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<東京怪談ノベル(シングル)>


Stalactite

 滴り落ちる水の音が鼓膜を研ぎ澄ましていく。魔力の光で周囲の壁を照らして、ティレイラは満足げに竜の翼を広げた。
 魔力を帯びた泉が湧く洞窟がある――。
 そう教えられたのが数日前のことだ。好奇心に任せて狭い入口を潜った先は、驚くほど巨大な鍾乳石の城となっていた。久々に伸ばす翼の解放感と、水気を帯びた冷えた空気に足取りも軽く、ティレイラの顔を無邪気な笑みが彩る。
 何しろ内部には予想したほどの障害はなかったのだ。ところどころで飛び出した鍾乳石を避ければ、後は頭上に気を配るだけで、簡単に最深部まで辿り着くことができた。
 持参した水筒を取り出しながら小部屋の入り口を潜る。
 そこに――。
 泉が広がっている。
 エメラルドグリーンの水面が、乳白色の天井から滴る水で絶えず揺蕩う。その波紋の隙間から深い水底が覗いている。
「凄い――」
 ティレイラの口から思わず感嘆の息が漏れた。彼女の灯した光で輝きを増す泉に近づき、その湖面に水筒を浸そうと屈んだときだった。
「何してるの!」
 逼迫した声音に振り返る。
 いつの間にか、明瞭とした憤怒の色を宿す少女が立っていた。見目から察するにティレイラとさして変わらぬ年代だ。
 だが――。
 捻じ曲がった角と山羊を思わせる尾、独特の瞳孔を持つ瞳は、紛れもなく魔族のそれだ。警戒しながら立ち上がった彼女は、後方の水へ落ちぬよう少女と距離を詰めながら、負けじと眉間に縦皺を刻む。
「何って、ここの水をちょっともらおうと思っただけよ」
「そんなの絶対駄目! どうせ悪用する気でしょう!」
「そんなことするわけないじゃない!」
「じゃあ何に使う気だったのよ、この馬鹿女!」
「な――馬鹿って言う方が馬鹿なの、馬鹿!」
 一定の距離を保ったまま、竜と悪魔が睨み合う。無断で水を持っていこうとしたのはティレイラの落ち度かもしれないが、謂れのない罪を着せられ、悪人扱いされて黙っているわけにはいかない。
「上等じゃない」
 緊張を破ったのは魔族の方だった。鼻息荒く人差し指をティレイラへ向けて、彼女はひきつった笑みを浮かべた。
「魔力の泉が目当てなら、魔法も使えるでしょう。勝負よ」
 練られた魔力が彼女の指先に集中するのを見るや、ティレイラも彼女と同様の怒りで歪んだ笑いで口許を痙攣させる。
 言葉もなく――。
 ひときわ大きな水音を契機に、二人は魔力をぶつけた。
 一度目は相殺。間髪入れずティレイラの放った業火が魔族を襲う。壁に叩き付けられた少女の方は、水のヴェールを纏うことで火傷は避けたようだ。
 ――しかし。
 実力が拮抗しているなら、一度守りに入れば連撃を耐えることは難しい。防御を知らねば敗北するが、攻撃せねば勝てないのもまた真実なのだ。まして防御に魔力を使っているならば消耗を待つのも難しい。
 絶え間なく炎を放たれれば、相性のうえで有利なはずの魔族は少しずつ追い詰められていく。双方が肩で息をしながらも、先ほどから攻撃の機を伺い魔力を使って飛び回っている魔族と、積極的に攻勢に出ているティレイラとでは、どちらの方が有利かは明白だ。
 ――いける。
 勝利を確信したティレイラの笑みが不意に崩れた。
 崩れ落ちる体を支えていられず、這いつくばった彼女の驚愕の表情を満足げに見下ろして、少女が汗を拭いながら屈んだ。
「さっきから水滴に魔力を込めてたの。気づかなかったかしら」
 ひたり。
 落ちてくる水が触れたところから自由が利かなくなる。気づけば小雨のように水滴が降ってきていた。少女を追うことに夢中になりすぎて、状況の変化に全く気付けていなかった。
 目に映る掌に魔力のこもった水が触れる。
 刹那。
 白く濁った石と化した皮膚に、ようやく状況を飲み込んだティレイラの顔から血の気が引いた。
「や、やだ――ちょっと――!」
 慌てて洞窟を出るべくもがけど、既に鍾乳石の塊と化した尻尾と翼は動かない。ひどく重たくなった体を持ち上げるすべもなく、絶え間なく降り注ぐ魔力の水は、ティレイラを竜族の石として完全に硬化させた。
 その哀れな姿に気をよくしたか、息を整えた少女の上機嫌な笑い声が洞窟に響く。
「本当に封印されてる? 貴女、演技してるんじゃない?」
 挑発するように言葉を重ねた柔らかな掌が硬い石の表面に触れる。つるりと滑る頬を叩き、珍しげに尻尾と翼を撫で回し、背筋を指先でなぞり、完全に反応がないことを知るや腰に手を当てた。
「泉の水を持っていこうとした罰よ! このままここにいなさい! 私は毎日来るし、飽きたら戻してあげるから、安心してね」
 これでこの泉から水を盗ろうとする者も減るだろう。軽い歩調で走り去った少女が、ティレイラを石像から解放する日は、彼女しか知らない。