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<東京怪談ノベル(シングル)>


 徒桜を永遠にとどめて

 からころん、ともちりり、とも付かぬ、涼やかな音。
 何故か胸騒ぎがしたけれど、海原・みなもはそのままアンティークショップ・レンの扉をくぐった。
 その瞬間、彼女の視界がくらりとまわる。
「ぅん……」
「何かあったのかい?」
「なんだか、めまいが……」
 軽く頭を振った時、後ろからかかった声に、みなもは正直にそう答える。
「熱中症?」
「そうかもしれません」
 眉根を寄せて、まだ暑いから、と呟いた店主、碧摩・蓮にみなもはこくりと頷いて返す。
「ゆっくりしていくことだね。外よりは涼しいから」
 そのあたりに置かれたソファを示して、蓮はそう言った。前に来た時に見た覚えのないものだ。また何か買い付けてきたのだろうかと思いながらみなもはそのソファを見つめる。
 猫足の、凝った飾りのあるソファだ。赤い革張りで、豪華なものに見える。
「そのソファに座った人が次々と行方不明になってね」
 みなもはぎょっとしてソファから飛び退く。その様子を見て、蓮はクックックと笑った。
「冗談だよ」
「……本当ですか?」
 疑うつもりではないが、少々言い方に刺が混ざってしまった気がしてみなもは顔をしかめる。蓮はまるで気にした様子なく、そのソファにゆったりと腰掛けた。
「本当に冗談。これは、ある人形蒐集家の男が後生大事に使っていたものなんだ。
 その男には若い頃に死んだ恋人がいたんだが、これにはその恋人そっくりの人形が座っていたらしい。
 ――その人形に傅くようにして息絶えていた男は、随分幸せそうだったって話だよ」
 そう言って微笑む蓮の顔が、いやに妖艶に見えたのはどうしてだろうか。
 みなもはおもわずどきりとする。
 きっと、なんだかいつもより、蓮の顔に落ちる陰影が濃いせいだ。この店の照明は、いつもの古びたランプ――光量が一定しないことだってあるのかもしれない。そう考えながら蓮の顔を見て、ふと、あることに気がついた。
「あれ? 蓮さん、口紅が……」
「ん? ああ」
 蓮が自分の唇を示す。いつもの妖艶さを感じさせる色ではなく、可憐なほどの桜色だった。
「新しい化粧品だよ。そうだ、試してみるかい?」
 ソファを離れ、立ち上がってごそごそと何かを探し始めた蓮だったが、すぐに戻ってきた。
 その手元には、白い、陶器製の瓶がおさまっている。
「変わった白粉(おしろい)が手に入ったんだよ。ちょっと使ってみないかい?」
 蓮はそう言って、他にも種々の化粧品を手近な机の上に並べ始める。
 さっきの刺が刺激した罪悪感に、みなもは少しだけなら、と頷いた。

