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<東京怪談ノベル(シングル)>


羽の音

「試着、ですか?」
 その言葉に満面の笑みで頷いた瀬名・雫は、ひとつの衣装を掲げて見せた。
「そう! もうすぐハロウィンだからね。でもさ、これあたしひとりじゃ着られないんだよ。
 ほら、手のところが翼の形になってるからファスナーがつかめないんだね」
 首を出す形の、ほとんど着ぐるみと言って差し支えのない形のそれ。広げてみれば、人の胴に鳥の手足の、いわゆるハーピーという怪物の意匠だった。
 雫に呼び出されて、海原・みなもが訪れたのはちょっとした撮影機材のある、小さなスタジオだった。
 もうすぐハロウィンだからということで、雫はどこからか仮装道具をかき集めてきたようだ。この着ぐるみもそのうちのひとつだという。つるつる、てらてらとした生地の、素材は合成繊維だろうか。安っぽいような気もするが、少し引っ張ってみれば、思っていたよりよく伸びる。かといってでろんと伸びきってしまうようなこともない。縫製も、妙にしっかりと丁寧に作りこまれていた。
「これ、どうしたんですか?」
「仮装アイテムで探してたら、在庫処分中の通販サイトがあってね。
 そこで格安だったから、いっぱいまとめて買っちゃったんだ」
「はあ……」
 タグなどが見当たらないことからも、これはメーカー製ではなく、手作りなのかもしれない。趣味の制作物ならば、安い生地なのに丁寧なつくりなのも、ありそうだな、と。みなもは納得する。
「けど、これ、顔が……」
 首から下は全部作り物だ。人間の、女性の胴だとわかる形はしているが、際どいような箇所は綺麗に羽毛が覆っている。それでも、顔をそのまま出すのではまるで自分自身がそんな格好をしているかのようで、なんというか、少し恥ずかしい。
「大丈夫大丈夫! ほら、ちゃんとかぶるためのマスクも一緒に入ってたんだよ!」
 じゃーん、と言いながら雫が出してきたのは、フィギュアの顔にも似たハリボテ。
 ――それを見たみなもの胸中にふと、妙な薄ら寒さが過ったのは、何故だったのだろうか。
 思わず軽く頭を振ったせいで、みなもの髪が少し乱れた。
「どうかしたの?」
「……え? いえ、なんでも……」
 もう一度ハリボテの顔を見ても、別に怖くもなんともない。
 我が事ながら、なんだったのだろうと首を傾げて、みなもは着ぐるみのファスナーに手をかけた。

 ハロウィン。
 人の世と霊界との門が開いて祖先の霊が訪ねて来る日であり、悪霊が近寄ってくる日。
 古代ケルトにおける年末の収穫祭を由来とするそれに、ギリシャ神話の魔物であるハーピーの仮装を混ぜたことは、雫にとって『面白そうだから』以上の意味などなかった。
 そこに誰かの悪意があるなど、雫もみなもも、思いもしなかったのだ。

