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<東京怪談ノベル(シングル)>


ピノキオ、あるいはフランケンシュタイン


 被害が最も甚大であった、オレゴン州のとある町。
 今は、ほとんど廃墟である。住んでいる人間が全くいないわけではないから、辛うじて町とは呼べるか。
 チュトサインに踏み潰され、復興がほとんど進んでいない地域の1つである。
 そんな場所でも、子供たちは元気に走り回っていた。
「助けて! 助けてー!」
 元気、と言うより必死だ。
 黒人の、女の子と男の子。女の子の方が、いくらか年上のようである。
 姉弟であろう。姉が、弟の手を引いている。
 泣き叫びながら逃げ惑う、幼い黒人の姉弟。
 2人は、追われていた。警官を満載した、1台のパトカーにだ。
 男の子が、転んだ。
 女の子が、弟を助け起こそうとして身を屈める。
 2人を足元に庇う格好で、その少女はふわりと立ち止まった。
 東洋人である。
 ほっそりと優美な、いささか起伏に乏しい身体を、緑色のワンピースに包んでいる。そんな細身に、艶やかな黒髪がサラリとまとわりつく。
 端麗な顔立ちは少しだけ、微笑みの形に歪んでいるようだ。
 真紅に輝く左右の瞳が、迫り来るパトカーをじっと見据えている。
 東洋人の美少女と、幼い黒人の姉弟。3人をまとめて轢き殺す、寸前でパトカーは止まった。
「ほう……こいつは、こいつは」
 警官たちが降りて来た。
 4人。全員が、白人の男である。
「チャイニーズか? コリアン? それとも」
「ジャパニーズ・ヤマトナデシコ? こいつぁたまんねえなあ」
 品性のかけらもない笑みを浮かべながら、警官たちが歩み迫って来る。
 少女は、とりあえず訊いてみた。
「……この子たちを、どうするつもりだったの?」
「知りてえか、なら教えてやるよ。おめえの身体になあ」
 警官の1人が、そんな事を言いながら、制服のズボンを脱いでいる。
「色付きのメスガキどもぁなああ、俺たちのコイツを咥え込んで鳴いてりゃいいんだよ犬みてえによォ」
 少女は応えず、白い細腕をヒュッ……と跳ね上げた。
 警官の下腹部で、丸出しになったものが弾けて潰れ、飛び散った。
 表記不可能な悲鳴を発しながら、その警官は倒れ込み、のたうち回り、絶命してゆく。
「てめえ……!」
 他3名の警官が、拳銃を構えた。
 拳銃を握る彼らの手が、ひしゃげた。
 血まみれの拳銃が、高々と宙を舞う。
「このアメリカは、侵略で作られた国……貴方たちの遺伝子には、侵略者の本性が眠っている。こういう状況だと、露わになるのよね」
 右手に握ったものを海蛇の如く揺らめかせながら、少女は微笑んだ。
 長大な、鞭である。
 打ち据えられ叩き潰された右手を押さえながら、警官3名が悲鳴を上げて尻餅をつき、あるいは倒れて転げ回る。
 彼らに、少女は優しく言葉をかけた。
「軽蔑しているわけではないのよ? 貴方たち白色人種には、むしろ感謝しているわ。侵略と殺戮の歴史を綴りながら、地球上に差別と戦争と貧困の種を蒔き続けてくれて……本当に、ありがとう。虚無の境界としては、とてもやり易いのよね」
 言葉と共に、たおやかな右手を跳ね上げ、鞭を振るう。
 警官たちを見つめる真紅の両眼が、淡く輝く。
 念動力が、鞭に流れ込んで行く。
 半ば肉体的技量、半ば念動力で操られた鞭が、音速を超えながら宙を切り裂き、警官3名を薙ぎ払った。
 3人が、吹っ飛んで倒れ、動かなくなった。全員、首がおかしな方向に伸びている。
 少女は、東洋人らしい平坦な美貌を少しだけ顰めた。
 今日はいささか調子が悪い。調子の良い時は、人間の首の3つか4つは綺麗に刎ねてやれるのだが。
 こんなふうに念動力を武器に流し込んで戦う少女が、あと2人いた。1人は、金属の杖を得物としていた。
 念動力を宿した棒術で、石柱さえも粉砕する、豪快な戦いを得意としていたその少女が、死んだ。
 死んだ、と言っていいだろう。植え付けられていた魂を粉砕され、人形に戻ってしまったのだ。
「そう……あの子、死んでしまったのよね」
 レディ・エム。
 3人まとめて、そのように呼ばれている。
 3人のレディ・エムの、1人が倒された。
 だからと言って、他2人が行うべき事に変更が生ずるわけではない。
 幼い黒人の姉弟が、可愛らしく恭しく跪いて少女を見上げ、両手を合わせている。
 イエス・キリストではなく、レディ・エムを礼拝している。
「おやめなさい。私は、神でもなければ救世主でもないのよ」
 レディ・エムは細身を屈め、子供たちと目の高さを合わせた。
「あなたたちと同じ、小さな人間……だから、共に歩んで行きましょう。大いなる霊的進化への道を」