 みなもはさっきのソファに座らされた。蓮は慣れた手つきで化粧落としをガーゼに含ませ、みなもの顔をさっと拭き取る。化粧水と乳液で肌を整え、化粧下地を肌に伸ばす。作業じみた、当たり前の工程を終えてからようやく蓮は白粉の瓶に手を伸ばす。
 頬に、鼻の頭に、額の中心に少しづつ付けられる、それ。
 顔全体に伸ばされていくそれはリキッドファンデーションのようでいて、何か少し違うような気がした。
 妙にのっぺりした、肌に絡みつくような不快感。
「この白粉だけは、演劇だの芝居だので使う化粧品だから、ちょっと息苦しいんだ」
 みなもはなるほど、と頷く。そういえば演劇部の友人たちも舞台の化粧は『重たい』ものだと言っていたような気がするから、そういうものなのだろう。
 化粧というのは元来、少し息苦しいものなのだし。
 ――だけど、本当に?
 言い知れぬ違和感をおぼえ、みなもは疑問の声をあげようとして。
 そのとたんに、がちり、と異様な音がした。
 みなものすぐ後ろ――ソファから。
「……蓮、さん……?」
「ほら、じっとして」
 言われるまでもなく、身動きなど取れない。
 首も、腕も、腰も。足は太ももで、拘束されているのがわかる。
「いったい、これは――」
「これ? 材料は、胡粉っていうんだよ」
 ソファのことに気がついていないのか、蓮は白粉を見てそう言った。
「貝殻を乾かして、砕いて、練って――まあそのほかにもいろいろやって作るんだよ。
 絵の具にも使われたりする、れっきとした顔料の一種」
「そうじゃ、なく、て……!」
 助けて。
 そう訴えようとして、みなもは蓮の顔を見た。
 ――顔が、なかった。
「ひっ」
 息を呑む。
 そこにいたのは、蓮ではなかった。
 陶器のようなすべらかな肌が、顔の凹凸を作っているけれど、それだけの。
 人形だった。
 蓮だった人形の、唇だろう場所にだけ、桜色の口紅が残っていたけれど――それもすぐに、肌色に消えた。
 人形は手を止めることなく胡粉を、みなもの顔に塗り続ける。
 やがて首に、手に、露出するすべての肌にそれを塗る場所は広げられていく。
「あ……ゃ……」
 やめて。
 そう言いたかったのに。
 声は引きつって、喉が張り付くように固まっている。
 人形が胡粉を塗りつけるたび、みなもの肌が硬直していく。
 顔のない蓮がソファを軽く叩くと、みなもを拘束していた何かはそれでソファの中に戻ったようだった。
 もうみなもを縛るものはない。だというのに、立ち上がろうとしても膝に力が入らない。――正確には、錆びついたように軋むばかりで、まるで動きそうにない。
 セメントを塗りたくるように胡粉で固められているのかと、最初はそう思った。
 そうではないと気がついたのは、己の舌が動かなくなりつつあることに気がついたからだ。
 一度も白粉を塗られていないのに、舌も、顎も、どんどん硬くなっている。
 肌が冷たくなっていくのを感じる。
 それはきっと、呪いか何かだったのだろう。
 みなもの、すでに硬く、弾力を失った頬に涙がはらはらと流れた。蓮人形はそれをそっと指先で拭い取る。その涙さえも水滴を模した透明な結晶に変わるのを、みなもは絶望的な思いで目にした。
「うん、綺麗な肌だね。底光りをたたえて、すべらかで――あんたの透明感はまた、格別だよ」
 もう呼吸もできない。自分の体の鼓動ひとつも感じない。
 息苦しいのに、それでも思考だけがまだ、みなもの自由になる唯一の部分だった。
 怯えさえも表現できなくなったみなもの頬をそっと撫でて、蓮人形は囁いた。
「大丈夫、周りをよく見るんだね。寂しくないだろう?」
 蜃気楼が揺れるように、空気が震え、幻が溶けていく。
 さっきまでみなもが店の中だと思っていた場所は、随分と様変わりしていた。椅子やベッドのある、生活感のない豪奢な室内に人形たちが何体も何体も飾られている。
 優雅なドレープを描くカーテンの外側に、さっきまで見ていたはずのアンティークショップの内装がとんでもない大きさで存在しているのを見て、みなもはすべてを悟った。

 からころん、ともちりり、とも付かぬ、涼やかな音。
 アンティークショップ・レンの扉が開いた合図を耳にして、蓮はそちらに目を向けた。
「……ん?」
 誰もいない。ドアの立て付けが悪くなりでもしたのか、それとも誰かの悪戯だったのだろうか。
 首を傾げながら、蓮はこの間入荷したばかりのドールハウスをのぞき込んだ。
 飾られた人形が一体、増えているような気がしたけれど――気のせいかと蓮は肩をすくめた。
 少女が助けを求める声は、誰にも、何も届かなかった。

<了>