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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


新居祝い


 夜景は綺麗だ、と八瀬葵は思った。
 これだけは、あの安アパートにいたのでは知る事の出来なかったものだ。
 いくらかは愛着のあった安アパートを、引き払う事になった。
 喫茶店でのアルバイトから帰って来たら、部屋が空っぽになっていたのだ。家電製品も衣類も何もかも、引き払われていた。
 空き巣狙い、と言うより大規模な窃盗団にでも入られたかのようであった。
 その窃盗団の親玉が、葵宛ての手紙を大家に託していた。
 大家から受け取ったその手紙に従い、電車に乗って少し歩いた結果、葵は今こんな所にいる。
「デザイナーズマンション、というやつらしい」
 窃盗団の親玉が、ゆったりとソファーに身を沈めながら、グラスを傾けている。
「建築家という連中にはな、自己満足の芸術作品と、商品としての住宅、その区別がついていない奴が多い。洗面所と洗濯場所とトイレが全て同じ部屋だったり、風呂場がガラス張りで丸見えだったりな。あとベランダがなくて洗濯物を部屋干しするしかなかったり……マンションの外観を損なうから、という理由らしい。それを聞いた時、俺は冗談抜きで、その建築家を捜し出して撃ち殺そうかと思ったよ」
「……本当にやるだろうね、たつ兄なら」
 夜景を見下ろしながら、葵は言った。
 その呼び方はやめろ、と龍臣ロートシルトはもう言わない。あきらめてくれたようである。
「そういう物件の中で、まあ比較的ましな所を選んだつもりなんだが。どうだ?」
 龍臣がグラスを掲げ、乾杯の仕草をしている。
「お前、確かもう20歳だったよな。新居祝いだ、1杯くらい飲んでみろ」
「新居……って」
 葵は見回した。
 優雅に酒を飲みながら、夜景を楽しむ事が出来る。絵に描いたような高級マンションである。
 高級感ある広い空間のあちこちに、安物の冷蔵庫や収納ケースが置いてある。龍臣が勝手に、あの安アパートから運び出して来たものだ。
「冷蔵庫、ろくなもの入ってなかったぞ。お前ちゃんとメシ食ってるのか?」
「……勝手に、見ないでよ」
 葵は、控え目に文句を言った。
「俺……自分が何でこんな所にいるのか、まだわかってないんだから……たつ兄、何でこんな勝手な事してくれたの」
「お前を守るためだ。なんて言ったら反発するだろうが、実際その通りなんでな」
 言いつつ龍臣は、グラスの中身を飲み干した。
「あんなアパートじゃ、例えば火をつけられたりしたら終わりだ。お前には、防災もセキュリティもしっかりとした所で暮らしてもらわなきゃならん。あきらめろ。何度も言うが、今日からここがお前の家なんだ」
「俺……ここの家賃なんて、とても払えないよ」
 はっきりと金額を聞いたわけではないが、安くはないという事くらいは見ればわかる。
 無論あの喫茶店のマスターには、良い扱いをしてもらっている。
 住む所が変わったので給料を上げてくれなどと、言えるわけがなかった。
「金の心配はするな。ここは賃貸じゃあない、ある人の持ち家でな……支払いは、とうの昔に済んでいる」
「その人が、自分の持ち家に……俺を、居候させてくれるって事?」
 その人物を、自分は知らない……いや、本当は知っている。葵は漠然と、そんな事を感じている。
 龍臣ロートシルトとは、幼い頃のほんの一時期、共に暮らした事がある。
 その記憶が、つい最近まで何故か失われていた。
 失われていた記憶を、完全に取り戻したわけではない。
 龍臣の他に、もう1人、誰かがいた。
 駄目だよ葵。人を、音でしか判断出来ない。それでは駄目なんだ。
 そう言っていた、誰かが。
 思い出せない。
 葵の記憶の中、龍臣のすぐ近くで、面影のはっきりしないその人が、穏やかに微笑んでいる。
「俺……その人に会って、お礼言わなきゃ」
「必要ない……と、その人は言っていた。ま、焦らなくても会えるさ。そのうちな」