「そう……あの子、死んでしまったのね」
 呟いてから、レディ・エムはふと思った。
 あの子、とは一体誰の事なのか。
 3人いるレディ・エムの誰か1人を『あの子』などと呼び、他者として認識する。そんな事は、今までなかった。
 3人、全てが自分であった。
 3人いた自分の1人が、失われた。そこでレディ・エムは気付いたのだ。
 失われた1人は、自分などではない。他者という、独立した存在であったのだ。
(あの子は、私とは違う……私も、あの子たちとは違う……)
 今まで抱いた事のない思いが、少女の胸中で渦巻いた。
「……私は……誰……?」
 呟きながら、レディ・エムは目を閉じた。
 そのような疑問など、どうでも良くなってしまうほどの陶酔感が、全身を心地良く麻痺させている。
 天にも昇るような、という表現がある。それに最も近い状態ではないか。
 単なる比喩ではない。聴く者を、物理的にも昇天させてしまいかねない力が、この歌にはある。
 1人の少年が、舞台の上で美声を披露していた。
 聖母を讃える内容の歌が、会場に集まった人々を、昇天寸前の状態に至らせている。
 隣の席では、身なりの良い富裕層の老人が、幸せそうに微笑みながら涙を流している。今にも往生を遂げてしまいそうだ。
 満席であった。チケットは、1日で完売したという。
 広い会場の全席を満たす客たち全員が、目覚めの来ない安楽の眠りに陥ってしまいそうである。
 陥ってしまわぬよう、舞台上の少年は懸命に力を制御している。
 音楽の都ウィーン。
 レディ・エムがここを訪れた目的は、この少年である。神童、楽聖と呼ばれる、世界的な天才ボーイソプラノ。
 そして、欧州経済界の要の1人とも言える銀行家。
 虚無の境界が欧州で行っていた、とある研究への金の流れを、見事に断ち切ってくれた人物でもある。
 排除するか、味方に引き入れるか、それを決めるためにレディ・エムはウィーンを訪れた。
 挨拶代わりにチケットを入手し、こうして歌を聴いている。
 甘く見ていた事を、レディ・エムは認めざるを得なかった。
 うっすらと、目を開いてみる。
 少年が、歌で聖母を讃えながら、こちらを見ていた。
 茶色の瞳が、炎にも似た眼光を宿している。
 その瞳が、じっとレディ・エムに向けられている。
 気付いているのだ。この楽聖は。
 虚無の境界が日本で、ある1人の若者を付け狙っている。
 その若者が、この楽聖にとっていかなる存在であるのか、一応の調べはついている。
(……私を……殺すの?)
 レディ・エムは、真紅の瞳で見つめ返した。眼差しで、問いかけた。
 この少年が、力を解放して歌えば、一体どれほどの事が起こるのか。
 会場を満たす客たちは全員、目覚めの来ない眠りに就く事になるだろう。
 自分はどうか、とレディ・エムは考えた。魂を植え付けられた分身に過ぎない身で、その力に対抗する事は出来るのか。
 良くて相討ち。また1人のレディ・エムが、消えてしまう事になる。
 残る1人は今、アメリカにいる。災害からの復興が思うように進まぬ大国を、虚無の境界に取り込むべく、暗躍している最中である。
 1人はアメリカ、1人はアジア、1人は欧州。そんなふうに分かれてしまった。
 虚無の境界の勢力伸張が、最も順調に進んでいるのがアメリカ。最も苦戦を強いられているのがアジア、と言うか日本においてである。
 かの『東京怪談の国』と比べて幾分は与し易しと思われた欧州にも、しかしこの少年がいる。
 安らかな滅びの力を有する楽聖。
 その力を制御しながら、少年はレディ・エムから視線を外し、何事もなく歌い続けている。
 今は何も考えず、この歌を堪能する時であろう、とレディ・エムは思う事にした。
(いいわ。ウィーンには、ただ観光に来た……という事にしておきましょう)