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三百年の再会
夜な夜な徘徊する、奇妙な化け物の噂。
ずるずる、ぺたぺたと。妙な音を立て、姿もなく水の跡だけを残して彷徨うというその化け物――最近耳にするそんな怪奇じみた事件の調査依頼を、草間・武彦は文句を言いながら結局は引き受けたらしい。海原・みなもは彼に頼まれ、住宅街にある寺を訪れていた。
なにしろ奇妙なものに対する人の好奇心というのは、とどまることを知らない。この寺に安置された河童のミイラが皿を探してさまよっている、なんて噂のバリエーションも、この寺に実際に、水に関する生き物のミイラがあるとされているからであった。
中学の授業の一環で、郷土史について詳しく調べるということになった、と説明して。みなもはこの寺に、その所蔵物を見せてほしいとお願いした。
初めのうちこそ、子供が噂話をおもしろがっているのだろうと誤解され煙たがられたが、みなもの真面目で、礼儀正しい態度に納得してくれた寺の住職は、それをみなもに見せてくれた。
秘宝というほど厳重に、ではないが。桐の箱に収められ、綿にくるまれるように保管されていたのは確かにミイラだった。ただし河童ではなく、人魚の形の。
なんとなく落ち着かず、みなもは自分の髪に触る。
南洋の海をそのまま持ってきたかのような青――みなもは、己が人魚の末裔であることを知っている。
だからこそ草間も、これの確認をみなもに頼んだのだろう。
不気味に落ち窪んだ眼窩、噛みつかんばかりに開かれた口。
江戸より以前、人に捕まり肉を喰われ死んだと伝えられる、苦悶の表情。
だけど、これは――本物の人魚ではない。ただの紛い物だ。
「調べたところ、これは昭和初期に小猿の胴と魚の尾をくっつけて作られたものだということでした」
住職の言葉も、みなもの考えを補強するものだった。
「見せて頂いて、ありがとうございました」
帰り際、みなもは寺の門前に立ち、住職に頭を下げる。
「今度来られる時までに、先代に詳しい話を伺っておきますね」
「先代、ですか?」
なぜだかその言葉が酷く気になり、みなもはそう聞き返した。
住職は、ええ、と頷いてから続ける。
「なにぶん高齢で体調を崩し、静養しておりまして。こちらにはあまり……おや。話をしていれば」
ふと顔を上げた住職の、その目線の先。つられてそちらを見たみなもは、目を見開く。
知らぬ間に、足が。一歩だけ、後ずさりしていた。
からら、と。木の杖が転がる音がした。
和装姿のひとりの老人が、みなもを見て目を丸くしている。
「……どうされましたか?」
住職が、取り落とした杖もそのままに身動きしない老人へ親しげに近寄り、いぶかし気に声をかけた。
その老人が、住職の言っていた『先代』なのだろう、おそらく。
だが――あれは。『アレ』は。
「それじゃあ、あたしは、これで……失礼します!」
挨拶だけは、なんとか言葉にすることが出来た。
「え?」
突然走りだしたみなもを呆気にとられた表情で見送ってから、住職は再び先代に声をかける。
「どこかお痛み……で……?」
誰もいなかった。
杖だけが、地面に転がったまま忘れ去られていた。
ハァ――ハァ――ハァ――
息が上がる。
心臓がばくばくと早鐘を打っている。
走り続けるみなもの後ろから、音がついてきている。
ずるずる、ぺたぺたと。
『再びまみえることが叶うと思わなかったぞ、人魚よ!』
歓喜を帯びた声が、脳裏に響く。
鼓膜を揺らさずに届いたその言葉は、あの老人のものに相違あるまい。
『肉をひとくち食ろうただけで、わしは三百の年を生きた。
お前の生き肝を食らえば、今度こそ老いや寿命の軛から外れることもできよう――!
そのために、わしに喰われるためにお前はいるのだ、八百比丘尼よ!』
「違います!」
思わず出た否定に、すれ違いかけたサラリーマンが怪訝そうな顔でみなもを見る。
彼はみなもだけを見ていて、その後ろに追跡者がいるとは思いもよらないようだった。
――しまった。
みなもは走りながら、思わず口を抑える。
ここは住宅街なのだ。
普通に暮らしている、普通の人々の、生活の拠点。
例えば近くの川の水などを操って迎撃することも、無理なことではないだろうが――このままでは誰かに見られてしまう可能性が高く、何よりもみなも自身、そんなことを咄嗟にできるほど戦うことが得意だとは言いがたい。
今はとにかく逃げる、それが一番良い方法であるように思えた。
走って、走って。少しずつ、音との距離が離れていく。
細い裏路地に飛び込んで、壁に背をもたれさせて胸を抑え、呼吸を整える。
その時になって初めて、鞄をどこかに忘れて来てしまったことに気がついた。
どこに忘れたのか――思い出す前に、みなもはまた、ずるりという粘着質な音を聞いた。
はっとして再び走りだそうとして、その時になって気がついた。
行き止まりだ。
背後で音が止まる。
みなもが振り返ると、醜悪な、おぞましい姿が薄い紙に水を滲ませるように姿を見せた。
ぶよぶよとして青黒い、ふやけきった水死体のような肌。たるみ、幾重にも垂れ下がった肉の小山に男物の和装を無理やり着せたようなそれは動くたびに、たぷん、という音がした。
「追いついたぞ、人魚……ん?」
今度は空気を震わせて喋ったうごめく肉は、うねるように首らしき箇所をひねる。
「お前――人との混ざり者か。純粋な人魚ではないのか」
どこか残念そうに呟いて、肉の山ががくりと揺れる。着物の位置から考えて、肩を落とした、のだろう。
醜い異形の化け物と正面から相対し、みなもはふと思う。
彼は人魚を口にしたと言っていた。
だが――彼が食べたのは、本当に人魚だったのだろうか?
何か別の、もっと恐ろしい物を食べたのではないか?
「あたしを食べたところで、不老不死になれるとは思いませんよ」
みなもが純粋な人魚でないことを理解したのなら、食べるのを諦めるかもしれない。
その期待をこめて、みなもはそう口に出してみた。
「だがお前にも、肝はあるのだろう?」
肉のひだが盛り上がる。もしかしたら――笑ったのかもしれない。
「おとなしく、喰われろ」
「させるか!」
ぼにゅ、という音がした。
同時に、肉の塊がぶるる、と震え――そのままぐたりと倒れ、動かなくなった。
それの倒れた向こう側に、立っていた人の姿は。
「――草間さん!」
「無事か?」
手にした煙草をくわえなおして、草間はみなもの無事を確認した。みなもは思わず、どうしてここに、と呟く。
「忘れ物の鞄の中に俺の連絡先があったと、寺から電話があったんだ」
「あ!」
どこに忘れたかと思っていたが、どうやら寺に置いたままだったようだ。
「すごい勢いで走りだしたと聞いて嫌な予感がしたんだが――正解だったな」
そう言って草間は手をひらひらさせた。倒れたままの肉塊には、何かの札が貼られていた。
「妖魔、退散……?」
覗きこみ、札に書かれた文字を読んだみなもに、草間は事も無げに言ってのけた。
「直接触って気持ち良さそうな相手じゃなかったからな。それごしに殴りつけた」
普通の人間のはずの草間だが、こういう時の態度や肚の座り方は常人のそれではない。怪奇に慣れている、という言い方もできるが草間はそう言われると渋い顔をするのだ。
みなもは思わず、苦笑した。
<了>
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