 言いつつ龍臣がグラスを揺らし、氷を鳴らす。空っぽだったはずのグラスに、いつの間にかまた酒が注がれていた。
 いつから飲んでいるのか。
 手紙を頼りにここへ辿り着いた葵を、遅かったな、などと言って出迎えてくれた時からではないのか。
「たつ兄……ちょっと、飲み過ぎじゃないの」
「お前が相手じゃ、素面だと会話が保たないんだよ」
 容赦のない事を言いながら龍臣が、グラスの中身をまたしても一口で干してしまった。
「しばらく会わないうちに、お前……人と話をしない奴に、なっちまったな」
「俺は……昔から、そうだよ。俺と普通に話してくれたの、たつ兄だけだったもの……」
 あの頃、仲の良い兄弟として会話をしてくれた龍臣は、もういない。
 当たり前の事であった。あれから十数年、経っているのだ。
 今の自分と、十数年前の自分が、同じ人間であるはずがない。当たり前の事である。
 あの頃、人畜無害な幼な子であった八瀬葵も、もういないのだ。
 ここにいるのは、親友の命を奪い、大切な人の心を破壊した、おぞましい何者かだ。
「お前は……何で、あんな狭い安アパートに住んでたんだ」
 龍臣が訊いてくる。
「狙われてるの、わかってたんだろ? もっとセキュリティのしっかりした所に移ろうとは思わなかったのか」
 そのくらいの金は確かにある。両親が、仕送りをしてくれている。
 両親が葵について把握しているのは、口座番号だけだ。住所も電話番号も、教えていない。
 向こうも、知りたいとは思わないだろう。
 親としての務めを、放棄したわけではない。
 そう思いたいがために、あの両親は仕送りを続けてくれているのだ。
 こんな事を龍臣に話したところで、意味はない。だから葵は、答えず押し黙っていた。
「お前……本当に、人と会話しない奴になっちまったな」
 龍臣が、苛立っている。
「昔はまだ、俺にいろいろ感情をぶつけて来ただろう。酒でも飲んで、あの頃に帰ってみたらどうだ? 愚痴くらいなら聞いてやるぞ」
「……たつ兄に……聞いてもらうような事なんて……」
「この国の『一般人』って連中は、そうなんだよなあ」
 龍臣は、頭を掻いた。
「自分ってものを押し殺して、波風立てずにつつがなく過ごす。それが美徳なんだよな……だけど葵、お前はもう『一般人』じゃいられないんだぞ。ロートシルト家の宿命を、お前は受け入れちまったんだからな」
 封印されていた記憶が、蘇った。
 思い出さずにいれば、平穏無事に過ごしてゆける。そんな記憶だった。
 思い出す事を選択したのは、葵自身である。
「ここにいる時は、お互い自由にやろう。だが外出に関しては、俺の許可を取ってもらうぞ」
 一方的な事を言いながら、龍臣はソファーから立ち上がった。
 かなり酒が入っているはずだが、足取りは確かである。
「外へ出たら、俺はお前を守らなきゃいかん立場だ。ちなみに、お前に拒否権はない。これは前も言ったかな」
「俺、明日もバイトなんだけど……それは当然、許可してもらうよ」
「おっと。自分を出したな、葵」
 龍臣が、ニヤリと笑った。その笑顔には幾分、酔いが滲み出している。
「喫茶店、だったな。いずれ俺も、挨拶に行かせてもらおう」
「やめてよ……」
「厄介者を雇ってもらってる、礼を言わなきゃならん」
 保護者のような事を言いながら、龍臣はリビングを出て行った。
「その時は、俺は客だ。お前、ちゃんと接客しろよ?」
 などと言いながら出て行く龍臣を、葵は無言で見送った。
 そして、呆然と呟いた。
「……俺……要するにここで、たつ兄と一緒に暮らす……って事……?」


 龍臣は、ベッドに身を投げ出した。
 さすがに飲み過ぎた。
「まいった……あいつと、何を話したらいいのか全然わからん」
 あれから十数年が経った。
 あどけない兄弟のように無邪気に語り合い、戯れ合う事さえ出来た2人は、もういないのだ。
 だから、酒の力を借りた。
 酔っ払った勢いで、色々とくだらない事を話した。内容など、明日になれば忘れているだろう。
「人と……まともに会話が出来ないのは、俺の方か……くそ」