(――熱い?)
 それは、確かに『悪意』だった。
 もしこの日、衣装を着たのがみなもでなかったなら、その着ぐるみに籠められた呪いは発動しなかったはずだ。本当は、ハロウィン当日に発動するはずだった呪いが、みなもの着ていた服――これそのものが魔法生物のようなものだった――の有する魔力によって、偶然、誘発されてしまったのだ。
 ファスナーを上げて、顔の形のマスクを被った直後、着ぐるみは突然、熱を発した。
 肌を焼くほどの高温ではなく、さりとて秋風に冷やされた体には確かに感じる温度。
 それはまるで、生きたままの鳥の体内に無理矢理手を入れたような。
「っ!? 衣装が……!」
 着ぐるみの中が、突然膨れ上がる。
 膨れたものが、体にぎゅうぎゅうと押し付けられる密着感と不快感に、思わず体を捩った。
「どうしたの?」
 雫が首を傾げているあたり、外からの見た目には特に変わったことが起きていないようだ。
 ――外?
 みなもははっとする。
 マスクの目のあたりに、たしかに小さな穴が開いている。だけど、小さな穴でしかなかったはずだ。
 どうしてこんなにも、はっきりと外が見えている?
 蒼白になった顔にも、膨れ上がったマスクが密着する。
 口も、目も、すべてが塞がれて、だというのに外は見えて、息はできている。
「みなもちゃん?」
 心配そうにみなものマスクを見上げる雫。
 みなもはその時――彼女を、美味しそうだと、そう思った。
 雫のスパッツの下の健康な太ももは、脂がのっていてとってもジューシーそう。
 その柔らかそうな頬。齧りつけばきっとふわふわと、素晴らしい食感間違いなし。
 制服の合間から見える首筋。――そこに脈打つ血潮は、どれほどの甘露なのだろう?
 噛み付いてみようか――口を少し開けた時、みなもははっとした。
 さっと血の気が引いて、首のうしろが、痛いくらいに冷たくなる。
「嘘、嘘よ、あたし……」
 何を考えた?
 何をしようとした?
 よろめきかけて、気がついた。
 あれほど強く絞めつけていた筈の衣装からの圧迫感は完全に消えうせている。それどころではなく、何かを着ていると言う感触すらほとんど無くなっている。まるで、生まれたままの姿でいるかのよう。
 思わず我が身を見下ろし――それをすぐさま、後悔する。
「い、いや、イヤア!?」
 これはもう、衣装ではない。
 安っぽい素材に見えた生地は今や、柔らかく揺れる羽毛に成り代わっている。人の形の胴は血潮を感じさせるほどに血色良く――ああ、透けるような肌の下に走るあの、赤と青の筋はよく見れば血管ではないか。
 そしてそれら魔物の身体の感じる空気や熱を、みなもは自分の物として今感じている。
 顔も。翼の先を――今のみなもにとっては指先そのものを――頬に沿わせれば、マスクに遮られるはずの羽毛の感触は、確かに頬に触れている。
 みなも自身は知る由もないが、フィギュアめいていたマスクの外観も、すでにみなもの顔そのもの。
(あたしが、魔物に変わっている――!?)
「いヤア、ソンなノ、イヤ!」
 その声は何時の間にか甲高くひび割れて、海鳥の鳴く声のよう。
 唐突に。
 まるで長い、とても長い時間を眠っていて、目覚めた時のように。
 みなもは酷い空腹に襲われた。
「みなもちゃん! みなもちゃん!? 何これ、どうして」
 悲鳴を上げた雫を改めて見る美味しそう違う怯える彼女を少しでも落ち着かせなければ美味しそう助けを呼んでもらって美味しそうお腹が減った駄目だそんな事より美味しそう雫を逃がさお腹減ったこのままではこの子をオナカヘッタ大切な友だオイシソウ。
 オイシソウ。
「シ、ズク、さン……」
 生温かい感触。ああ、これは熱に浮かされた自分の息だ。食欲と興奮で蕩けた獣欲の吐息。
 自らの危機に気づいているのか、いないのか。オイシソウな雫はオイシソウな目をああついばみたい噛み砕いて飲み込みたいオイシソウそうしよういますぐそうしようオイシソウナノダモノソウシナイ理由ナンテナニモナ
「――駄目ぇ!!」
 それが最後の理性。
 人としての思考。言葉。
 悲鳴を上げて、雫を突き飛ばし、みなもはスタジオの外に飛び出す。
 そして、外に出るなり『飛び立った』。
 ――雫はその後、姿を変えたみなもと再会することはついぞなかったと言う。

 アア、オナカガヘッタ。ドウシテサッキノエモノ、食ベナカッタノカナ。
 理由ガアッタハズナンダケド。
 リユウ? リユウッテナニ? ドウイウイミダッケ。
 オナカガヘッタ。ナニヲタベヨウカナ。
 ア、ニンゲンガイル。
 ヤッタ。ウレシイナ。
 ニンゲンノ目玉ッテ、ウフフ、トッテモ美味シイノ!

<了>