贔屓に」
 足を組んで尊大な態度でそう言う少女に、魔女は低姿勢のままでにこやかに返事をした。どうやら取引を行っていたようだ。
 石像はイアルであったものに加工を加えられ、ガーゴイルとなったものであった。
 肘置きに腕を置き、頬に手を添える少女は宝石のような青い瞳を少しだけ揺るがせ、直後に目を細めてみせた。
 今は無きとある大財閥の末娘。
 両親の残した財産はそれを狙う一族により奪われ、今は郊外のかつては別荘として使われていた洋館に追いやられている。
 一人きりは、つらく寂しい。だから彼女は、その寂しさを紛らわす。
 その行動は、少しだけ歪んだものであり、異常でもあった。
 だが、誰も彼女を窘めない。
 彼女に黙って従うのは、一人の魔女のみだ。
 それは、黒衣の魔女が少女に差し出した低属レベルの存在であった。慎ましく大人しそうな外見の静かな魔女は、ひっそりと少女に付き添い身の回りの世話を続けていた。